一か八か
太陽を失った空は刻々とその紫陽花色の表情を濃いものへと変えていく。
ぱちくりと碧色の瞳を瞬いた更紗は、遠くに響く鴉の鳴き声を耳に捉えた。潮が引いたような静けさに身を沈めていく。
(……え……今、沖田総司って……?)
あまりに堂々と歴史上の人物の名を騙るとは。少年にある種の悪意を感じるも、当の本人は悪びれもせずニコニコと微笑むばかりである。
(……何でそんな……分かりきった嘘を言うんだろう)
掴めない猜疑心が追い討ちをかけるように少女へと迫れば、均衡を取るかの如く刃を向けていた男も抜き身を鞘に戻していく。
更紗は命拾いした安堵から放心状態でその男を見つめる。色白で肌が綺麗だった。端正な顔立ちであるがゆえ、無表情を決め込まれると何を考えているのか予想がつかない。
「壬生浪士組副長、土方歳三」
乾いた低い声が視線の先に落とされれば、それを攫うかの如くびゅう、と冷たい春風が通り過ぎてゆく。
下ろしたままの栗色の髪が揺らいだ。男の背後で散った桜の花弁は、地面へと音もなく着地した。
「……えっと……それって、どういうつもりで言って……」
狐に化かされるとはこういうことなのか。冗談など絶対に口にしそうにない無愛想な美丈夫から紡がれた言葉は、耳を疑うものであった。
誠忠浪士組と壬生浪士組。沖田総司と土方歳三。半分は知らなくて、半分は知っている言葉。でも、彼らは新撰組を名乗っているはず。
手に付着していた土のことなどすっかり忘れてしまっていた更紗は、額に指先を添えるとそのまま頭を掻いた。
「……私、和菓子屋さんに来たんだよね? それで八木邸の見学ができるって聞いて……」
首を傾げながら周囲を見渡してみるが、高揚収まらぬ気分のせいで目に映る光景全てに大きな違和感を抱いてしまう。
「土方さん、違いますよ。芹沢先生が誠忠浪士組って命名してたじゃないですか。忘れたんですか?」
「忘れちゃいねぇが、あの野郎が人の意見も聞かず勝手に付けただけだろう。無効だ」
「そんな無効だなんて……あれは水戸学の教えに基づいた武士の目指すべき姿だとか云々言ってたじゃないですか。勝手なことしたらまた近藤先生が怒られちゃいますよ」
「そりゃあ上等じゃねぇか。今度こそ売られた喧嘩は俺が買ってやる。手始めに庭に火でも点けてやるか」
「……まだ本庄宿のこと根に持ってるんですか。いい加減、許してあげたら……」
話し込む男たちの背後に立つのは旧八木邸。その玄関に散乱するのは、男物の下駄や藁で編んだ草履ばかりで、靴は一足も見つけられない。
枯れた古井戸から水が滴っていた。縄を巻き付けた青竹の丸桶が井戸蓋の上に乗せられている。まるで眠っていた遺物が息を吹き返し、リアルに使われているような……。
「……すみません。今って、何年ですか?」
唐突に呟いた更紗は、脳裏を過ぎったとんでもない思案に体内を巡る血液が凍るような不気味さを感じていた。
「……何だと?」
「答えて下さい。今日は西暦何年何月何日ですか? 令和でもいいですからお願い……」
「てめえ、何言ってんだ? 総司、女の言ってること分かるか」
「いや、分かんない……けど。れいわ、って何だか冷たい甘味の名みたいだなぁ」
ガツン、と頭を殴られたような衝撃。現代を生きる人間とは思えない返答だった。少女の不安は一瞬で色濃いものへ変わっていく。
「いやいや、令和がお菓子のわけないじゃん……えぇ……?」
同じ日本にいるはずなのに、話が通じない。男たちと自分との間に透明な鉄壁が立ちはだかっているように錯覚するほど、持ち合わせる知識や価値観が一致しないのだ。
「……じゃあ、平成は分かりますか? 昭和は? 大正は? 明治は!?」
「お嬢さん、何をそんなに焦ってるの? 弥生は変な人が増えるなぁ」
「弥生って……何で3月って言わないんですか! 冗談はもういいから……」
その場にしゃがみこんだ更紗は、両手で顔を覆った。目の前にいる男たちが嘘を吐いていないことは、少し前から気づいてはいた。
それでも、にわかには信じ難い現実を前にすれば、この身に起こった出来事を全否定したくなるのだが。
(……真面目にちゃんと考えよう。私に何が起こってる……?)
全身に響き渡る鼓動に神経を集中させれば、先ほどまで聞こえていた声が遠くなっていった。自然の織り成す音さえも鼓膜には届かなくなっていく。
この地に足を踏み入れた瞬間に事故のような衝撃を受けたのは確かだ。直後、目に見える世界の全てが古めかしいものへと変わり果てていて────
「……タイムスリップとか……本気なの……?」
懸命に導き出した結論だった。それは空想の世界だけだと思っていたタイムトラベルという名の時空超えの現象であった。
しかしながら、騙されている疑念はまだ捨てたくない。それが最後であり、唯一の望み。現実的にどちらがあり得ないかは、考えれば分かることだ。更紗は諦めそうになった希望を胸に振り返る。
(……早く……祇園に帰らなきゃ……)
後方に立ちはだかる長屋門を抜ければ、元いた令和の時代へ戻ることができ、全てをなかったことにできるかもしれない。
いや、そもそも時代劇の撮影に紛れ込んでしまっただけ。外に出れば観光客でにぎわう和菓子屋が目に入り、あっという間に四条通りへと出られるはずで。
(……門を……出なきゃ……!)
更紗はゆっくりと立ち上がる。気づけば地面を蹴り上げ、後方へと駆け出していた。
門を潜ったところで人の気配はなかった。でも、ここで止まるわけにはいかない。助けを求めて目的の道へとがむしゃらに走っていく。
「てめえ、逃げる気か! 手向かえば斬り捨てるぞ!!」
後ろから怒声が響き渡る。それが耳に届く余裕もないほど焦っていた更紗は、足がもつれそうになりながらも大通りへ向かった。
刹那、町家が立ち並んでいた道を曲がり、こちらへ身体を向ける体格の良い男性が、視界に飛び込んでくる。
「左之! その女を力尽くで止めろ!!」
「えっ? お、俺ェ!?」
男たちから遠ざかる代わりにどんどん距離が近づく。大柄の男は、わけの分からない顔つきのまま、行く手を阻むように長槍を真横に突き出した。
「……な、何で女が屯所にいんだァ!?」
まるで鳩が豆鉄砲を食ったような、驚きに満ちた顔だ。それを睨みつけた更紗は、身を屈めその長槍の下を潜り抜けていく。
勢いそのままに路地を駆け抜けようと八木邸の前を曲がった瞬間、碧色の瞳に映し出された光景に、動いていた足がゆっくり止まる。
「……嘘、でしょ……」
賑やかな住宅街はおろか一方通行であった細い道もない。古い木造の建物がぽつり、ぽつりと点在する田園地帯が広がっていた。
視界を遮る電柱や建物はどこかへ消えてしまったようだ。群青色へと変貌を遂げる空はとても広く、輝き始めた星はより明るく感じるものである。
既に暗くなりつつある足元はコンクリート舗装でないばかりか、革靴を擦る度に土埃が舞う畦道に成り果てていて。
「……やだ! 何で……」
更紗は慌てて振り返った。和菓子屋の店舗が跡形もない。旧八木邸の門も見入るが、誠の文字が書かれた赤い旗も白と水色の垂れ幕も掲げられていなかった。
「……ど……どうしよう……私……」
性急に襲われる激しい動悸に気が動転して言葉が見つからない。少女は青ざめた顔を四方八方に向けながら、声を張り上げる。
「……ここは……どこ!? どうやったら……帰れるの!?」
話が通じないのは、彼らではなく自分のほうだった。この世界は自分の知っている令和の日本ではない。
親の庇護を失い、この見知らぬ幕末の世に放り出された女は、もう守られるだけの少女ではいられなかった。
全身の力がふわりと抜けた更紗は、打ち震える足で身体を支えることができない。絶望に背中を押されたように、その場へと崩れ落ちた。




