表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホラー短編集  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

60/74

呼ばれる家 第1話

 その家には、呼び声がない。


 ——いや、正確には「呼んではいけない声」がある。


 最初にそう言ったのは、祖母だった。


 俺がまだ小学生の頃、夏休みになると毎年、山奥の祖母の家に預けられていた。

 携帯の電波もろくに届かないような場所で、夜になると本当に静かだった。


 山の空気は湿っていて、夕暮れになると木々の影が地面に長く伸びる。

 虫の音だけがやけに大きくて、人の気配なんてどこにもない。

 風が止むと、世界そのものが息を潜めたように感じられた。


 そんな場所だった。


「夜になったら、名前を呼ばれても返事をしちゃいけないよ」


 祖母は、夕飯のあと、囲炉裏の火を見つめながらぽつりと言った。

 火はぱち、と小さく弾け、煤がふわりと舞い上がる。

 その赤い光が祖母の横顔を照らし、皺の影が深く沈んだ。


「え?」


「どんな声でも。お母さんでも、お父さんでも……たとえ自分の声でもね」


 その時は、ただの昔話だと思った。

 田舎にはそういう言い伝えがあるものだと。


 でも、祖母は笑わなかった。

 囲炉裏の火だけが、ゆらゆらと揺れていた。


「ここにはね、“呼ぶもの”がいるんだよ」


 その言葉の意味を、俺は十数年後に知ることになる。


 ♢♢♢


 祖母が亡くなったのは、それから十五年後のことだった。


 葬儀は簡素に済まされ、親戚もほとんど集まらなかった。

 山奥の家に来るのは大変だからだ。


 俺は大学を卒業したばかりで、ちょうど時間があった。

 だから、遺品整理を手伝うことになった。


 久しぶりに訪れた祖母の家は、ほとんど何も変わっていなかった。

 玄関を開けた瞬間、湿った木の匂いが鼻をくすぐる。

 古い畳は少し色が抜け、廊下は相変わらず歩くたびにぎしりと鳴った。


 ただ、人の気配だけがすっぽりと抜け落ちていた。

 空気が、どこか“空洞”のようだった。


「数日でいいから、片付けお願いできる?」


 母はそう言って、ほとんど家に入らずに帰ってしまった。

 この家を、あまり好いていなかったのだ。理由は聞いたことがない。


 俺は一人で、祖母の家に残った。


 最初の夜は、特に何もなかった。

 電気は通っているが、古い蛍光灯が時々ちらつくくらいで、静かなものだった。


 ……ただ、やけに静かすぎた。

 外の闇は濃く、窓の向こうはまるで墨を流したように黒い。

 虫の声が、ほとんどしない。


 昔はあれだけうるさかったのに。


 違和感はあったが、疲れていた俺はすぐに眠ってしまった。


♢♢♢


 異変が起きたのは、二日目の夜だった。


 午前二時頃。ふと、目が覚めた。


 理由はわからない。ただ、目が覚めた。

 部屋の空気は冷たく、湿り気が肌にまとわりつく。

 天井の木目がぼんやりと闇に溶けていくのを見つめていると——声がした。


「……和馬」


 俺の名前だった。


 母の声に似ていた。廊下の方から聞こえた。

 家全体が息を潜めている中、その声だけが異様に鮮明だった。


 心臓が一瞬、変な動きをした。

 だが、すぐに理性が追いつく。


(こんな山奥に、母が来るわけないだろ)


 そう思った。思ったはずなのに。


「和馬……」


 もう一度、呼ばれた。


 今度は少し近い。

 廊下の闇が、じわりと部屋に滲み込んでくるような感覚。


 ……いや、違う。


 「近い」というより、距離がわからない。

 音が、空間を無視しているみたいだった。

 壁も障子も、そこにあるはずの境界が、声の前では意味を失っていた。


 その瞬間、ふと祖母の言葉がよぎった。


 ——名前を呼ばれても返事をしちゃいけないよ。


 全身に、じわっと冷たい汗が広がる。

 喉がひきつき、呼吸が浅くなる。


「和馬」


 三度目。


 今度は、障子の向こう、すぐそこ。

 畳の上に落ちる月明かりが、わずかに揺れた気がした。


 俺は布団の中で、ぎゅっと拳を握った。


 絶対に、返事をするな。


 そう思って、目を閉じた。


 ……だが。


「どうして、返事をしないの?」


 声が変わった。


 母の声ではない。もっと低く、濁った声。

 それでいて、どこか“俺自身”の声に似ていた。


 その瞬間、寒気が背中を這い上がった。


「返事、しろよ」


 障子が、ミシ……と音を立てた。

 開いてはいない。

 だが、木の枠がわずかに沈むように歪んだ。


 向こうに“何かがいる”のはわかる。

 呼吸の音はしない。でも、そこにいる。


 見なくてもわかる。いや、見てはいけない。

 見たら終わる。

 そんな確信があった。


「和馬」


 今度は、すぐ耳元で聞こえた。

 空気が一瞬だけ凍りついたように感じた。


 反射的に体がびくっと跳ねた。

 でも、目は開けない。声も出さない。ただ、歯を食いしばる。


 すると——ぴたり、と声が止んだ。


 完全な無音。

 外の闇すら、音を失ったようだった。


 自分の心臓の音だけがやけに大きい。


 どれくらい時間が経ったのか、わからない。


 やがて、いつの間にか眠ってしまっていた。


♢♢♢


 翌朝。目を覚ますと、すぐに異変に気づいた。


 障子が、開いていた。

 昨夜、閉めたはずの障子が、半分ほど開いていた。


 風ではない。外は無風だった。

 朝の光が薄く差し込み、畳の上に淡い影を落としている。


 そして、畳の上に——足跡があった。


 裸足の足跡。

 泥でも水でもない。うっすら黒い、焼けたような跡。

 畳の目に沿って、じわりと焦げが広がっている。


 それが、廊下から部屋の中に入り、俺の布団のすぐ横まで来て——消えていた。


 喉が乾く。背中が冷たくなる。


 逃げるべきだと思った。今すぐ、この家を出るべきだと。


 でも。足跡の“向き”が、気になった。


 それは、部屋の外から中へ入ってきている。


 つまり——“中から出ていっていない”。


 俺のすぐそばで、消えている。


 その事実が、妙に現実感を持って胸に落ちた。


 ……まだ、この家にいる。


 そう思った瞬間。


 廊下の奥から、コト……と音がした。


 ゆっくりと、何かが動く音。

 木が軋む音。

 足音ではない。引きずるような、湿った音。


 そして。


「和馬」


 今度は、昼間の声だった。

 はっきりと。

 逃げ場のない現実の中で、呼ばれた。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ