五月雨
屯所の軒を打つ雨の音が、男たちの話し声と混ざり合っている。その締め切った室内には、いつもの紫煙でなく、懐かしい墨の香りが広がっていた。
「──町方同心が浮浪の取り締まりに手こずっていましたので、私と藤堂で浮浪を取り押さえた後、沖田が手持ちの縄を掛け、その場で引き渡しました」
「何か言われたか」
「……同じ浅葱の羽織を纏っている故、何者かと問われました」
「返答は」
「我々は会津藩お預かりの壬生浪士組である、と……」
ぼそりと、土方の問いに答えた斎藤の声は、淀みなく降る雨の音にかき消されてゆく。
「それでいい。売れるもんは面でも恩でも存分に売っておけ。ご苦労、下がっていいぞ」
部屋の隅にいた更紗は、チラリと男たちを見る。低頭する斎藤と向かい合って座る土方は視線を伏せて筆を走らせている。そして、そんな二人を嬉しそうに眺めているのは────。
「二日続けて親切にしてきたんです。土方さんからご褒美、貰えても良いと思うけどなぁ」
「土間の沢庵を分けてやる。少し切って持ってきていいぞ」
「それは、土方さんが食べたいだけでしょう? また私を使い走りにする……悪い癖ですよ」
ぷぅ、と膨れる沖田はここ数日、土方の部屋に居座っていた。何をするでもなく、思いつくままに話す青年に対して部屋の主は、今日に限って好きにさせていた。
「これも置いてくれ」
「……はい」
更紗は土方に近づくと、書き終えた書状を受け取る。一枚ずつ畳に並べていれば、斎藤が無言で横切り、書状がひしめく部屋を後にした。
昼下がりの屯所は、平和だ。二週間前に粛清を見届けたのは夢かと思うくらいに、穏やかに時間が過ぎてゆく。
悲しみに暮れたのは一晩のみ。男たちは引きずらなかった。新しい隊士を意地で集め、人数を増やして帰京した。団子屋で出会った松原忠司という男も、もれなく入隊してくれた。
更紗も悲しんではいられなかった。毎日、目まぐるしく動いていれば、自然とお腹は減るし、夜には疲れて眠りに落ちている。
人間は思っているよりも、強かで逞しい。心も身体も伸びしろだらけだ。
「……こんなに湿度が高いと、墨の乾きが悪いなぁ」
帰京してから、長雨が続いていた。五月からこんなに降るなんて、現代ではあまり記憶にない。幕末の桜は遅かったので、季節の感覚が分からなくなる。
ただ最近、副長室にいる時間が増えていることは分かっていた。お茶運び以外にも、雑用仕事を頼まれるようになったのだ。ついでに世の情勢を話してくれるが、少し難しい。おかげで、物思いにふける暇がなく……。
「あ、これは丈夫そうかも」
更紗は先に乾かしていた長い紙に触れた。人の名が書かれたであろう書状。鎖港についての上書というらしい。外国船の入港を禁止するためにも港を封鎖すべきだという意見をまとめた嘆願書のようなものだ。
ただ、まじまじと見たところ、間違いに気づいたかもしれない。更紗はスルーしようか迷った。けれど、目上の人に出す書類のため、素直に伝えることにした。
「……あの、ですね。上書なんですけど……書いてある名前は三十五人分なのに、最後に〆三拾六人て書いてるのはワザと……? 一人、足りないのは私の気のせい、ですかね?」
文机に向かって歩みを進めれば、土方は筆を置き、煙草盆の火に煙管を近づけていた。一拍置いて煙を吐き出すと、書状を差し出す女に流し目を送る。
「誰の名がねぇか分かるか」
「……誰の名……名前……」
受け取ってもらえない書状を再び見つめる。土方は意外と几帳面なようで、字体は綺麗だ。柔らかく繊細な崩し字が並んでいる。江戸美人が書きそうな字だと、更紗は思った。
「……読めない」
「おめえはよ……よくそれで生きてこられたもんだな」
「そう言われても……まだ、ここでは二ヶ月しか生きてませんから……」
「字は覚えても損ねぇんだ。今からでも学んでみろ。書いてねぇ名は新見だ。新見錦の名を外した」
「……新見さんですか。それって……芹沢先生を怒らせることをしたから?」
家里次郎の亡骸を奉行所へと運んだ壬生浪士組の手元に残ったもの。それは彼が兄から預かったと強く言い張った5枚の小判だった。
浪士組の男たちは、それを宿代への支払いに使った。残りは隊費となったが、管理を申し出た新見が黙って一両を持ち出したのだ。
気づいた平山が本人に詰め寄れば、資金を増やそうと博打に当てたが負け越したことを吐いた。憤慨した芹沢が新見を局長職から降格させ、屯所から放り出したのである。
「隊費を持ち出したのが私たちなら、浪士組を追い出すくらいで済んだのかなぁ」
「そりゃァ、首と胴体は繋がっていないだろうね」
「だったら、新見先生には昔のよしみで情けをかけたんですね」
「芹沢の野郎、他人には厳しく身内に甘ぇとはな。辛酸を嘗めさせられたもんとしちゃ解せねぇ」
「ならば、私たちで見つけ出して、処分してしまいましょうよ」
けろっと笑っている青年を見た更紗は、背筋にぞくり、と冷たいものが走った。沖田にとって、死はいつも隣り合わせにあるもの。人を斬ることに躊躇がない。
とはいえ、普段は冗談を言う優しい青年であることは間違いなかった。どちらも嘘偽りのない本当の姿。そんな沖田を土方含め、あの芹沢鴨も有能な剣客として認めているのだ。
「人によって量刑が変わるのは不承知だ。浪士組に入ったからには、誰しもてめえの命を賭す覚悟をしてんだ。俺が不平等にならねぇよう規律を纏めてやる」
紫煙を燻らせる土方が手のひらをこちらへ向ける。二人のやりとりを黙って見守っていた更紗は、慌てて書状を手渡した。すると、その男は悪戯に口元を緩めた。
「おめえも小姓として市村──、とその名を書いてやっても良かったんだがな」
「……いえ、それは結構です。目立つことはしたくないですし……それに、この書状って……ある意味、私の存在を否定してるようなものだし」
事の発端は、異国嫌いの朝廷を納得させるため、幕府が五月十日を攘夷の期限と定めたことだった。
幕府は、外国を武力で排除するつもりはなく、条約破棄や鎖港交渉を始める期限としていた。しかし、尊王攘夷を掲げる長州藩は、朝廷の意向を受けて同日に下関海峡に停泊していたアメリカの商船を砲撃した。
これがきっかけで攘夷の気運が高まっていく。浪士組もまた、将軍東帰を止めて攘夷を叶えたい両局長の熱意で、幕府に歓迎されない独自の動きを見せていた。
「まぁ、そう言われりゃそうだが。何だ、気にしてんのか」
「……気にしてるっていうか。攘夷派のお侍さんに会ったら斬り殺されそうで怖いです」
「ほう、おめえも世の常が分かるようになったか」
「……少しずつですけど。これでも自分の身は自分で守るつもりではいます」
「そうかい、赤子みてぇに泣いてやがった女がなァ。せいぜい頑張るこった」
まるで人を小馬鹿にするような言葉遣いに更紗はムッとした。土方は視線を伏せ、慣れた手つきで煙草盆に煙管の灰を落としてゆく。
「……もう泣きませんから、いい加減、忘れてくれてもいいじゃないですか……」
この男の前で号泣したのは一生の不覚。しかも、自分の涙でまた着物を汚してしまった。責められはしなかったが、弱みを握られた気分にさせられる。
天敵でしかなかったはずの土方歳三が、肩を貸してくれた理由も分からない。大坂での出来事が思考を惑わせてくる。一体、敵なのか味方なのか、今の時点では判断がつかない。
更紗が不服そうに土方を睨みつければ、それを見ていた沖田がくつりと笑い出した。
「土方さんと更紗って不仲だと勝手に思ってたけど、そうでもないのかぁ」
「え、不仲ですよ。厳しいことか意地悪なことしか言われませんし……」
「土方さんは私にもそうだからなぁ。私はそれをあ……」
「──失礼」
障子戸が開くや否や、廊下を漂っていた冷えた空気が吹き込んだ。どこか澄ました顔つきの永倉が、遠慮のない足取りで部屋の中へと入ってくる。
「おお、やはり此処にいたか。更紗、お前に客人だ」
「……客人?」
「いつの間に、京美人の知り合いができたんだ。お前にしちゃあ大手柄だな」
「京美人ですか? 私、女の人で知り合いなんていませんよ……?」
「向こうは、よく存じているようだったぞ。お更ちゃんに会いたい、お更ちゃんは何処にいるんだ、と畳み掛けるように隊士たちに話していたが」
「……畳み掛けるように? あ、ひょっとして……」
同性と関わることはない生活の中で唯一、思い浮かんだのは、大坂で出会った一人の女性。その名前を呟こうとすれば、書類書きに着座してから一歩も動かずにいた男が立ち上がる。
「……あのアマ、何しに来やがった」
舌打ちと共に吐き出された言葉に嫌悪が見えた。更紗と永倉は思わず、息を潜めて火の粉が降りかかるのを耐える。それを眺めていた沖田は目を輝かせて微笑んだ。
土方は開け放たれた障子戸から颯爽と出て行く。その後ろ姿は、風を切って纏う火群を辺りに撒き散らす、さながら不動明王のように思えるものであった。




