梅雨に咲く花
雲がたなびく空の下、浅葱色の隊服に身を包む十人の男たちが遠ざかっていく。
六月は降ったり止んだりの毎日だ。ただ、昨日と今日は、少し晴れ間が見えるようになった。梅雨の中休みが、彼らの出立を後押ししてくれる。
「行っちまったかぁ……ぱっつぁんも総司もいねぇ屯所は寂しくなるねぇ。一に限っては元から喋んねぇし変わんねぇけど、ぱっつぁんがいねぇのはよ……」
「左之さんは大袈裟だなぁ。そんなに寂しいんだったら、芹沢先生にお願いして連れてって貰えばよかったのに」
「いや、それはいい。俺ァどう考えても芹沢の鴨さんに好かれてねぇからな。平助、お前こそ何でついて行かなかったんだ? 誘われてただろ」
「だって……今回の大坂行きには、近藤さんも山南さんも参加するだろ? 屯所が手薄になるから、残るほうがいいと思ったんだよ」
「何だよ~魁先生、ちゃんと考えてやがったか! 小せぇのに頼りになるじゃねぇか!」
京の町に湿気が立ち込める。じわりと汗が滲むような、草の蒸れる匂いがした。
藤堂を撫で回す原田は、着流しの裾を尻端折りし、引き締まった脚を露わにしていた。藤堂は袴を履いてはいたが、自分なりの涼の取り方を模索しているようだった。
「もう……左之さんのせいで髷が崩れちまう! 山崎さんに結わえて貰ったのによ……!」
「悪りぃ、悪りぃ! 後で俺が鬢付け油で寸分の狂いなく直してやらぁ」
「いいよもう……でも、更紗は行かなくて良かったのか? 大坂にいれば、風呂入り放題なのに」
今回の依頼主は、大坂奉行所だった。会津藩お預かりとして名を売り出した壬生浪士組へ、攘夷運動で治安が悪化した城下町の取り締まりの要請がきたのだ。
突然訪れた好機に芹沢は飛びついた。粒ぞろいの剣客を揃え、意気揚々と下阪した。
「お風呂は惜しいけど、今回はいいです。行っても邪魔になるし、私も芹沢先生に嫌われてるので……」
更紗は家里の切腹以来、八木邸に近づけないくらいには、また芹沢鴨が苦手になっていた。
筆頭局長の独断で人の生き死にが決められていく。近藤の助言も聞いてはくれない。そのため、他の隊士は芹沢の機嫌を伺うようになる。
「壬生浪士組の嫌われもん同士、仲良く羽目を外そうじゃねぇか」
手を挙げる沖田に更紗は手を振り返した。原田が何かを企むように腕を持ち上げる。その長い指先が栗色のおさげ髪を退けて、白い首筋に残る小さな痣をツンと刺激した。
「ちょっと……勝手に触らないで下さい」
「俺ァお前の首にコレを見つけた時は、落ち込んだんだぜ? 一体、相手は誰なんだ」
「だから、そういうんじゃないですって! 知らないうちにぶつけたんです」
「な訳ねぇだろ! 平助も言ってやれよ! ちょいと強く吸やぁ血が浮き出たみてぇに……」
「ああ、もう分かった分かった……左之さん、先越されて悲しかったんだね」
「あたぼうよ! 俺を差し置いて口吸いしやがった咎人は、斬り捨ててやる」
端正な目元を引き締めた原田は刀に手を置く。抜刀する真似をしたまま腰を落とし、目に見えぬ真剣を振り下ろした。
裾に邪魔されることもない足捌きは見事だ。更紗も思わず、目で追ってしまう。黙っていれば誰よりも絵になる男は、背後の人の気配に気づくや否や、下駄を擦り上げて身を翻した。
「……あ、あの……」
「ああ、嬢ちゃんすまねぇ! びっくりさせちまったか!」
原田に距離を詰められた女は身を縮こめる。壬生の屯所に似合わぬ小柄な美少女だった。更紗をじっと見つめると、恐る恐る近づいた。
「……すんまへん……うちはあぐりと申します。この文を……佐々木愛次郎様へお渡し頂きたいんどす」
「愛次郎さんですか? 今、たぶん道場にいると思うので呼んできましょうか?」
「いえ、お仕事の邪魔になりますのでご遠慮いたします……文だけどうかお頼もうします」
「分かりました。じゃあ、私が責任を持って愛次郎さんに渡しますね」
更紗は緊張した面持ちでいる少女から手紙を受け取った。何度も振り返っては頭を下げる幼気な後ろ姿から目を逸らすことができない。
自分を見て瞳を瞬いたあぐりは、市松人形のように可憐だった。小さな赤い唇を動かす仕草ひとつとっても、胸がキュンとしてしまった。
「……か、可愛い。ちっちゃくて、お人形さんみたい」
「俺よりも全然ちっさかったもんなぁ。幾つだろう。十五、六かなぁ」
「何だよ、あいつ深い仲の女がいるのかよ。一人だけいい思いしやがって。後で絞めてやる」
「そうは言っても、愛次郎君のほうが左之さんより柔術は上手だよ。反対に絞められないように気をつけな」
「そん時は更紗の力を借りるまでよ。何せ髪を捕物の縄みてぇに編んでやがるからな」
「縄って……三つ編みにしてるだけじゃんか」
男たちにはざっくりと編んだおさげ髪は不評だった。それでも、首にある赤い痕を隠すには都合がいい。たとえ揶揄されようが、身に覚えのないキスマークが丸見えになるよりはマシだ。
前川邸の長屋門のほうから、下駄の鳴る音が聞こえる。更紗が振り返るより先に、原田の大声が交差する土道に響いた。
「土方さんよ、来るのが遅ぇ、もう行っちまったぜ!」
「こちとら、朝から芹沢の機嫌を取ってんだ。見送りまでさせられて堪るか」
幾らか疲れた顔つきで近寄ってくる土方は、いつもの着流し姿ではなく、稽古着に袴を着付けていた。
「近藤さんも出立したんだ。おめえらも無駄口叩いてねぇで、巡察に行ってこい。土間で隊士が待ってるぞ」
「ああ、そうだった! 左之さん、俺先に戻るわ」
「いや、俺も支度しねぇと……こんな暑い日に羽織は着たくねぇなァ」
頭を掻いた原田が振り返ってニヤリと笑う。目の前にいる更紗へ再び手を伸ばした。
「だいぶ痕も消えたんだ。そろそろ奇妙な髷は止めて、さっきの小娘みてぇに粋に結わえたらどうだ? 頭が涼しくなるぞ」
無造作に撫でられた更紗の頭はボサボサになる。文句を言おうと原田を見やれば、藤堂の後を追って前川邸へ駆けていった。
「……そんなに変かなぁ? 大正ロマンなのに」
男たちの言う通り、簪を挿した女髷は着物姿を美しく魅せる。先ほどの少女も、とても似合っていて素敵だった。とはいえ、三つ編みも着物に合わないわけではないはず。
胸下まで編み込んだ毛束を持ち上げてみれば、背後に佇む人影が、低い声を響かせた。
「髷が羨ましいなら、潰し島田に結わえてやるぞ」
「別に羨ましくないので結構です。これで間に合ってるんで」
「そうかい。総司がおめえに土産を買うつもりのようだが、縄で十分だと言ってやりゃあ良かったか」
「……誰のせいだと思ってるんですか。誰のせいで、こんな暑いのに首が出せないのか……」
「さて、誰のせいだかな」
悪びれもせずに言葉を返してきた土方は、自分を置き去りにして、八木邸へ颯爽と歩んでいく。
きっとこいつが犯人だと、更紗は後ろから睨みつけた。やっと薄くなった胸元と首筋にある謎の痕が消失するまであと数日。ただ、あの男がやったという確実な証拠はない。
(……自業自得って言われたし、私が何かしちゃって怒らせたのか? いや、でも怒ってキスマークつける意味が本当に分からない……)
特に何も話そうとしない土方を追及すれば、自爆必至。更紗は身動きがとれなかった。限りなく黒に近いグレーだが、疑わしきは罰せられない。芹沢と同じ人間にはなりたくない。
お酒は恐ろしいものだ。人の記憶を根こそぎ奪い去る。龍馬とお龍と楽しく飲んだことしか覚えていない。泥酔して悪態をついたと永倉に聞かされて、禁酒を誓うことしかできなかった。
それでも、胸の内から湧き上がる言いようのない感情は、いつしか血となり肉となり、その華奢な身体からは想像もつかない力となって現れていて。
「高い位置まで膝を上げて下さい。足を軸に大きな円を描くように、グッと思い切り上げて」
「……こんな感じでしょうか?」
「もっと振り切っていいです。何してくるか分かんない敵に遠慮なんかしないで、より早く確実に仕留めるように」
昼下がりの屯所は、いつもと異なる空気が流れていた。巡察に出る隊士たち以外は、八木邸の敷地内に佇む道場、文武館に集められていた。
汗を滲ませる平隊士から数歩離れた更紗は、自身の袴を膝上までたくし上げると、あえてスローモーションの蹴りを見せる。
「ここをもう少し伸ばせたら安定してくると思いますよ。こういう風に」
「は、はい! 分かりました!」
食い入るように自分の足を見つめていた男は、顔を真っ赤にしながらも一生懸命に声を出し、柔術の稽古に打ち込んでくれる。
自分の学びが形になるのは楽しい。少しずつやりがいを感じ始めていた更紗は、こちらを眺めていた坊主頭の男と恋文を手に持つ青年の元へ鼻歌交じりに近づいていく。
「愛次郎殿、更紗殿の指導がある限り、私たちの出番はありませんね」
「松原さん、仰る通りですよ。大坂で見た更紗さんの蹴り技は、誰もが見惚れる素晴らしいものでしたから」
「大坂で見た、というのは原田殿がよく酒の席で話している、新町遊郭での……?」
「はい。初めて女というものはこんなにも美しく、恐ろしいものだと思い知らされました」
厳つい顔に似合わず、優しく微笑んでくれるのは、大坂の団子屋で出会った恰幅の良い長身の男。
松原忠司という齢三十手前の独身者だった。山崎が勧誘していた柔術の道場主だ。
「松原さんひどい……そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
「面目ない。傷つけてしまったのなら不徳の致すところだ」
「愛次郎さんも……いい加減、あの夜のことは忘れて下さい」
「御免、御免。なかなか忘れられるものではないから……気をつけます」
見目麗しい顔をした若き青年はコホン、と小さく咳払いをした。視線を伏せ、更紗が手渡した文を稽古着の懐に押し込んでいく。
佐々木愛次郎は、会津藩邸での上覧試合で柔術を披露した平隊士だった。武術に長けている上に更紗と同じ年齢。文武館で顔を合わせるうちに自然と意気投合した。
いつものように三人が集えば、仲睦まじい平和な空気が流れる。しかし、その横では一転、雷鳴が轟くような音と振動が場内を駆け巡っていた。
「俺を前にして余所見するとは、大した度胸だな」
沖田の怒声よりもよっぽど恐怖を覚えるその冷たい声は、空気を一瞬で張り詰めたものに変える。
柔術組が固唾を飲んで見守る視線の先では、朱塗りの皮胴を身に着けた男がその他大勢の若武者を相手に竹刀一本で打ち伏せていた。
「……副長って……やっぱ、強いんだなぁ」
気が向いた時だけふらりと現れる土方歳三の剣さばきは、見るたびに流派が変わるような、掴みどころのない独特なものだった。
原田が言うように、誰も真似はできない。まさに土方流だ。迎え討つ相手の剣筋を見極めるや否や、相手と息を合わさず、強硬に打ち込む。
それが良いのか悪いのか更紗は判断に困った。実践訓練として考えれば、間違ってはいない。自分も自由な感覚で武術を習っているため、癖の強い手法は嫌いではないのだが──。
「────市村、剣筋を見てやる」
「……えぇー、大丈夫です……」
「佐々木、竹刀と防具を貸してやれ」
「は、はい! 承知いたしました」
「えぇ!? 嘘でしょ……」
慌てて武術具を取りに走る愛次郎を横目に、更紗は顔面蒼白になった。これまで一度も女ごときの剣術に興味を示さなかった男が、一体どういう風の吹き回しなのか。
新手の嫌がらせにしか思えなかった。肩で息をしている土方は、体力を消耗しているように見えるが、何のハンデにもならないだろう。防具なんか身に着けたら滅多打ちにされる。
「防具は無理です……! それなら私はやりません!!」
「ほう、俺に歯向かうか」
「私にだって選ぶ権利はあります! 掛かり稽古ならやります!」
「じゃあ、それでいい。ただ、打ち込ませはしねぇ。俺から一本取ってみろ」
「……えぇー、取れるわけないじゃないですか……」
更紗はがっくり項垂れる。愛次郎は同情する顔つきで、竹刀を差し出した。傍に立つ松原は、土方を一瞥すると穏やかに声をかける。
「……打ち込まれる事はなくなりましたから、気組みで何とか乗り切って」
「……無理ですって」
「白羽の矢が立ったなら、腹を括るべし。更紗殿、ご武運を」
「……もう、やだ」
こんなときに限って、味方になってくれる原田も藤堂も沖田もいない。孤立無援で、男の対面に立った更紗は戦意を喪失していた。面を着けたままの土方は、片手で竹刀を構えた。
「どんな形でもいい。一本取れたら、休みをやる」
「……え、休みですか?」
幕末にタイムスリップしてから今日まで、女中仕事を休んだことはない。隊士には非番の日はあっても、家事には終わりがない。おまけに、小姓の仕事まで毎日発生している。
自由時間がかなり減ってしまった今、休息はこの上ないご褒美だ。昼寝してもいいし、買い出し係の井上や藤堂について行って、町歩きするのも楽しいかもしれない。
「……休み、ほしいかも」
ぽつり、と呟いた更紗は、急に表情を真剣なものへと変える。よく考えてみれば、女好きの変態に堂々と剣を打ち込める機会はないだろう。敵は文武館にあり、発想の転換だ。
更紗は地面を蹴った。飛びかかる勢いのまま、赤紐が垂れる面の中心へ振り上げた竹刀を下ろす────
「遊びじゃねぇんだ。やり直せ」
バチン、と竹刀で押し返され、更紗はその反動で吹き飛ばされたように後ずさる。すると、土方はそのまま前進する。打ち込みはしなくても、竹刀が追いかけてくる圧は強烈だ。
手を変え品を変え、必死に振り下ろす更紗だが、力が乗る前に全て竹刀で払われる。女相手でも容赦がない。基本の剣道が何もできない。
(……どうしよう。絶対勝てない……)
更紗の額から汗が流れる。防具を身に着けていれば、打ち込まれて終われたが、降参の仕方が分からなかった。まさか一本取れるまで、稽古をやめないつもりだろうか。
(……居合で何か使える技あったっけ? 確か、鞘から抜けたときが一番早かった……?)
ふと、央太に教えてもらった記憶が蘇る。振り下ろすより、振り上げるほうがスピードが早いと言っていた気がする。それでも負け戦だ。自分の得意分野に持ち込む以外、終わらせる方法は浮かばない。
(……どうせ土方さんも我流なんだし、私だっていいよね)
一呼吸置いた更紗は、その場で立ち止まった。剣先を床に向け、前を睨みつける。土方がゆっくりと止まるや否や、女は一歩を踏み出す。防具をつけていないことを逆手に取った。
「……勝負!」
途端に駆け出した更紗は、距離を一気に詰めると竹刀を振り上げる。当然のように土方が受けようとした瞬間、竹刀から手を離し、身を屈めてその懐に入り込んだ。
相手の袴紐を掴むと、自分の身体に引き寄せて、そのまま背後から姑息に足を払う。浮いたと思った瞬間だった。
ダン、という音が場内に響くと同時に、背中に激痛が走って────。
「……いっ、たぁ……!」
近くで二本の竹刀が落ちる音がした。固く瞑った瞳を開ければ、間近から面を被った男に見下ろされている。世界が反転して、高い天井が見えた。
「────俺を騙せると思ったか」
血管の浮き出た逞しい腕で、床に押さえつけられていた。またがられているので、動きが封じられている。ジンジンと背中が痛い。頭を打たなかったのは、不幸中の幸いだった。
「悪かねぇが、策なしで懐へ飛び込んだら、抱き込まれて終いだ」
「……はい」
「男相手には、この入り方はするな。剣術稽古を増やしたほうがいい」
「……はい」
至近距離から淡々と助言をしてくれる。ただ、更紗の心には届いていなかった。休みは消滅した挙句、信じられないくらい汗だくだ。晒しがぐっしょり濡れている。普通につらい。
「──お更はぁん、お稽古終わらはった?」
全員の前で組み伏せられている中、艶っぽい声がピリついた空気を変えてくれた。
男たちの視線が更紗からもう一人の女へと移る。綺麗に女髷を結わえ、濃紺の着物の襟をゆったり抜いて着付ける屯所の華が、はんなりと歩んでくる。
土方はおもむろに身を起こすと、転がる竹刀を一本拾ってその場から立ち去る。代わりに床に寝転がる更紗の顔を覗いたのは────。
「あら、お更はん。しっとり湿らはって、色っぽいねぇ」
「……お梅さん。今すぐ汗を流したいなら、水かぶるしかないですか……?」
「ふふ、今日はお天気ええからね。それやったら、うちとお風呂屋はん行かへん?」
「……お風呂屋さん、行きたい……」
背中を庇いながら座り込んだ更紗は、お梅が差し出した手拭いを受け取る。髪の毛が首に張り付いて気持ち悪い。手でひょいとおさげを掴んで、濡れた首筋を押さえていく。
「……でも、タダじゃないですよね? 私、お金持ってなくて……」
「あら、お給金は貰うてはらへんの? そやったら、うちが払うてあげ……」
「しょうがねぇから出してやる」
声のするほうへ顔を向けると、面を外した土方がこちらに歩んできていた。自分と同じく、額から垂れる汗を手拭いで拭きとっている。ただ、表情は相変わらずの仏頂面だった。
「……え、本当ですか? 」
「但し、湯屋代だけだ。それで十分だろう」
「本当に……!? やったぁ、ありがとうございます! コーヒー牛乳……ないだろうけど、そういうのは大丈夫です」
「……おめえは何を言ってんだ」
雨降って地固まる──、休みはもらえなかったが、お風呂には入れる。負け戦から生還した更紗は、上機嫌になっていた。眉をしかめて首を傾げる土方の意図を理解してはいない。
このあと一刻も立たないうちに、幕末の世の常識に打ちのめされることとなる。




