表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホラー短編集  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/74

呼ばれる家 第2話

「和馬」

 

昼間だというのに、その声ははっきりと耳に届いた。


 昨夜と同じだ。距離がわからない。

 家のどこかから聞こえているはずなのに、すぐ背後にも、天井の上にも、空気そのものから滲み出しているように感じる。


 俺は、ゆっくりと立ち上がった。

 逃げるべきだ。そう思っているのに、足が畳に縫い付けられたみたいに動かない。


 いや、違う。


 “確かめなければいけない”という感覚が、体の奥にこびりついている。

 胸の奥がじんじんと熱く、喉の奥が乾いていく。


「和馬」


 また呼ばれる。


 今度は、はっきりと廊下の奥からだった。祖母の部屋の方向。

 自然と、足がそちらへ向いた。自分の意思ではないような、妙な軽さで。


 軋む床。一歩進むごとに、音がやけに大きく響く。

 古い木材が、俺の体重を嫌がっているように、ぎしり、ぎしりと鳴く。


 昼なのに、家の中は薄暗い。

 障子越しの光は白く濁り、まるで外の世界が遠くなったように感じた。

 空気は湿って重く、古い畳の匂いが鼻にまとわりつく。


 廊下の突き当たり。祖母の部屋の前で、俺は立ち止まった。


 襖が、少しだけ開いている。

 その隙間からは何も見えないのに、冷たい空気だけがじわりと漏れ出している。


 だが、気配がある。間違いなく、“いる”。


「……ばあちゃん?」


 気づけば、声が漏れていた。


 ——しまった。


 その瞬間、全身の血が引いた。

 背中に冷たい汗がつっと流れる。


 “返事をしてはいけない”。


 祖母の言葉が、頭の中で強く響く。

 だが、遅かった。


 襖の隙間が、ぎ……と音を立てて開いた。


 ゆっくりと。本当に、ゆっくりと。

 中から、暗闇がにじみ出るように、床に影が広がっていく。


「やっと、返事をしたね」


 声がした。

 それは、間違いなく祖母の声だった。

 だが、どこかがおかしい。

 音が歪んでいる。水の底から響いてくるような、くぐもった揺れ。


 俺は、思わず一歩後ずさった。

 畳の縁に足が引っかかり、体がふらつく。


 その時、襖の奥から、“それ”が覗いた。


 顔だった。祖母の顔。


 でも——目がなかった。


 ぽっかりと黒い穴だけがある。

 その穴の奥で、何かが蠢いている。

 光を吸い込むような、底の見えない闇。


 口は笑っている。不自然に裂けるほど、大きく。


「和馬」


 呼ばれる。


 今度は、祖母の顔が二つになった。

 いや、違う。後ろに、もう一つ顔がある。

 さらに、その奥にも、重なっている。

 何枚も、何枚も。

 押し込められた人の顔が、暗闇の中でずるりと重なり合っている。


「来て」


 腕が伸びてきた。

 異様に長い腕。骨の形が浮き出た、乾いた皮膚。

 指先が畳を引っ掻くたび、ざり、ざり、と砂を噛むような音が響く。


 俺は、はっと我に返った。


 全力で逃げなければ。


 踵を返し、廊下を走る。

 背後で、ずる、ずる、と何かを引きずる音が追ってくる。

 壁に影が揺れ、障子が微かに震えた。


「待って」

「和馬」

「どうして逃げるの」


 声が増えていく。

 一つじゃない。

 二つ、三つ、もっと。

 家中の空気が、俺の名前で満たされていく。


 壁の中から。

 床の下から。

 天井の裏から。


 全部、俺を呼んでいる。


 俺は玄関へ飛び込んだ。

 靴を履く余裕もない。そのまま外へ飛び出す。


 強い日差しが、目に刺さる。

 熱い空気が肺に流れ込み、世界が一気に現実に戻る。


 振り返る。

 家は、ただの古い木造のままだった。

 静かで、何もない。


 ……いや。


 玄関の奥、暗がりの中に。


 “影”が立っていた。

 人の形をした影。

 顔は見えない。だが、確かにこちらを見ている。


「和馬」


 口は動いていないのに、声だけが響いた。


 俺は、逃げた。

 振り返らずに、山道を駆け下りた。


 その日のうちに、俺は町へ戻った。

 山道を下りる途中から、ずっと胸の奥がざわついていた。

 アスファルトの匂い、車の音、人の声——そういう“普通の生活の音”が恋しくてたまらなかった。


 アパートに着くと、玄関の鍵を閉める音がやけに大きく響いた。

 外の光が差し込むはずの部屋は、なぜか薄暗い。

 カーテンは開いているのに、光が弱い。

 まるで、窓の外に薄い膜が張られているようだった。


 俺は母に電話をかけた。


「ねえ、あの家……何なの?」


 しばらくの沈黙。

 受話器の向こうで、誰かが息を潜めているような気配がした。


「……やっぱり、起きたのね」


 母の声は、どこか遠く感じた。

 電話越しなのに、距離がある。

 部屋の空気がじわりと冷えていく。


「知ってたのか?」


「ええ」


 短い返事。

 その裏に、言いたくないことを抱えている気配があった。


「あの家はね、“呼ばれる家”なの」


 その言葉を聞いた瞬間、背中がぞくりとした。

 部屋の隅に置いた本棚の影が、わずかに揺れたように見えた。


「呼ばれる……?」


「昔、あの土地で……人が何人もいなくなってるの」


 母の声が震えている。

 俺の部屋の空気も、同じように震えている気がした。

 冷房なんてつけていないのに、肌が粟立つ。


「理由はわからない。でも共通してるのは——」


 母は、一瞬言葉を止めた。

 その沈黙の間、俺の部屋の時計の秒針がやけに大きく響いた。


「みんな、“名前を呼ばれた”って言ってた」


 心臓が強く打つ。

 胸の奥で、何かがひっそりと目を覚ましたような感覚。


「返事をした人は、消えた」


 静かな声だった。

 その静けさが、逆に怖い。


「……帰ってきた人もいる」


「え?」


 思わず声が漏れた。

 部屋の空気が、ぴたりと止まる。


「でもね」


 母の声が、かすかに歪んだ。

 電話の向こうで、何かが擦れるような音が混じる。


「帰ってきた人は、“呼ぶ側”になるの」


 その瞬間、電話越しにノイズが走った。

 ざざ……という音に混じって、別の“声”が聞こえた。


「和馬」


 ぞくり、と背筋が凍る。


「今、聞こえたか?」


「……何が?」


 母の声は普通だった。

 本当に聞こえていないのか。

 それとも——聞こえているのに、言わないだけなのか。


「和馬」


 今度は、はっきりと耳元で聞こえた。

 俺は、ゆっくりと振り向いた。


 誰もいないはずの自分の部屋。


 その壁に、黒い染みが広がっていた。

 じわじわと、まるで内側から滲み出るように。

 湿ったような、鉄の匂いが鼻をかすめる。


 そして、その染みの中から——“顔”が浮かび上がった。


 目のない顔。

 口だけが、にやりと歪む。


「見つけた」


 壁の染みの中の“顔”が、はっきりと笑った。

 ありえない。

 ここは町のアパートだ。

 あの山奥の家じゃない。


 なのに——


「和馬」


 声が、またする。

 今度は一つじゃない。


 壁、床、天井。

 コンセントの穴、押し入れの隙間、換気口の奥。

 あらゆる場所から、同時に。


 俺は反射的に部屋を飛び出した。


 廊下に出る。

 だが、異変はすぐにわかった。


 ——静かすぎる。


 昼間のはずなのに、物音ひとつしない。

 隣の部屋の生活音も、外を走る車の音も、鳥の声すらない。


 まるで、世界から音が抜け落ちたようだった。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ