隣にいるもの 最終話
朝、教室に入った瞬間。違和感は、もう“気のせい”では済まなかった。
「……なんだこれ」
思わず立ち止まる。
机の並びが、微妙にズレている。
昨日と同じ配置のはずなのに、自分の席だけ、少し後ろに下がっている。
「おはよー」
クラスメイトが横を通り過ぎる。
誰も気にしていない。普通に席についていく。
「……いや……」
目を凝らす。
やっぱりおかしい。
黒板との距離。
前の席との間隔。
全部が、ほんの数センチだけズレている。
そして、その“ズレた分”だけ――後ろの窓側の席に近づいている。
「……ふざけんなよ……」
喉が乾く。
ゆっくりと自分の席に近づいて、椅子に手をかける。
冷たい。
昨日と同じ感触。
だが。
――ギィ……
勝手に、引かれた。
「っ!?」
手を離す。
誰も触っていないのに、椅子が“座りやすい位置”まで動く。
まるで――俺が座ることを前提にしているみたいに。
「……やめろ」
小さく呟く。
だが、体が勝手に動く。座ってしまう。
――ストン
音が響く。
その瞬間、すぐ隣で満足そうな気配。
「おはよう」
声。
いつもより、近い。
「……来たね」
「……黙れ」
歯を食いしばり、無視する。
反応したら終わる。そう思うのに。
「ねえ」
耳元じゃない。
でも、すぐ横。
「今日、ちょっと進んだよ」
何がだよ。
聞きたくないのに。
「距離」
ぞっとする。
その通りだった。俺の席は、確実に後ろへ寄っている。
「このままだとさ」
楽しそうな声。
「あと少しで、君はそこだね」
視線が、勝手に動く。
後ろの窓側の、あの席。影が、異様に濃い。
「……行かねえよ……」
「行くよ」
即答だった。
「だって――」
少し間があって。
静かに言った。
――「もう、そこにいるから」
「……は?」
心臓が強く鳴る。
「何言って――」
その時。
「健太」
前から声が飛ぶ。
「今日、席替えするってよ」
「……え?」
一瞬、頭が真っ白になる。
「マジ?」
「さっき先生が言ってた」
ざわつく教室。
笑い声。
いつもの空気。
なのに、俺だけが理解してしまう。
これは偶然じゃない。
“調整”だ。
「やったー窓側ほしい」
「後ろ楽だよなー」
軽い会話が飛び交う。
でも、俺の耳には――別の声が重なる。
「ちょうどいいね」
隣の“それ”が、笑う。
「自然に行ける」
「……やめろ……」
「だって」
少しだけ、声が低くなる。
冷たい。
さっきまでと違う。
――「君の席、もういらないでしょ」
「……っ!」
立ち上がる。ガタン、と音が響く。
「おい、どうした?」
周りが見る。
だが、そんなのどうでもいい。
自分の机を見る。名前が書いてある。
はずだった。
「……あれ……?」
手が震える。
机の端。
いつも自分の名前を書いていた場所。
そこに──何もない。
「……消えてる……?」
ありえない。昨日まであった。確かに、自分で書いた。なのに。
「……ねえ」
隣の声。
やけに、はっきりと聞こえる。
「交換しよ?」
ゆっくりと。
俺の机の表面に、何かが浮かぶ。
文字。知らない字。
でも――読めてしまう。
“そいつの名前”。
「……っ!」
目を逸らす。
見たくない。知りたくない。なのに、頭の中に直接響く。
――「覚えて」
「やめろ!!」
叫ぶ。
教室が静まり返り、全員がこっちを見る。
「……健太?」
誰かが言う。
その声が遠く、視界が揺れる。
そして、ふと気づく。
黒板の出席番号。自分の番号。
そこに――名前がない。
「……は……?」
代わりに、知らない名前が書かれている。
さっき、机に浮かんだ名前。
「……なんで……」
声が震える。
その時、隣の“それ”が静かに言った。
――「ほら、もういいでしょ」
次の瞬間。視界が、一瞬だけ暗くなる。
そして――教室の景色が、少しだけ変わった。
俺の席は。もう。
一番後ろの窓側にあった。
気づいたとき。
俺は、座っていた。一番後ろの、窓側の席。
「……は……?」
声が出る。でも、違和感がある。
自分の声なのに、少し遠い。
机を見ると、名前が書いてある。
はっきりと。見覚えのない字で。
でも――それが“自分の名前だ”と理解できてしまう。
「……違う……」
頭を振る。
違う。俺は健太だ。前の方の席に座ってて――
そのはずで――
「……あれ……?」
思い出そうとする。
だが、輪郭が曖昧になる。前の席の景色が、ぼやける。代わりに、この席からの風景が、やけに鮮明になる。
窓の外。
校庭。
遠くの山。
全部が、“当たり前”みたいに感じる。
「……ねえ」
すぐ隣で声がした。
だが、もう驚かなかった。
そこにいるのが、自然に思える。
「やっと、来たね」
ゆっくりと、横を見る。
誰もいない。
でも、確実に誰かが座っている。
「……お前……」
言いかけて、止まる。
“お前”って誰だ?
何を指してる?
わからなくなる。
その時、教室の前で先生が出席を取り始めた。
「一番から順にー」
名前が呼ばれていく。
いつもの流れ。
いつもの声。
だが。
「二十八番」
少し間があって。
先生が、自然に続ける。
「――はい」
声がした。
自分の口から。反射的に。何の違和感もなく。
「……あ」
遅れて気づく。
今のは、自分の声だ。
でも。その名前は――知らないはずなのに、ちゃんと返事していた。
「……おかしい……」
小さく呟く。
だが、誰も気にしない。クラスは普通に進んでいく。
隣のやつも。前のやつも。
みんな、普通だ。
そして、前の方の席を見る。
そこに――誰かが座っている。
「……っ」
目を凝らす。
見覚えがある。
その横顔。
その姿勢。
その髪型。
俺だ。
「……なんで……」
声が震える。
でも、すぐに違和感が生まれる。
あれは、本当に“俺”か?
なんでそう思った?
根拠は?
思い出そうとする。だが、思い出せない。
「ねえ」
隣の声が、優しくなる。
「もういいでしょ」
「……何が……」
「無理に思い出さなくていいよ」
静かに。穏やかに。逃げ道を塞ぐみたいに、そう言う。
「だってさ」
少し笑う気配。
――「最初からここだったんだから」
「……違う……」
否定する。
でも、弱い。確信がない。記憶が、揺らいでいる。
前の席の“自分”を見る。
そいつは、普通にノートを取っている。誰かと話して、笑っている。
まるで、最初からそこにいたみたいに。
「……あ……」
頭の中で、何かが切れる。
思い出が薄くなり、消えていく。
健太という名前。
友達の顔。
昨日までの自分。
全部が、遠くなる。
「……やめ……」
声が出ない。
言葉が崩れる。
その時、隣の“それ”が、最後に囁いた。
――「交代、完了」
次の瞬間、何かがすっと抜けた。
体が軽くなる。頭の中が、静かになる。違和感が、消える。
「……あれ」
自然に、前を見る。
授業が続いている。
先生の声。
チョークの音。
普通の教室。
そして、自分は一番後ろの窓側の席に座っている。
それが当たり前で。それ以外のことは、何も思い出せない。
「……」
ふと、前の席を見る。
見知らぬやつが座っている。さっき、変なこと言ってたやつ。
名前、なんだっけ。どうでもいいか。
その時。そいつが、少しだけ後ろを振り向いた。
一瞬目が合う。妙な違和感が走る。
でも――すぐに消える。
「……?」
首をかしげる。
何もおかしくない。ただのクラスメイトだ。そのはずだ。
その時、頭の中に声が響いた。
今度は、もっと遠くから。かすれていて弱く。
――「……た……すけ……」
「……?」
一瞬、何かを感じる。
でも、掴めない。すぐに霧散する。
代わりに、隣からはっきりとした声。
新しい声。楽しそうな声。
――「ねえ」
ゆっくりと、次の席を見ている気配。
――「次、あそこ空いてるね」
教室は、何も変わらない。
笑い声も。
授業も。
日常も。
ただ、誰も気づかないだけで、席はひとつ多いまま。
そして、それは少しずつ増えていく。
気づいたやつから、順番に。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




