梅と桜
屯所から南西に歩くこと十五分。町外れには、高い空を水面に映した田園風景が広がっていた。
水田に植えられた苗は、久しぶりの太陽と雨の恵みを受けて、緑葉を天へ伸ばしていた。
「やっと、一緒にお風呂屋はん行けるなぁ。お更はんとお出掛けしたかったんやけど、雨やのに何処に行くんや言うて、しつこくてなぁ」
雲の隙間から射す光が、天地の境界を不鮮明にする。隣を歩くお梅は眩しそうに手をかざして、艶っぽいため息を落とした。
「すみません……芹沢先生は私と出かけるの、よく思ってないですよね?」
「せんせが? ふふ、そんなことはあらしまへん。ただ、うちが信用ないだけよ」
お梅は二十三歳にして、男女の心理をよく知っているようだった。垂れ目で口元に一つ色気ぼくろのある美しい女性だ。
梅雨時期に突如現れた高嶺の花の噂は、たちまち屯所内に広がる。誰の恋人なのかと隊士たちは嗅ぎ回っていたが、濡れた花は八木邸に根を下ろしていた。
芹沢鴨の妾として住み着いた彼女と偶然に鉢合わせた更紗は、何となく似た境遇にある親近感から、色々と話すようになっていた。
「実はお風呂屋さんに行くの初めてで……ちょっと緊張しますね」
「ふふ、それはええね。今日はなぁ、せんせがいはらへんから、桜屋はんへ行こうと思うてます」
「桜屋さん……お風呂屋さんによって何か違いがあるんですか?」
「そうやなぁ……桜屋はんは殊に男前かなぁ。あ、これは内緒ね」
「……男前、ですか」
思いがけない単語を口にした更紗は、下駄をカラコロ鳴らして楽しそうに歩む梅を見つめ、小首を傾げていく。
風呂屋と男前。頭を少し捻ったくらいでは、関連性が思いつかない。でもそんなことは、願ってやまない未来を前にすれば、気にもならないこと。
どこからともなく汗臭いような、酸い匂いが漂い始めた屯所を抜け出して、自分の身を清められるのなら、そんな幸せなことはない。
懐に忍ばせてあった手拭いの中で小銭がシャリンと鳴る。更紗は思わず頬が緩むと、梅も自分に向けて優しく微笑み返してくれた。
「金子は貰わはった?」
「はい、土方さんからもらいました」
「土方はんは……お更はんには優しいなぁ。うちとは、口も聞いてくれはらへんのよ」
「……そうですか? 私にだって優しくはないですよ。さっきも容赦なく倒してくるし……」
お梅は心なしか寂しげで、不満そうな表情を見せてきた。更紗はとぼけながらも、フォローする。嘘は言っていない。ただ、土方の態度から彼女の言いたいことは何となく分かる。
(お梅さんが嫌いというよりも……芹沢先生に怒ってるのかなぁ)
芹沢がお梅を囲った。自分を屯所に引き入れた試衛館組と、それで五分五分だ。しかし、女の身の回り品に隊費をつぎ込んだとなれば話は別。目に余る浪費は、隊士の生活を脅かした。
我慢の限界がきた土方は単身、八木邸へ乗り込んだ。すると、年の離れたお梅にねだられるまま、夏用の反物を注文していた。壬生浪士組の筆頭局長は女に骨抜きにされていたのだ。
「……土方はんは、いつもあんな感じでいはるの?」
「あんな感じっていうのは?」
「女の人と目が合うても、むすっとしてはると言うか……」
「うーん……どうでしょうか。女の人と一緒にいるところ、見たことないしなぁ」
「お更はんかて、女やないの」
「いや、女と言っても……私は女として見られてはないですよ」
「そんなん言わはっても、うちみたいにお世話してはるんでしょう?」
ぽつり、ぽつりと木造の平屋が点在する辺鄙な地に、社寺のような瓦屋根を持つ立派な建物が一軒そびえ立っている。
「お世話と言っても……雑務ですよ?」
お梅は意味深な物言いを残して、その建物へと入っていく。更紗も後に続いて“さくらゆ”と印されている大きな暖簾をくぐった。
「おいでやす。湯銭は八文どす」
左右に分かれる中央番台に座る髷姿の男性が微笑みかけてくれる。更紗は前の客の真似をして、穴の空いた小銭八枚を支払う。その隣で梅が下駄を脱ぎ出した。
「三助はんお願いできはる?」
「へぇ、待ちありますけどええどすか?」
「構おりません」
よく分からない会話をしながら梅が追加で小銭を払うのを眺めた。番台の男から年季の入った板札を渡された梅が嬉しそうにこちらを向く。
「ほな、お更はん。お風呂行こか」
「はい、楽しみですね!」
気分は上々。左が女湯、右が男湯だった。土間を上がって左へと進むと、開放的な景色が広がる。更紗は見渡しながら、碧い瞳をぱちくりさせた。
「……やっぱり、仕切りはないんだ」
脱衣所で水滴を拭う娘も、洗い場で湯桶を傾ける婦人も、ひと続きの空間を共有している。大坂の京屋の風呂場でも感じた不思議な心地だ。
お梅に衣棚へ荷物を入れるようにと教えられる。更紗は頷き、持ってきた荷物を置いた。ふと、人の視線を感じて振り返ると、番台から見下ろす男と目が合い──。
「待って、お梅さん……あそこから男の人が見てるんですけど?」
「番台はんやろ? 荷物を見張っててくれはるし、お風呂でのぼせたら助けてくれはるよ」
「えぇ……あの、番台って男の人が普通なんですか?」
「江戸でも、番台は男はんやったやろ?」
「……そうですね」
更紗の心臓は嫌な音を立てて打ち始める。完全に、あの男から脱衣所が丸見えだ。
髷から銀の簪を抜くお梅を見れば、男の視線は気にならないようだ。襦袢の紐を解いて、赤い腰巻も外す。肉付きの良い裸体を露わにした。
動悸が止まらない。更紗は他の女性もこっそり見ていく。誰も高見から見ている男のことを意識していなかった。この時代では、それが普通なのだろう。自分のほうがおかしいのだ。
(えー……源さんと年変わんなそうだけど……脱ぐしかないか……)
郷に入っては郷に従え。風呂に入るためには、越えなければいけない壁だった。
初対面の男性に見られながらの脱衣は、全く落ち着かない居心地の悪いものだった。
湿った晒しを解くのも時間がかかって嫌になる。最後に脱いだ紐パンを籠へ突っ込んだ更紗は、身体を手拭いで隠す。糠袋片手に洗い場を進み、お梅の隣に座り込んだ。
「お更はん、肌のきめが細かいから透き通って見えるんやなぁ。背中、少し赤なってるね」
「……うわ、さっきの稽古で打ったから……痣にならないといいなぁ」
「ええ体しはって、何食べはったら、そないに大きく育たはるの」
「……いや、普通ですよ。食べ物は毎日皆さんと同じもの食べてますし……」
幕末と令和の食生活は随分と違った。貧乏な今は、鶏肉さえ食べる機会はない。栄養過多で育ってきた自分が周りの女性より、体格も肌質も良いのは当然といえば当然のこと。
それでも、山崎曰く、この時代では小柄で細身、しなやかな柳腰の女性が好まれるらしい。
更紗はふと、お龍とあぐりを思い出した。二人が美人の代表なら、自分は論外。隣のお梅も少しばかり枠から外れているかもしれない。
「……そんなことより、さっさと洗おう」
気持ちを切り替えた更紗は、湯の入った桶を手に取る。やっと頭を洗えるとそれを持ち上げるが、慌ててお梅の手が伸びてきた。
「お更はん、お風呂屋はんで髪は洗ったらあかへんよ」
「えっ? そうなんですか……!?」
「いっぱい湯を使うてしまうやろ? 髷の油も流れてしまうから、口では言わへんけど御法度なんやぁ」
風呂屋で髪を洗ってはいけない──、何という矛盾なのだろう。
更紗は納得いかなかったが、それが暗黙のルールなら従うしかなかった。ただ、何しに来たのか分からなくなった。お金を払って汗を流せないのは、逆にストレスになる。
仕方なく糠袋で身体を洗い始めるが、弾んでいたはずの心は急激に落ち込んでいた。
(……お風呂で頭洗えないとか、つら……)
はぁ、とため息まじりに辺りを見回せば、濡れた壁の一部分が目に留まった。そこだけ赤色で装飾されている。屈まないと入れない、怪しい出入り口があった。
中は薄靄が立ち込めているようだ。奥に一体何があるのだろう。謎めいていて、少し怖い。
「……お梅さん、あれって何ですか?」
「あれは、石榴口言うて、湯船があるんどす。湯が冷めへんように入り口が狭くてなぁ……お風呂は混浴やさかい一緒に入ろうなぁ」
「えぇ! 混浴なんですか!? どうやって隠すんですか? こんな手拭いじゃ……」
「薄暗くて人の顔もよう見な分からへんのよ。そないに気にしはらへんでもええからねぇ」
お梅のおっとりした声が、湯と一緒に流れてゆく。更紗は再び、石榴口を見つめた。どうやら、湯船に浸かりたければ、混浴という危険地帯に行くしかないようだ。
そして、ここは屯所からも近い風呂屋。隊士と出会ってしまう可能性は──。
「……いやいやいや……絶対無理」
更紗は幕末の価値観の渦に飲み込まれていた。湯船に浸かる極楽と隊士と鉢合う地獄を天秤にかけるまでもない。速攻で首を横に振って自分の意思を確定させた。
「……私、石榴口潜らなくていいです。お風呂浸からなくて、大丈夫です」
「そぉ? じゃあ、うち一人で入って来るなぁ」
「……いってらっしゃい」
かけ湯をしてニッコリと微笑んだ梅が立ち上がる。刹那、聞こえるはずのない、はつらつとした低い声が真後ろから響き渡ってくる。
「お客はん、えらいお待たせしました! 今日は垢すりでええどすか?」
更紗は糠袋を握りしめたまま、振り向いた。ずば抜けて目鼻立ちの整った男性と視線がぶつかる。髷を結わえ、引き締まった裸に褌を纏い、桶を手に佇んでいた。
「へぇ、三助はん。うちを綺麗にしてねぇ」
座り直したお梅から板札を受け取った三助は、原田にも引けを取らない男前だった。慣れた手つきで梅の肌に指を滑らせ、優しくその背に湯をかける。お梅はとても嬉しそうだ。
明らかに女湯が色めき立っていた。周りにいる女たちが、垢すりを始める男を意識している。更紗は番台に座る男との反応の差を感じながらも、その光景をぼうっと見て──。
「お嬢はんもいかがどすか? まぁ、綺麗な肌してはるさかい、俺は必要ないかねぇ」
流し目を寄越して笑う三助にぐうの音も出なかった。更紗はカッと熱くなる。身体を隠すように背を向けると、桶の湯を一気にかけた。
「……お梅さん、私、先に帰りますね」
立ち上がった自分へ梅が何かを話していたが、もう誰の声も届かない。更紗は感情の扉をパタンと閉める。洗い場から脱衣所へと、まっすぐに歩んでいた。
脱衣所には中年の男。洗い場にも美男。湯船には見知らぬ男たちが待ち構える未来が待っていたとは。風呂屋とは自分の価値観をひっくり返してくれる場所だった。
「……もう近づかない……江戸時代怖い……」
更紗は何とか着物を着付けて、桜屋を飛び出した。この世界で唯一、誰にも見られずにいられる自室の隅で丸くなること早一刻。
空は晴れ渡り、ここ一ヶ月で一番の青さを見せている。しかし、屯所で塞ぎ込んでいた女の上空には、陰鬱な暗雲が垂れ込めていた。
何もやる気が起きず、髪も結べなかった。ただ、風呂屋での衝撃が蘇るたびに、恥ずかしさでその場に崩れ落ちてしまう。
「更紗~? いるかぁ~? ……うわっ!」
遠慮がちに障子戸を開けたのは藤堂だった。人の気配一つない四畳半の部屋を覗き込めば、その隅で亡霊と化した何かを見つけた。
「……更紗? そんな端っこで何してんだ? 左之さん、更紗の様子が変だ……」
「何だって? うわ! おま、髪くれぇ結わえろよ! 皿屋敷じゃねぇんだからよ……」
三つ編みを解いていた女は畳に伏せていた。さながら生気のない幽霊のような、不気味な雰囲気を醸し出していた。
藤堂と原田は、顔を見合わせた。仕方なく更紗の前に腰を下ろした二人は、心配そうに声をかける。
「おいおい、どうした? 何か嫌な目にでもあったのか?」
「俺たちが巡察へ行ってる間に、何かあったのか……?」
「…………」
「おーい、聞こえてるか? 話さねぇと何も分からねぇんだけどよ……」
「困り事があるなら、左之さんはともかく俺が話聞くから……」
「…………」
束の間の静けさの中に響き渡るのは、珍しく不器用に言葉を紡ぐ男たちの精いっぱいの気遣いであった。
板間を踏む足音が近づいてくる。部屋の前でピタリと止まれば、室内の異様な空気をより物々しくさせる低い声が唐突に放たれる。
「おい、帰ってんなら茶ぐれぇ持ってこい」
開け放たれた障子戸から、着流しに着替えた土方が中を覗く。縮こまる女と取り繕う男二人の姿を捉えると、眉間に深い皺を寄せた。
「おめえら、何しやがった」
「いやいや! 土方さん違いますって……! 更紗の様子がおかしいんですよ!」
「おいおい! 俺らが何かしちまったわけじゃねぇぜ! 部屋覗いたらこの有様で……」
藤堂と原田は身振り手振りで繕うが、土方はギロリと睨んで歩んでゆく。畳に突っ伏す更紗の前で止まると、しゃがみ込んだ。
「湯屋で何があった」
その言葉に更紗は身体をびくつかせる。暫しの沈黙の後、震える唇を動かした。
「……女湯に……裸の男の人がいた」
「それは三助だろうが」
「……さんすけって、誰ですか? 男が女湯にいるなんて、聞いてない……」
「三助は客の垢すりや髪すきをする雇われ者だ。何処の湯屋にもいる」
「そうそう! 三助は男であって男でねぇようなもんだ! 俺からすりゃあ、夢のような生業……」
「……初対面なのに全部見られた。本当に無理……お風呂屋さんには行けない……」
絶対に受け入れられない価値観はこの世に存在する。
今ここに三助という存在がある限り、幕末で見つけたこの上ない幸せは消えてなくなる。
「別に、裸を見られたくれぇで減るもんじゃあるめぇ」
「……減りました……もう全部なくなりました……消えたい……」
「消えたいって、更紗も大袈裟だなぁ。何処の湯屋に行ったんだ?」
「……桜屋」
「桜屋か! 俺みてぇな面の男がいるっつって、裏の遊女屋の女が言ってやがったぜ」
「左之さん似かぁ。歌舞伎役者みたいな三助がいるって、噂は聞いたことあるけど……」
「芹沢のいねぇ隙を狙って行くとは、強欲な女の考えそうなこった」
土方は苦り切った顔つきで吐き捨てた。それを見た藤堂は苦笑いを浮かべたが、原田はニヤリと口の端を上げる。
「へぇ、あの手の女なら土方さんが主人の留守の内に……つって、食っちまうかと思ったぜ」
「媚びる女はどうにもいけ好かねぇ。彼奴のお古なんざ、勘弁だねぇ」
「多摩の色男は口が悪りぃなァ。媚びる、か。まぁ、色目は俺にも使ってくるけどよ」
男たちは好き勝手に話を弾ませている。ただ、心が折れた女には、どうでもよかった。
不便な生活は知恵と気合いで乗り越えられたが、不衛生な環境はどうしたって耐えられない。
「……これから夏が来るのに……毎日汗かくのに……水浴びもできない……」
「女は大変ではあるよなぁ……俺たちみたいに褌で行水するわけにもいかないし」
「水浴びなんざ、庭にたらい置いてやりゃあいいよ。向かいの女中も昨日浴びてたぜ」
「……もうやだ……頭おかしくなりそう……本気で無理……生きていけない……」
藤堂と原田の声が脳内に木霊する。畳の上で絶命するように倒れ込んだ更紗は、息も絶え絶えに重くなる目蓋を下ろした。
屯所にいる限り、髪も身体もまともに洗えない。だったら、もう屯所を出るしかない。
「……大坂の京屋さん……住み込みの女中、募集してないかな……」
「……たく、世話のかかる……」
心底面倒くさそうに息を吐いた土方は手を伸ばし、畳に横たわる更紗の頭を小突いた。
「おい、もうすぐ道中警護の報酬が入る。その金子で何とかならねぇか局長に話してやる。だから、それまで我慢しろ」
真っ暗闇に響いた一言一句は、女にとって都合のいい幻聴────。
更紗は藁にもすがる思いで身を起こす。冷めた目で見下ろす土方の整った顔を、潤んだ瞳でじっと見つめた。
「……今のは、本当ですか……お風呂、作ってくれるの?」
転んでもタダでは起きない。たとえ負け戦で休みを失おうとも、喉から手が出るほど欲しかった風呂は────。
「武士に二言はねぇ。しょうがねぇから作ってやる」
廊下から後光が差してゆく。眩い斜光は、立ち上がる閻魔様が仏様に見間違えるほどに神々しく輝いた姿に見せてくれた。
有言実行はこの二週間後、とんでもない騒動を手土産に芹沢一行が帰還してすぐ。前川邸には質素な掘っ建て小屋が建築された。
更紗は水を得た魚のように屯所生活を謳歌する。しかし、目まぐるしい動乱の時代がそこまで迫っていることを、図らずも知ることとなる。




