京女に江戸男
雨の日の屯所内は、日中とはいえ世界の不穏を取り混ぜたように薄暗かった。
歩むたびにミシリ、ミシリと湿気のこもる板廊下が軋んだ。しかし今日は、それをかき消すような男女の言い争いが玄関口から響いてくる。
「────そやから、用があんのはあんたやなくてお更ちゃんや言うてるやないの」
「生憎、一端の女郎に構うほどこちとら暇じゃねぇんだ。大人しく色里へ帰ったらどうだ」
「だから! うちは女郎やなくて、れっきとした侍医の娘や。ほんま話の分からへん壬生浪やねぇ……! そんなんやから、お揃いで浅黄裏を着ても何も感じひんのやろね」
啖呵を切ったのは、いつぞや大坂の町で聞いたことのある威勢の良い女のがなり声。
幾人もの隊士たちが野次馬のように取り囲む 遠目からでも分かるほどに、バチバチと火花を散らしている。双方の意地が淀んだ空気に張りを与えてくれていた。
「これは……お前は寄らないほうがいいんじゃねぇか」
「……でも、誰かが間に入らないと終わりませんよ? 前もそうだったから……」
「あの婦人、めっぽう口が悪いですね。土方さんどんな顔してるかなぁ」
立ち止まった永倉と更紗の横を通り過ぎた沖田は、笑いを堪えきれない様子で、喧嘩を見守る隊士の中に混ざっていく。更紗は隣に顔を向けた。永倉は首を横に振るものの、その表情はほんの少し状況を楽しんでいるようだった。
「……あ、お更ちゃん!!」
群がる男たちの隙間から一瞬、龍と視線が交わる。途端に険しい表情にパッと綺麗な花を咲かせた。
「やっと会えた〜! 我慢できひんくて、会いに来てしもうたわ」
頭を垂れた龍に慌ててこちらもお辞儀をすれば、興味津々の隊士たちがここぞとばかりに通路を開けてくれる。おかげで前方に花道ができてしまった。
仕方なく更紗は歩みを進めていく。勝ち誇った笑みを浮かべる龍の横で、明らかに不機嫌な顔をした土方が自分へ流し目を寄越してきた。
「龍さん……お元気そうで何よりです。わざわざ屯所まで……ありがとうございます」
「お更ちゃんも元気そうで安心したわ。壬生浪と暮らしてると知ってから、心配で夜も眠れへんかったんやけど……意外と中は小奇麗にしてはるんやね」
「そうですね……私が汚いのが嫌なんで、皆さんに協力してもらってます。で、今日は何かありましたか……?」
龍の話が止まらなそうなので、更紗はさっと用件を聞くことにした。全員の視線が集まっているのは、とてもやりにくい。しかも、その中に殺しの眼差しが混じっている。
「そうやった! 今からうちとお出かけしましょ。一緒に行って欲しいところがあるねん」
「……行って欲しいところですか?」
「そうや。大坂で光枝と私を助けてくれた事をうちの人に話したら、是非ともお更ちゃんに会うて御礼がしたいて」
「……うちの人?」
「嫌やわぁ、前に話した好いた人のことに決まってるやないの! お龍の命の恩人はワシの命の恩人でもあるき、言うてはったわ」
照れ笑いの龍が近づくや否や、肩を小突いてくる。更紗は少し後ずさり、笑みを張り付けた。
「……命の恩人……そんな大それた」
ようやく周りから揶揄されることが減った今、大声で皆の記憶を呼び起こすようなことは言ってほしくなかった。
更紗は不要な緊張感に襲われるが、それ以上に至近距離からの圧が強く、妙な汗が背中を湿らせた。
「おめえが町を歩きゃ、どういう事が起こるか分かってんだろうな」
「……はい、分かってます」
「死にたかねぇなら、此処にいろ」
「……はい」
土方から教えられた話では、一年前、幕府の目が行き届かない京の町を闊歩していたのは、急進派の尊皇攘夷志士だそうだ。彼らは天誅と称して幕府の要人や開国派の侍を次々と暗殺した。
人斬りの暗躍に歯止めをかけるために幕府が動き、治安部隊として壬生浪士組は結成される。しかし、その不穏な勢いは今もなお、衰えてはいなかった。
「そう言われる思うて、こっちも考えてきたわ。ここからも近い島原やったら構へんやろ?あそこやったら、お侍さんは店に刀を預けなあかへんさかい」
「……島原って……まさか遊郭ですか?」
「そう、奮発してあの角屋さんに一席設けたんや。お更ちゃんは行ったことある?」
「な……ないですよ! 遊郭は男の人が行くところじゃないですか……」
「あら、島原は新町と違うて、女の人もようさん遊びに来てはるけどねぇ」
「……そうなんですか? でも……」
「楢崎の家は生活を取り戻せたの。お礼くらいちゃんとさせて。この雨の中、歩いて来ましたけど、壬生では人っ子一人会わへんかった。お更ちゃんのことはうちが責任持って送り届けますから、いけず言わんとお頼もうします」
浪士組の副長相手に一歩も引こうとしない龍は作戦を変えたようだ。心に訴えかけるような声色を出し、大勢の隊士たちの前で低く頭を垂れた。
「己の身も守れねぇ奴が、責任なんざ取れる訳あるめぇ。帰ってくれ」
それでも土方は首を縦には振らない。誰もが同情の目で彼女を見始めた刹那、成り行きを見守っていた男が痺れを切らして歩んできて。
「……ならば、俺が迎えに上がろう。それだったらいいだろ? 土方さんよ」
「新八てめえ、女郎に口添えするつもりか」
「偶にはいいじゃねぇか。男所帯で不自由な生活を強いてんだ。俺たちみてぇな息抜きも必要だろう、なぁ更紗」
両者譲らぬ言葉の天秤にほんの一匙の重みを乗せたのは、普段から沈着な永倉であった。
「お兄さん、話の分かる人やねぇ。壬生浪にもそんな御方がいはったとは」
「浪士組とて、堅物な男ばかりではありませんよ。迎えに上がるにあたって、角屋のどちらに伺えば?」
「へぇ、才谷さんに会いにきたと言うてくれはったら。ほんでも、女同士ゆっくり話したいこともあるし、その辺は……」
「然り。江戸っ子は野暮を嫌う性分ゆえ、何卒ご安心を。それよりも──」
更紗は、珍しく饒舌に会話を続ける永倉を見つめた。龍の涼しげな美しさを前に、少し照れた様子で微笑んでいる。見るからに機嫌は上々だ。
対して、横から感じる重苦しい空気に息をのんだ。恐々と目線を向ければ、眉間の皺を深く刻んだ土方が、突き放すような冷めた眼差しで自分たちを見ていた。
「勝手にしろ。おめえがどうなろうと知ったこっちゃねぇ」
吐き捨てられた言葉は刃物のように鋭い。仄暗い闇へと消える背中を見送るだけで、胸にぐさりと穴が開くような痛みを感じてしまう。
「……怒っちゃった」
「土方さんは心配性だからなぁ。今日は雨ですし、傘で顔も隠せるから大丈夫なのに」
「まぁ、気にするな。その内、自分で機嫌を取るだろうよ」
苦笑を浮かべる沖田と永倉は、踵を返して板廊下を歩いていく。他の隊士も土間から離れていった。更紗は簡単に身支度を整えると、龍と共に久しぶりに屯所の門を潜る。
初めて浪士組以外の人と外出できることになった。しかも、初めてできた女性の知り合い。本当なら飛び上がるほど、嬉しいはずなのに、気持ちはいつもより低空飛行だ。
「────ほんまいけ好かへんわ。顔が変にいい男は腹の内が真っ黒やね。墨だらけや」
サァーと傘を打つ雨音に紛れて、頼りなく前を歩く龍の声が途切れ途切れに聞こえてくる。
酷くぬかるんだ壬生村の畦道は、高下駄を履いても足を取られてしまう。下手に道の端を歩けば、田んぼに滑り落ちそうな怖さがあった。
そんな辺鄙な地を好んで歩く者はいなかった。すれ違ったのは、巡察から戻ってきた壬生浪士組の隊士のみ。
「墨だらけって……土方さんのことですか? さっきまで筆で文字を書いてたから……」
「そういう意味やなくて! 腹黒や言うてるの」
「ああ、そういうこと……うーん、腹黒かなぁ? 確かに優しくはないですけど……でも、そんなに悪い人でもないのかなって」
「どうなろうと知ったこっちゃねぇ、なんて。江戸弁であんな酷い言い草されたのに、お更ちゃんは何で悪人やないと思うてんの?」
「それは……すごく辛かった時に、それを受け止めてくれたから……ですかね」
文句ひとつ言わずに、泣き止むまで付き合ってくれた男は、罪悪感も軽くしてくれた。その行動に救われたのは間違いない。今こうして前を向けているのは土方のおかげだろう。
勿論、全てを忘れたわけではない。家里を思い出して胸が苦しくなることもあるが、闇の中で感じた温もりが、どうしても噓偽りだとは思えなかった。
「……お更ちゃん、まさかとは思うけど。あの副長に惚れてるん?」
「え、私がですか? 何でそうなります……?」
「だって、今……乙女の顔してた」
「え、ちょっと待って……意味分かんない! 私が土方さんを好きになる……? ないない! 絶対ない! 死んでもない!!」
「死んでも、て。けったいなこと言わはるなぁ。死んでしもたらかなんし、もう聞かへんわ」
カラカラと笑い出す女の先には、島原大門がそびえている。赤い橋がかけられた派手な新町遊郭とは雰囲気が違う。入口のしだれ柳が柔らかにしなり、上品な美しさを演出していた。
「……ほんと、笑えない冗談はやめて下さい」
大坂で見た赤塗りの建物はなく、ほとんどが木目格子の落ち着いたものだ。確かに島原遊郭は、女性でも来やすいかもしれない。更紗は不思議な感覚に駆られ、胸がドキドキと高鳴った。




