呼ばれる家 第2話
「和馬」
昼間だというのに、その声ははっきりと耳に届いた。
昨夜と同じだ。距離がわからない。
家のどこかから聞こえているはずなのに、すぐ背後にも、天井の上にも、空気そのものから滲み出しているように感じる。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
逃げるべきだ。そう思っているのに、足が畳に縫い付けられたみたいに動かない。
いや、違う。
“確かめなければいけない”という感覚が、体の奥にこびりついている。
胸の奥がじんじんと熱く、喉の奥が乾いていく。
「和馬」
また呼ばれる。
今度は、はっきりと廊下の奥からだった。祖母の部屋の方向。
自然と、足がそちらへ向いた。自分の意思ではないような、妙な軽さで。
軋む床。一歩進むごとに、音がやけに大きく響く。
古い木材が、俺の体重を嫌がっているように、ぎしり、ぎしりと鳴く。
昼なのに、家の中は薄暗い。
障子越しの光は白く濁り、まるで外の世界が遠くなったように感じた。
空気は湿って重く、古い畳の匂いが鼻にまとわりつく。
廊下の突き当たり。祖母の部屋の前で、俺は立ち止まった。
襖が、少しだけ開いている。
その隙間からは何も見えないのに、冷たい空気だけがじわりと漏れ出している。
だが、気配がある。間違いなく、“いる”。
「……ばあちゃん?」
気づけば、声が漏れていた。
——しまった。
その瞬間、全身の血が引いた。
背中に冷たい汗がつっと流れる。
“返事をしてはいけない”。
祖母の言葉が、頭の中で強く響く。
だが、遅かった。
襖の隙間が、ぎ……と音を立てて開いた。
ゆっくりと。本当に、ゆっくりと。
中から、暗闇がにじみ出るように、床に影が広がっていく。
「やっと、返事をしたね」
声がした。
それは、間違いなく祖母の声だった。
だが、どこかがおかしい。
音が歪んでいる。水の底から響いてくるような、くぐもった揺れ。
俺は、思わず一歩後ずさった。
畳の縁に足が引っかかり、体がふらつく。
その時、襖の奥から、“それ”が覗いた。
顔だった。祖母の顔。
でも——目がなかった。
ぽっかりと黒い穴だけがある。
その穴の奥で、何かが蠢いている。
光を吸い込むような、底の見えない闇。
口は笑っている。不自然に裂けるほど、大きく。
「和馬」
呼ばれる。
今度は、祖母の顔が二つになった。
いや、違う。後ろに、もう一つ顔がある。
さらに、その奥にも、重なっている。
何枚も、何枚も。
押し込められた人の顔が、暗闇の中でずるりと重なり合っている。
「来て」
腕が伸びてきた。
異様に長い腕。骨の形が浮き出た、乾いた皮膚。
指先が畳を引っ掻くたび、ざり、ざり、と砂を噛むような音が響く。
俺は、はっと我に返った。
全力で逃げなければ。
踵を返し、廊下を走る。
背後で、ずる、ずる、と何かを引きずる音が追ってくる。
壁に影が揺れ、障子が微かに震えた。
「待って」
「和馬」
「どうして逃げるの」
声が増えていく。
一つじゃない。
二つ、三つ、もっと。
家中の空気が、俺の名前で満たされていく。
壁の中から。
床の下から。
天井の裏から。
全部、俺を呼んでいる。
俺は玄関へ飛び込んだ。
靴を履く余裕もない。そのまま外へ飛び出す。
強い日差しが、目に刺さる。
熱い空気が肺に流れ込み、世界が一気に現実に戻る。
振り返る。
家は、ただの古い木造のままだった。
静かで、何もない。
……いや。
玄関の奥、暗がりの中に。
“影”が立っていた。
人の形をした影。
顔は見えない。だが、確かにこちらを見ている。
「和馬」
口は動いていないのに、声だけが響いた。
俺は、逃げた。
振り返らずに、山道を駆け下りた。
その日のうちに、俺は町へ戻った。
山道を下りる途中から、ずっと胸の奥がざわついていた。
アスファルトの匂い、車の音、人の声——そういう“普通の生活の音”が恋しくてたまらなかった。
アパートに着くと、玄関の鍵を閉める音がやけに大きく響いた。
外の光が差し込むはずの部屋は、なぜか薄暗い。
カーテンは開いているのに、光が弱い。
まるで、窓の外に薄い膜が張られているようだった。
俺は母に電話をかけた。
「ねえ、あの家……何なの?」
しばらくの沈黙。
受話器の向こうで、誰かが息を潜めているような気配がした。
「……やっぱり、起きたのね」
母の声は、どこか遠く感じた。
電話越しなのに、距離がある。
部屋の空気がじわりと冷えていく。
「知ってたのか?」
「ええ」
短い返事。
その裏に、言いたくないことを抱えている気配があった。
「あの家はね、“呼ばれる家”なの」
その言葉を聞いた瞬間、背中がぞくりとした。
部屋の隅に置いた本棚の影が、わずかに揺れたように見えた。
「呼ばれる……?」
「昔、あの土地で……人が何人もいなくなってるの」
母の声が震えている。
俺の部屋の空気も、同じように震えている気がした。
冷房なんてつけていないのに、肌が粟立つ。
「理由はわからない。でも共通してるのは——」
母は、一瞬言葉を止めた。
その沈黙の間、俺の部屋の時計の秒針がやけに大きく響いた。
「みんな、“名前を呼ばれた”って言ってた」
心臓が強く打つ。
胸の奥で、何かがひっそりと目を覚ましたような感覚。
「返事をした人は、消えた」
静かな声だった。
その静けさが、逆に怖い。
「……帰ってきた人もいる」
「え?」
思わず声が漏れた。
部屋の空気が、ぴたりと止まる。
「でもね」
母の声が、かすかに歪んだ。
電話の向こうで、何かが擦れるような音が混じる。
「帰ってきた人は、“呼ぶ側”になるの」
その瞬間、電話越しにノイズが走った。
ざざ……という音に混じって、別の“声”が聞こえた。
「和馬」
ぞくり、と背筋が凍る。
「今、聞こえたか?」
「……何が?」
母の声は普通だった。
本当に聞こえていないのか。
それとも——聞こえているのに、言わないだけなのか。
「和馬」
今度は、はっきりと耳元で聞こえた。
俺は、ゆっくりと振り向いた。
誰もいないはずの自分の部屋。
その壁に、黒い染みが広がっていた。
じわじわと、まるで内側から滲み出るように。
湿ったような、鉄の匂いが鼻をかすめる。
そして、その染みの中から——“顔”が浮かび上がった。
目のない顔。
口だけが、にやりと歪む。
「見つけた」
壁の染みの中の“顔”が、はっきりと笑った。
ありえない。
ここは町のアパートだ。
あの山奥の家じゃない。
なのに——
「和馬」
声が、またする。
今度は一つじゃない。
壁、床、天井。
コンセントの穴、押し入れの隙間、換気口の奥。
あらゆる場所から、同時に。
俺は反射的に部屋を飛び出した。
廊下に出る。
だが、異変はすぐにわかった。
——静かすぎる。
昼間のはずなのに、物音ひとつしない。
隣の部屋の生活音も、外を走る車の音も、鳥の声すらない。
まるで、世界から音が抜け落ちたようだった。
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