才谷屋の梅太郎
初めて訪れた島原遊郭は、市井の民にも開かれた歩きやすい花街であった。
両端に並ぶ格子窓の先に遊女は座っていない。代わりに見世前に佇む老婆がニコニコと笑顔を振りまいている。
どうやら男性だけで来ている客を狙って声をかけているようだ。ここでは、新町遊郭のように表立って春は売っていなそうだ。
「こんにちは、角屋さん。才谷さんはもう来てはります?」
立派な二階建ての町屋前で立ち止まった龍が、掃き掃除をしている店の人間に声をかけた。その男は手を止め、ゆっくりと頭を下げる。
「へぇ、お客はんおこしやす。才谷はん言いますんは……」
「才谷屋どす。角屋はんへ未の刻に来るよう言われてきましたんや」
「それはそれは、おおきにさんどす。番頭が案内しますさかい、此方へどうぞ」
物腰柔らかに話す男衆と龍が門口を潜るため、更紗も後に続いていく。
まるで老舗の旅館や料亭を彷彿させるような、格式高い木造建築だ。花街で育った更紗には、少しだけ既視感のある景色でもあった。
「……わぁ……すごい」
入り口を抜けた真正面には小豆色に白抜き紋が入った角屋の暖簾が下げられていた。石畳が敷き詰められた中庭の外壁は、二階部分まで全て朱色に塗られていた。
大玄関を上がるその男衆さえ、仕立ての良さそうな着物を身に纏っていた。それに気づいた更紗は、お古の着物と袴を着る自分の姿を見つめ、ようやく焦りを感じた。
(……ドレスコードのあるお店だったりしないかな? こんな格好で上がるのはマズくない……?)
前を歩む龍も、大坂の時とは違うよそ行きの小紋を着ている。おまけに白粉も少し乗せて紅も差している辺り、すっかり花街に合う艶やかな女の姿に化けていた。
それなら言って欲しかった。更紗は一歩進むごとに、焦燥の色が濃くなる。急な階段を上ると、とある部屋の前で月代姿の番頭が腰を下ろした。
「才谷先生、お連れさまがお見えにならはりました」
「……おお、来たか。入れ入れ」
襖越しに聞こえるしゃがれた低い声に、更紗の心臓がドクリ、と大きく波打つ。
野太いようでいてガサガサした声質だった。龍に似合う爽やかな若旦那のイメージが真っ二つに割れ、才谷屋ならず越後屋のご隠居が脳裏を掠めていく。
「すまん。待ちきれのうて先に一杯引っ掛けておっちゅう」
開け放たれた襖の先には、黒塗り天井と赤壁に囲まれた斬新な室内。そして、その中央で胡座を掻いている、自分と同類の匂いのする男のはつらつとした笑顔があった。
角屋にそぐわない所作で盃を舐める男の着物と袴は遠目でも分かるくらいに褪せていた。更紗は、張り詰めていた心の糸が無意識に緩んだ。
「……久しぶりの再会やのに、先に飲むなんてあんまりやわ。もっと早うから始められるなら、うちだって早よ来たのに」
「すまん、すまん。朝から何ちゃあじゃ口にしとらんき、かぁ苦しいて仕方なかったがじゃ。許してくれ」
「え、朝から何も口にしてはらへんの? そんなん夜中でも、うちとこ来てくれはったら……」
刹那のうちに心配顔を浮かべ男に駆け寄る龍は、恋する乙女だった。まるで最初から一人で来たかのように、もう一人の存在を忘れている素振りだ。
目先で二人だけの世界を作られてしまうと、声はかけられない。このまま空気を読んで帰ってしまったほうがいいのかと、更紗は襖の前で二の足を踏んでしまっていた。
「ほがな所に突っ立っとらんで、おまさんも此処に来とうせ」
ぴったりと寄り添う龍の肩に腕を置いたその男は白い歯を出して笑った。ひらひらと手招きをしてくれる。
やっていることは悪代官が遊女を侍らす図そのものなのに。その男の屈託のない笑顔が人間のいやらしさを打ち消していた。
(……何かどっかで見たことあるような。気のせいか……?)
ゴワゴワした癖毛を髷に結わえている。身なりは、お世辞にも綺麗とは言えない。どうにも浪士組の原田のずぼらさを思い出させてくれる。
けれども、その顔つきも負けじ劣らず女性の目を引くものだった。印象的な目鼻立ちを一層際立たせているのは、日に焼けた浅黒い肌。
「……あの、初めまして、私は市村更紗と言います。今日は、このような席にお呼び立て下さって、ありがとうございます」
歩いてから座るまで穴が空くかと思うほど、見続けられてしまった。更紗は何となく居心地の悪さを覚えつつ、その碧い瞳を男へと向けていく。
他人から浴びせられる奇特な眼差しに、まだ慣れてはいない。屯所へ引きこもっている分、繊細に感じ取ってしまう心の弱さを思い知らされる。
ばくばくと高鳴る鼓動を抑えて、笑顔でお辞儀をした。すると、その男は細めていた目を丸くし、美貌をくしゃりと綻ばせた。
「……いやぁ、おまん稀に見る別嬪さんじゃ。ワシの知りゆう異人とぶっちゅう目の色しちゅう。きれえな青竹じゃ」
「……え、何て? ちゅう……青竹……?」
予想外に男の言葉が聞き取れない。更紗は小首を傾げながら苦笑いを浮かべるしかないが、それを横で見ていた龍がくつくつと笑い出した。
「この人、訛りがきついから何言うてはるか分からへんやろ。今のは、お更ちゃんは別嬪やなぁて、自分の知り合いの異人さんと同じ、綺麗な青竹みたいな色の目してはるなぁ、て言うてはったんや」
「……ああ、そういうことか。半分だけ異人の血が入ってます。でも、母は日本人ですし、私は自分のことを日本人だと思ってます」
「ほうかえ、ほうかえ。ととが異人なんじゃの。国はどこか? めりけんか、えげれすの……」
「父の母国ですか? えっと、イギリスです」
「えげれす! 勝先生から聞いたがじゃが、サトウさんゆう、こがな背の高い異人は知らんかね?」
「異人なのに佐藤さんですか? いや、佐藤さん以前に……私、この地に知り合いはいないので……」
微妙にかみ合わないまま、会話は進んでいく。ちゃんと言いたいことが伝わっているかも分からない。このまま自分の素性を話していいのだろうか。漠然とした不安に苛まれる。
コトリ、と置かれた空の盃を満たしていく透明な酒が目先で揺れた。その男は大事そうにそれを持ち上げ、黙り込んだ更紗に差し出した。
「佐藤ゆう知り合いがおらんても、才谷ゆう知り合いはできちゅう。ワシは才谷屋の梅太郎言いますがやき、よろしゅうしてつかぁさい」
「……ありがとうございます」
受け取った盃から雫が溢れるため、更紗は躊躇いながらもそれを口元へと運んでいく。
いつぞや屯所で飲み干した濁り酒とは違い、喉が熱くならなかった。さらさらと喉元を流れる後味の良さは、黒谷本陣で飲んだ祝い酒に少し似ていた。
「……美味しい」
やはり高級感のある店で出される酒は一級品だ。感想を伝えようと才谷と龍に目を向ければ、何やら二人の間に不穏な空気が流れている。
「……何でほんまもんの名を名乗らへんの?」
「ワシは今、土佐の商人、才谷屋として京におるやき。何も嘘は吐いちょらんぜよ」
「でも、うちの命の恩人のお更ちゃんに会いたかったんは、梅太郎さんやなくて龍馬さんやったんやろ」
「……お龍、ちくたぁワシの身も案じてくれ。もしねきに奉行さまがおったら、ワシはおいおい泣きゆう間にとっ捕まえられて、土佐に帰されてしまうちや」
「そんなん、土佐を離れることの何が悪いの。ほら、今は幕府の先生のお傍に置いて貰ってお船の勉強してはるんやろ? その先生に口利きして貰えば……」
「あやかしい事を言うなや。女が口を出す話しやないき」
「そんなんうちは龍馬さんの事を想って言うてるんや。何で女やったら……」
ここでも龍の口撃が開始したようだ。男は諦め顔を浮かべたかと思いきや、ほくろのある左頬に手を添えて、わざと寝たふりを始める。
それを揺さぶって起こそうとする龍を見ていた更紗の頭に突如、閃光が走った。ぞわぞわと足先まで貫く妙な感覚が身体中を駆け巡っていく。
(さっきから龍馬さんって呼んでるけど……それって、どういう……?)
鼓動がばくばくと異様な速度で打ち始める。冷静になりたいのに、強い緊張と興奮が押し寄せてくる。
龍馬といえば、想像する人間は一人しかいない。歴史上の偉人として有名な名前だが、同姓同名が江戸時代にいてもおかしくはないはずだ。
(……普通に考えて、あの坂本龍馬に会えるわけないじゃん。そんなことがあったら央太に怒られる……)
幼馴染みが、子どもの頃からずっと憧れていた幕末の志士は、坂本龍馬だ。
その影響を受けて、自分も知らず知らずのうちに好きになっていたが、こんな小汚い格好で角屋に上がるような男が、恋い焦がれた志士だとは思いたくない。
誰もが知る坂本龍馬の姿は、引っ詰めた髪先がうようよしていて、顔の所々にほくろがあって、目の前の男のように桔梗の花紋が入った着物を纏っているはず──。
「……あの……もしかして……坂本龍馬さん、じゃないですよね?」
「おまん、何故それを……お龍、こっそり話しちょったか」
「え、うちは何も言うてへんよ。お更ちゃん、何で才谷梅太郎が坂本龍馬やて……」
「そっか、龍さんはあのお龍さんだったんだ。だから、海を渡って外国に行きたいって……何で気づかなかったんだろ! 坂本龍馬にお龍さんじゃん!!」
脳内で絡み合っていた糸が一瞬のうちに解ける。全てが腑に落ちた爽快感に包まれるや否や、それを切るように大きな手が自身の唇に押し付けられ。
「べこのかぁ!! 声がふとい!」
手に持っていた盃は、驚いた拍子に指先から離れ、落下した。そのまま部屋の隅へと吸い込まれるように転がっていく。
ゴロゴロと鈍い音を奏でながら回る器を見つめた更紗は、硬直状態で不自然な瞬きを繰り返していた。
(……さ、坂本龍馬の手が……顔に触れてる……)
塞がれている口から心臓が飛び出してしまいそうだ。正体を知ってしまった今、緊張で話せる気がしない。この後、普通に接することも不可能に思えてしまう。
生の坂本龍馬は、写真で見るよりも若くて、格好良くて、笑顔が絶えない素敵な人だった。
極め付けは、動揺する二人を見て、けらけら笑う女性が坂本龍馬の恋人である“お龍”だったこと。
(うわぁ、坂本龍馬とお龍さんだ。本物だ……)
震えそうになる両手をじたばたさせて何とか数歩下がった更紗は、不思議そうな顔つきで自分を見つめる龍馬とお龍をじっと見つめ返した。
「お更ちゃん、どないしたん? うちらの顔に何かついてますか?」
「……あの、龍さん。これからお龍さんって呼んでもいいですか?」
「それは全然構わへんけど……うちもお更ちゃん呼んでるし」
「じゃあ、さ……坂本龍馬さん。人がいない時だけでいいので、龍馬さんって呼んでいいですか? 普段は必ず、才谷さんって呼びます」
「誰にも言いなやくれるなら、おまんの好きにしたらえい」
「ほんとですか…!? どうしよう……これは最高かもしれない……!」
夢のような出来事は続くものだ。どれも悪夢に近かったが、こんなにも幸福に満ちた気分になる現実は、この時代に来て初めてだろう。
思わずニヤけてしまう両頬を指でつねると、当たり前ように望んだ痛みが走る。
「……夢じゃない」
もはや痛覚すら愛しくて尊い。こちらを見て笑いをかみ殺しながら、転がった盃を拾う龍馬が今、この時を生きる人間であることを実感させられる。
「お龍のいう通り、ちっくと変わっちゅう女子よのう」
「そうやろ。浮世のこと何も知らはらへんのに、武術には長けてはって……破落戸を足で蹴って倒したんや」
「おお、そうじゃった。お更、新町遊郭でお龍と光枝を助けてくれて、げにまっことありがとう。ワシからも恩に着るぜよ」
再び自分に近づいてきて、その手の内に盃をコロンと戻した龍馬は、満面の笑みで銚子を傾けてくれる。
「とんでもないです! 龍馬さんにお酒を注いでもらえるなんて、身にあまる光栄です……」
幕末に来て今が一番幸せかもしれない。ふわふわと夢心地で大きくなる喜びは、間違いなく浪士組の男たちと出会った時には感じられなかった、深い感動を覚えるものであった。
好きな偉人と同じ空気を吸っている。この広い世界で推しに会えた奇跡──。
最低最悪のタイムスリップすら、天へ上るために作られた未来の時空装置に思えてきた。
「おお、まっこと素晴らしかぁ飲みっぷりじゃ! 女子にしちょくのが勿体無いのう」
「あら、お更ちゃん案外いけるクチやね。ほんなら、うちと女の勝負しよか」
「そんなの、二人に注いでもらったお酒は飲むしかありません! お龍さん、対戦よろしくお願いします!」
続々と運ばれてくる御馳走はほどほどに、その倍以上の速さで運ばれた酒が消えていく。日が傾き、暗くなってきた室内を照らす行灯さえ神々しく、拝みたくなる光を放っていた。
三つの盃は畳に置く間もなかった。更紗は注がれる美酒を飲み干していったが、二人が抜きに出た酒豪であることを、酔いが回り始めたこの時、知る由もなかった。




