呼ばれる家 第1話
その家には、呼び声がない。
——いや、正確には「呼んではいけない声」がある。
最初にそう言ったのは、祖母だった。
俺がまだ小学生の頃、夏休みになると毎年、山奥の祖母の家に預けられていた。
携帯の電波もろくに届かないような場所で、夜になると本当に静かだった。
山の空気は湿っていて、夕暮れになると木々の影が地面に長く伸びる。
虫の音だけがやけに大きくて、人の気配なんてどこにもない。
風が止むと、世界そのものが息を潜めたように感じられた。
そんな場所だった。
「夜になったら、名前を呼ばれても返事をしちゃいけないよ」
祖母は、夕飯のあと、囲炉裏の火を見つめながらぽつりと言った。
火はぱち、と小さく弾け、煤がふわりと舞い上がる。
その赤い光が祖母の横顔を照らし、皺の影が深く沈んだ。
「え?」
「どんな声でも。お母さんでも、お父さんでも……たとえ自分の声でもね」
その時は、ただの昔話だと思った。
田舎にはそういう言い伝えがあるものだと。
でも、祖母は笑わなかった。
囲炉裏の火だけが、ゆらゆらと揺れていた。
「ここにはね、“呼ぶもの”がいるんだよ」
その言葉の意味を、俺は十数年後に知ることになる。
♢♢♢
祖母が亡くなったのは、それから十五年後のことだった。
葬儀は簡素に済まされ、親戚もほとんど集まらなかった。
山奥の家に来るのは大変だからだ。
俺は大学を卒業したばかりで、ちょうど時間があった。
だから、遺品整理を手伝うことになった。
久しぶりに訪れた祖母の家は、ほとんど何も変わっていなかった。
玄関を開けた瞬間、湿った木の匂いが鼻をくすぐる。
古い畳は少し色が抜け、廊下は相変わらず歩くたびにぎしりと鳴った。
ただ、人の気配だけがすっぽりと抜け落ちていた。
空気が、どこか“空洞”のようだった。
「数日でいいから、片付けお願いできる?」
母はそう言って、ほとんど家に入らずに帰ってしまった。
この家を、あまり好いていなかったのだ。理由は聞いたことがない。
俺は一人で、祖母の家に残った。
最初の夜は、特に何もなかった。
電気は通っているが、古い蛍光灯が時々ちらつくくらいで、静かなものだった。
……ただ、やけに静かすぎた。
外の闇は濃く、窓の向こうはまるで墨を流したように黒い。
虫の声が、ほとんどしない。
昔はあれだけうるさかったのに。
違和感はあったが、疲れていた俺はすぐに眠ってしまった。
♢♢♢
異変が起きたのは、二日目の夜だった。
午前二時頃。ふと、目が覚めた。
理由はわからない。ただ、目が覚めた。
部屋の空気は冷たく、湿り気が肌にまとわりつく。
天井の木目がぼんやりと闇に溶けていくのを見つめていると——声がした。
「……和馬」
俺の名前だった。
母の声に似ていた。廊下の方から聞こえた。
家全体が息を潜めている中、その声だけが異様に鮮明だった。
心臓が一瞬、変な動きをした。
だが、すぐに理性が追いつく。
(こんな山奥に、母が来るわけないだろ)
そう思った。思ったはずなのに。
「和馬……」
もう一度、呼ばれた。
今度は少し近い。
廊下の闇が、じわりと部屋に滲み込んでくるような感覚。
……いや、違う。
「近い」というより、距離がわからない。
音が、空間を無視しているみたいだった。
壁も障子も、そこにあるはずの境界が、声の前では意味を失っていた。
その瞬間、ふと祖母の言葉がよぎった。
——名前を呼ばれても返事をしちゃいけないよ。
全身に、じわっと冷たい汗が広がる。
喉がひきつき、呼吸が浅くなる。
「和馬」
三度目。
今度は、障子の向こう、すぐそこ。
畳の上に落ちる月明かりが、わずかに揺れた気がした。
俺は布団の中で、ぎゅっと拳を握った。
絶対に、返事をするな。
そう思って、目を閉じた。
……だが。
「どうして、返事をしないの?」
声が変わった。
母の声ではない。もっと低く、濁った声。
それでいて、どこか“俺自身”の声に似ていた。
その瞬間、寒気が背中を這い上がった。
「返事、しろよ」
障子が、ミシ……と音を立てた。
開いてはいない。
だが、木の枠がわずかに沈むように歪んだ。
向こうに“何かがいる”のはわかる。
呼吸の音はしない。でも、そこにいる。
見なくてもわかる。いや、見てはいけない。
見たら終わる。
そんな確信があった。
「和馬」
今度は、すぐ耳元で聞こえた。
空気が一瞬だけ凍りついたように感じた。
反射的に体がびくっと跳ねた。
でも、目は開けない。声も出さない。ただ、歯を食いしばる。
すると——ぴたり、と声が止んだ。
完全な無音。
外の闇すら、音を失ったようだった。
自分の心臓の音だけがやけに大きい。
どれくらい時間が経ったのか、わからない。
やがて、いつの間にか眠ってしまっていた。
♢♢♢
翌朝。目を覚ますと、すぐに異変に気づいた。
障子が、開いていた。
昨夜、閉めたはずの障子が、半分ほど開いていた。
風ではない。外は無風だった。
朝の光が薄く差し込み、畳の上に淡い影を落としている。
そして、畳の上に——足跡があった。
裸足の足跡。
泥でも水でもない。うっすら黒い、焼けたような跡。
畳の目に沿って、じわりと焦げが広がっている。
それが、廊下から部屋の中に入り、俺の布団のすぐ横まで来て——消えていた。
喉が乾く。背中が冷たくなる。
逃げるべきだと思った。今すぐ、この家を出るべきだと。
でも。足跡の“向き”が、気になった。
それは、部屋の外から中へ入ってきている。
つまり——“中から出ていっていない”。
俺のすぐそばで、消えている。
その事実が、妙に現実感を持って胸に落ちた。
……まだ、この家にいる。
そう思った瞬間。
廊下の奥から、コト……と音がした。
ゆっくりと、何かが動く音。
木が軋む音。
足音ではない。引きずるような、湿った音。
そして。
「和馬」
今度は、昼間の声だった。
はっきりと。
逃げ場のない現実の中で、呼ばれた。
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