証なき存在
夜空は月の光を借りて漆黒の闇から藍色へと、その顔つきを柔らかいものへと変えていた。
しかしながら、蝋燭と行灯の火は不安定に揺らめく。八木邸の室内には、月明かりはおろか数多の星の煌めきも決して届くことはない。
「──では、貴女の言い分として、御母堂の墓参りの後、一人でこの屯所に来たところで気を失い、木の下に倒れていたと……」
「……はい、そうです。市村の家は壬生寺にお墓があって……江戸から母の故郷である京都へ納骨しに来たんです。その後、私は一人でここへ訪れました」
「そうでしたか。では、市村殿は何ゆえ一人で屯所に参られたのですか?」
「それは……和菓子を買いに来たんですけど、拝観ができたので入ることに……」
「此処はね、貴女のような乙女が気軽に足を踏み入れる場所ではないのだよ」
丁寧な言葉で辛辣なことを言われると身に堪える。暗がりで淡褐色に沈んだ瞳に映る山南は味方にはなってくれなかった。
「八木邸は……私の時代にはもう誰も住んでなくて……。文化財になっているので、見学料を払えば誰でも入れるんです」
更紗がぽつり、ぽつりと角が立たないように弁明したところで、何も意味はなさなかった。男たちは誰も喋らない。積み重なった石のような沈黙が続く。
「気軽に……と言われたらその通りかもしれないけど……悪意があって見学に来たわけじゃないし……」
その重苦しい静寂に水を差すかの如く、遠くかなたで鳥とも獣ともつかぬ不穏な鳴き声が聞こえた。
「こんなことになるなら……来るんじゃなかった……」
和菓子を買いに行かなければよかった。拝観できると知って興味を持たなければよかった。そもそも失われた自分のルーツを知りたいだなんて思わなければよかったのだ。
まさか時空を超えて自分の目で見ることになるとは……神様は情け容赦ないものである。
いくらこの時代の人間に正直に話そうとも、浮かべる反応は皆同じ。常識ではあり得ないのだから、男たちからの仕打ちにもいよいよ諦めがつく。
「……仮に、ですが。貴女の言う事が偽りでなく真だとしましょう。それを示す証はありますか?」
「……証? 私が別の時代から来た証拠ってことですよね……着ている服が違うのは、証拠になりませんか?」
「それだけでは、何とも」
更紗は山南の返答を聞いて、がくりと項垂れた。縄の這わされた制服姿の半身を見つめれば、耐え難い焦燥を感じていく。やっぱりまだ諦められない。
「何か、証明できるもの探します。縄をほどいてくれたら……」
「縄は解きませんよ。目ぼしいものがないのは既に聞いていますから」
「……そんなぁ、どうしよう……」
スマホや財布、化粧ポーチなどがあれば未来人だと証明できるかもしれない。でも、今日に限って荷物は全て鞄の中に入れていた。
その大切な鞄は不運にも現代へ置き去ってしまったようだ。この時代に存在しない服も認めてもらえない上に、縛られたままでは手持ちのものを出すことさえ────
「……そっか。物じゃなくて……知識で証明すればいいじゃん」
何も目に見える形で証明しなければならないルールがあるわけではない。
今、自分の持てる知識の全てを掘り起こして、彼らしか知り得ない情報を持ち出せば……。もしかすると認めてもらえるかもしれないと、沈んだ心に微かな光が灯り始める。
「私の時代に伝わっている新撰組の話はどうですか?」
「……しんせんぐみというのは、何かな?」
「皆さんがこれから名乗ることになる名前です。どういう感じで付けるかは分からないけど……」
「これから名乗る事になる名前、ですか……」
曖昧な顔つきで首を傾げる山南を目にした更紗は、これからやろうとする自身の行動に罪悪感と不安を感じずにはいられなかったが。
(……生きるためだもん。大丈夫、伝える情報をちゃんと選べばいい)
たとえ時勢に詳しくなくても、歴史の大きな流れは理解している存在だ。だからこそ、自分の発言で未来を変えるような予言となってはならない。
嘉永六年(1853年)アメリカの軍人ペリーが4隻の黒船で来航し突如、鎖国真っ只中の日本へ開国を要求する大事件が起こる。
当時の政治権力者であった徳川幕府はやむを得ず受け入れた。しかし、民衆の不満は爆発し、そう遠くない未来に幕府は終焉を迎えるだろう。そんな幕府に仕える新撰組は現時点で己の運命を知ってはいない。
万が一にでも未来人の発した言葉で歴史が様変わりし、未来で繋がるはずだった人の縁さえ消えて無くなることがあれば……。己の命を投げ出したとて償いきれるものではない。
「……えっと、後に新撰組の局長になる近藤勇さんは……げんこつが口に入るとか……。あ、沖田さんは甘いものが好きですよね? 後、子どもも好きだったとか……言ってたはず」
口から出た言葉の程度の低さに、更紗は我ながら酷いものだと苦笑いを浮かべていた。
これはもう幼馴染のせいだ。幕末史好きの央太から聞かされて、何となく覚えているエピソードは取るに足らないものばかり。どうせなら、母から聞いた昔話を思い出したいのだが。
「……ご明察。私が甘味好きだなんて何で分かったんだろう。子供も好きだよ。近藤先生も酔っ払って機嫌が良いと口を開けて拳骨を丸ごと入れるし……」
「悪りいな、総司。次は俺様の番だぜ」
今度こそ目を丸くした沖田の隣に膝を立て座り込んだ男は、裾から出た脛を露わにしたまま、ニヤリと歯を見せて笑いかけてくる。
「別嬪の姉ちゃんよ。天下の左之助様の武勇伝、何か伝わってねぇかい?」
その名前にピンとはこなかった。しかし、熱い眼差しで見つめられれば、何か言わなければと胸がざわついた。
「………あなたは、誰ですか?」
「何だよ! あの世では原田左之助の名は知れ渡ってねぇのか。面白くねぇな」
「……原田左之助。あ、確か……切腹傷の人? 違ったっけ……」
「よく知ってんじゃねぇか。ひょっとして……俺の腹を撫で回してた一昨日の夜鷹じゃねぇだろうな?」
「……よたかって、どういう意味ですか?」
「いや、分かんねぇならいいんだ。こんな目立つ女に相手して貰ったんなら……こちとら暗がりでも忘れはしねぇからな」
伊達男は慣れ慣れしかった。ガシガシと頭を撫でられた更紗は身を引くが、伸びてきた手に抗うこともできず、思いきり顔をしかめる。
「ちょっ……触らないで……」
助けを乞うように山南に視線を送れば、ふっくらとした頬を緩めて小さく頷いてくれた。
「原田君。市村殿は色里の女子ではない故、誠忠浪士組の隊士としてあるまじき行いは慎むように」
「相変わらず、山南さんは堅えなァ。からかっただけじゃねぇか……姉ちゃんよ。次はこの御仁の秘密の一つや二つ、暴いてやろうぜ」
縛り縄から手を離して立ち上がった原田は、スタスタと続き間のほうへ歩いていった。締め切っていた障子に手を掛け、勢いよく開け放つ。
暗闇に慣れてきたせいで思いの外、夜空が明るく見えた。まだ希望はあるのかもしれない。更紗は鼓動が早くなるのを感じながら、次の思案を巡らせる。
「……あの……山南さん」
「はい、何でしょう」
「……違ったらすみません。明里さんには……?」
ぽつりと、一人の女性の名を呟けば、男の顔に張り付いていた笑顔が僅かに崩れる。
縁側から室内へと流れ込む風が更紗の下ろし髪をさらさらと揺らせば、消え入りそうになる蝋燭の火を守るように山南が手を添えた。
「……成る程。そう来ますか。良いでしょう。土方君、君はどうしますか?」
「無論、偽りだろう……が。仕方あるめぇ」
吹き抜ける夜風を浴びていた土方は、ゆらりと柱に預けていた身を起こすと、悠然とした足取りで更紗のほうへ歩みを進めてくる。
漆のように黒い長髪が背後で左右に動く度に、月明かりで絹糸のような美しい艶を見せる。それは端正な顔立ちをより際立たせた。
「さて、おめえさんは俺の何を知ってんだ」
「……女性関係が派手だったとか」
「話にならねぇな」
「……実家がお金持ちとか何とか……」
「調べりゃ分かる事だ」
土方から端的に落とされる味気ない言葉は、更紗の胸の内を照らし始めた灯火を即座に消し去る威力を持っていた。
チラリと見上げた淡い瞳に映るのは、片眉を上げて挑発的に見下ろす冷たい眼差しだ。その闇に打ち勝てなければ、生涯この目に光を宿すことは叶わないかもしれない。
「……梅の花、一輪咲いても……何だっけ」
過去の記憶を必死に掘って思い出したのは、目的の俳句ではなく。ある人物の意外な一面を面白おかしく語る、幼馴染の笑い声だった。
脳裏に浮かぶその笑顔が恋しい。あの時一緒に来ていたら、今ある未来も違ったのだろう。目頭が熱くなってくるが、滲む視界に映る男の顔は、炎に照らされほのかに赤かった。
「……おい、いつ見やがった」
「え、土方さん。もしかしてアレ持ってきたの?」
「総司、てめえは黙ってろ」
「だって、武士になる俺には俳人の心はいらねぇな、欲しがる女にくれてやるか、なんて偉そうに言って…」
シュッと空を切る音が頭上を掠めるや否や、目前に座っていた青年が素早く木刀を手に取り、横に構える。
鞘から抜かれる事なく振り下ろされた刀は木刀へ当たり的外れな音を出すが、その風圧で女の傍にあった蝋燭の火がフッと消えてしまい。
「……私を斬ろうなんて、三年は早いですよ」
「三年なんざ、直ぐに超してやるさ」
静まり返った部屋に響き渡る男たちの声色は、僅かな殺気を含みつつも武道を嗜む者だけが分かる遊び心を匂わせるものであった。
更紗はそれでも、縛られた両の手に汗が滴るような緊張を感じた。今すぐにでも闇と化した炎のように、この場から消え去りたいと願って止まなかった。




