空蝉
蝉は、地上で七日間しか生きられない運命であろうとも、生きた証しを残していく。その耳に残る声は、人々に夏の記憶を植えつけた。
誰もが有限の命を燃やしている。夏真っ盛りの大坂は、午前といえども御天道様の加護に包み込まれていた。
縁側に座る女は団扇を弱々しく扇ぎ、生温い風を肌に当てる。
「……暑い。京より大坂のほうがマシかと思ってたけど、どっちもどっちですね……」
夏が到来した壬生村は案の定、蒸し暑かった。夜も思ったより涼しくならず、寝苦しい。
下坂が決まった時、更紗は内心ホッとしていた。潮風が吹く大坂なら、少しは過ごしやすくなるはず。期待したが、肌に触れる温風には不快なベタつきがあった。
「市村君は暑さに弱いのかい? 昨晩も寝付けてなかったろう」
「……弱いというか。団扇一つで挑む夏は初めてです……」
「ならば、市村君は、どのような涼の取り方をしていたんだい?」
「……嘘みたいな話なんですけど。あの世には、部屋を春の涼しさにしてくれる四角い箱がありまして……。あと……移動中は、高速で回る風車みたいなのを、顔に当ててました」
「……そうですか。それはとても涼しそうだ。私も見てみたいね」
ニッコリと微笑む山南に更紗は力なく笑った。この顔は信用できない相手に向ける顔だ。ひとつ屋根の下で暮らしても、未来から来た事実は、まだ受け入れてはもらえていない。
ただ、そんなことは取るに足らないこと。毎日、大なり小なりトラブルは起こる。女の正体に構う暇など、浪士組の男たちにはないのだ。
今だって、心中穏やかではない。昨夜、寝られなかった理由は、単に暑くて寝苦しかったからではなく────。
「……昨日、捕まえた人たちは、もう橋から奉行所に運ばれましたか?」
「いや、明日までは、首を晒すはずだ。体のほうは傷みが酷くてね……引き取ってもらったよ」
犯人の町人たちは、昨夕、山南含む六名の隊士によって捕縛された。
罪状は壬生浪士組の筆頭局長を騙り、大坂の両替商、鴻池屋に破格の三千両を押し借りしたこと。奉行所から問い合わせで知った芹沢鴨は、当然の如く激昂した。
下坂した浪士組は、隈なく探索した甲斐あってか、複数の犯人を捕まえた。浪人でもなかった男たちに拷問を加えた末、罪状を記した札と共に、橋の上でさらし首にしたのである。
更紗は、処断の場に立ち会ってはいない。ただ、命を乞う男が引き摺られていくのは見た。そして今、公衆の面前で晒されている。家里の切腹には、まだ救いがあったのかもしれない。
「市村君、大丈夫かい? 顔色がまだ優れないが……」
「……大丈夫です。少しずつ……受け止めないといけませんよね」
「……そうだね。浪士組に身を置く者は、避けて通れない道だからね」
蝉の声に混じる穏やかな声色は、夏の記憶に苦痛と恐怖が刻まれたことを、教えてくれる。
世に名が売れだした壬生浪士組に与えられた職務は市中見廻りが主だ。巡察に出た隊士が血を浴びて帰ってくることが、日毎に増えていた。
更紗も自己防衛で相手に怪我を負わせてしまっている。もう、偽善の綺麗事を言うつもりも、言える立場でないことも理解していた。
それでも、人の命が消えゆく瞬間は苦しい。見捨てる自分が薄情にも思える。行き場のない感情はどうすれば昇華させられるのだろう。いつか彼らのように割り切れるのか────。
「……山南さんは皆さんと一緒に行かなくて良かったのですか? 今日は、確か……大坂相撲の……」
「ああ、小野川部屋の力士たちと交歓する日だったね。暑さのせいか、私も如何せん気分が優れなくてね」
山南は分が悪そうに苦笑いを浮かべた。その手に茶器を取ったので、更紗も合わせるように茶器に手を伸ばす。空いっぱいに広がる入道雲を二人で黙って見つめた。
遡ること一ヶ月前────、屯所で平和な毎日を過ごしていた頃、下坂した芹沢一行は、妙な縁で鉢合わせた大坂力士ととんでもない事件を起こしていた。
沖田が言うには、橋の上でどちらが道を譲るかの小競り合いから始まった。話はついたはずなのに、浪士組が上がった住吉楼へ六角棒を手に力士たちが乗り込んできたそうだ。
その数、二、三十人ほど。浪士組は京屋に残る近藤と井上を除いた八人。劣勢かと思いきや、命を賭して戦う剣士が相撲取りに負けるわけがなかった。
そして、力士に死傷者が出てしまう。小野川部屋の親方が奉行所に駆け込んだものの、既に芹沢から知らせを受けた近藤は、一足先に『無礼討ち』として届け出ていた。
武士の切捨御免がまかり通る時代。非はなくとも力士側は謝罪するしかない。大坂相撲からお詫びの金五十両を受け取った壬生浪士組は、代わりに酒宴を開いて友好関係を築こうとした。
「……本音を言えば、吉田屋へ行くのを遠慮したかったのかもしれないなぁ」
「吉田屋って、新町遊郭の……ですよね?」
「大坂の遊女は押しが強くてね。私はどうも上手く断ることができなくて、相手に不快な思いをさせてしまうんだよ」
「山南さんが不快に、ですか? そんなことないと思いますよ」
「想いを寄せた人がいると伝えてしまうのは、遊郭では御法度だろう」
困ったような、照れた顔つきだった。意外な山南の姿を見た更紗は、その言葉の中に誠実な愛を見た気がして、心が一瞬で温かくなった。
実は、その恋の行方が気になってはいた。更紗は周りに誰もいないことを確かめると、茶器に口をつける山南に近寄り、ぼそりと小さく声をかけた。
「明里さんとはその後……どうですか?」
「ああ、お陰様で馴染みになる事が出来たよ」
「あの……馴染みっていうのは、その……」
「非番の日は一緒に寺社巡りをしているんだ。季節の花を見つけて楽しんでいるよ」
「わぁ……素敵ですね! おめでとうございます」
「ありがとう。市村君に知られているのは、不思議ではあるけれどもね」
微笑む山南は、さっきと違って飾らない顔を見せてくれる。更紗は嘘のない笑顔を返せたか、不安になった。未来を知る者だけに与えられた罪悪がまた胸の奥に小さく刺さる。
現代に語り継がれている新撰組の悲恋は、彼の迎える壮絶な最期と共に、更紗の心を捉えて離さない。でも、それが真実なのかは、その時が来るまで分からない。
今、自分にできることは、目まぐるしく過ぎる毎日に置いていかれないように、彼らと一緒に懸命に生きていくだけ────。
「そういえば……市村君にも、恋仲の人が出来たそうだね」
「私ですか? いきなり何を言い出すかと……いないですよ?」
「そうなのかい? 原田君が周りに聞き回って相手を探していたから、もしかしたらと思ってね」
人の噂も七十五日が本当なら、あと一ヶ月、このゴシップに付き合わなければならない。
(……動く拡声器でほんと困る……でも、一番問題なのは……)
犯人の色男は、まるで他人事だ。酒の席でその話が出ても、傍観者として楽しんでいた。自分だけがトラブルに振り回されている。はっきり言って腹は立つ。
それでも、許す気になったのは、現行犯で捕まえられなかった自分の落ち度と、前川邸に湯船付きの風呂小屋を本当に作ってくれたから。
木樽の端に太い鉄筒が突き刺さった、初めて見る「鉄砲風呂」という湯船だった。その筒の中に薪をくべ、湯船の中で水を温める仕組みだ。熱い鉄筒には絶対に触れてはいけない。
土方が火傷をしない湯船の入り方を教えてくれた。薪代も踏まえて入れるのは幹部以上、一番風呂は局長だ。次からは先着順だが、誰に聞いても先に入れと言ってくれる。
正直、今はもう感謝しかない。怒りが湧いても風呂に入れば静まるのだ。
「……原田さんの言うことは、聞き流して下さい」
「そうするとしよう。でも、実はね、噂を聞いたんだよ。此処へ来る前に想い人と別れたと……」
「……そんなの、誰が言ってるんですか?」
「ううむ、誰だろうね。市村君のことを慕っている隊士は沢山いるからなぁ」
ふっくらした頬を緩める山南は、こちらから自発的に話すのを待っているようだ。にこやかに、その目線を外そうとはしない。
他の男たちと違って、声を荒げることはない。ただ、何事でも欲しい答えがもらえるまで譲らないのだ。彼の粘り強さは、自分には逆らえないと分かってくる。
「噂の通りです……恋人はいましたけど、色々あって振られちゃいました」
「それは……私が訳を問うのは無粋かな」
流石に立ち入りすぎたと思ったのだろう。気まずそうに頭を掻く山南を見て、女は首を横に振った。ここで打ち明けたら、やっとお互い様だ。更紗は団扇を仰ぐ手を止め、一呼吸置いた。
「いいですよ。山南さんの言葉を借りるなら……御法度の恋だったんです」
「御法度というのは……身分違いの恋かい?」
「身分違いの恋……そうですね。好きになってはいけない人でした」
身分違いと思ったことはなくても、世間から見ればそういうことだ。卒業まで待つべきだった。お互いの立場を軽んじていたのかもしれないと、今となって気づくこともある。
後悔は数え切れないほど────。病の母を悲しませたことも、愛する人に退職を選ばせたことも、周りにたくさん迷惑をかけたことも。結局、自分だけが何も変わらずにいた。
そして、一歩を踏み出した道は、運命の悪戯か自分の知らない場所へと続いていた。
「辛いことを思い出させてしまったかな?」
「……いえ、大丈夫です。でも、やっぱり恋には臆病になってしまいますね」
「恋はするものではなく落ちるものだからね。その時が来れば、自分ではどうにもならないものだよ」
恋はするものではなく落ちるもの。
落ちるところまで堕ちた二人が行き着く先に、安住の地はない。愛するその人が幸せになれるなら、別れはきっと必要だ。
「……そうですね」
じわりと汗ばむ身体を伝うのは気持ち悪さを含んだ雫だった。
早鐘のように打つ鼓動がまだ苦しみから逃しはしないと唆すように、胸の奥を痛め付けてくる────。
「山南副長と更紗さん、此方にいらっしゃったんですか」
重苦しい空気を一蹴する心地よい風が吹き抜けてゆく。二人は同時に振り返る。そこには、襖を開けて爽やかに笑う愛次郎が佇んでいた。
「あれ? 愛次郎さん戻ってきたんですか? 吉田屋には……?」
更紗が語尾を濁しながら尋ねると、そのうら若き青年は額に張り付いた髪を整えた。二人のいる縁側へ歩みを進めていく。
「……何となく気が進まなくて。あぐりもいますしね」
「それなら、無理しなくていい。良かったら一緒にお茶でもどうだい?」
「有り難うございます。お邪魔でなければ失礼します」
大刀を袴から抜き取り、そろりと腰を下ろす愛次郎に山南は微笑んだ。空の茶器に色の薄い茶を注いでいく。
昨日の捕縛において、犯人の常宿を突き止めたのは愛次郎であった。
大坂の出身である彼は界隈の人脈に長けていた。そのツテを使って不逞浪士の人相を元に、潜伏情報を掴み取った。
けれども、彼もまだ更紗と同じ十八歳。自分の手柄によって捕縛した者が翌日には首を刎ねられ、晒し首とされた現実を目の当たりにし、狼狽していた。
更紗は痛いほど、彼の気持ちが分かった。でも、これは誰にもどうにもできないこと。
雨の気配一つない夏の空は、浮かぶ白雲の裏に夕立の顔つきを隠しているが、人々はその匂いが立ち込めるまで気づくことはできない。
天から降りそそぐ雫が身体に触れることで初めて、それが恵みの雨なのか、奪取の雨なのか身をもって知るのだ。
「……そろそろお腹空きませんか?」
時が止まっていたような、長くて短い沈黙を破ったのは、愛次郎であった。
「……もう、昼九つの鐘って鳴りましたっけ。確かにお腹空いたかも」
「そろそろ鳴る刻かな? 良かったら三人で何処かに食事にでも行こうか」
「それなら私に是非とも案内をさせて下さい。美味しい蕎麦屋があるのですが、ツルツルッと、どうですか?」
右手の人差し指と中指を合わせた愛次郎は、得意げに蕎麦を啜る所作を見せてくれる。それを見ていた山南と更紗は同時に微笑みを浮かべた。
縁側から板廊下へと潮風が抜ければ、不思議と、纏わりつく湿気も風流な夏を感じる涼の取り方に思えてくる。
「ツルツルッとお蕎麦! いいですね! 今なら美味しく食べられそう」
「そうだね。ならば佐々木君に蕎麦屋までご案内願おうか」
「はい! お任せ下さい」
ひょんなことから珍しい組み合わせでお昼を食べに行くことになった。更紗は、落ち込んでいた心が元気を取り戻したような、心地よい感覚に包まれた。
燦々と照る太陽の光がやけに眩しくて、歩む足下に息絶えた蝉が無数に転がっていることを、すぐに気づくことはできなかった。




