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月の照らす夜に

 これまで培ってきた価値観は何のためだったのだろう。何でこんなにも人の命が軽いのか。江戸時代の現実は容赦がない。いつも振り返ると、死の匂いが漂っている。


「……もう、帰りたい。幕末やだ……人殺しになりたくなかった……」



 呟いた涙声は、流れる川の音でかき消されてゆく。


 更紗は橋の上にしゃがみ、人の目も憚《はばか》らず泣き続けた。暫くは井上が傍にいてくれたが、見ているのにも疲れたのか、知らぬうちにその姿は消えていた。

 

「……もう、私も消えたい。どうすれば……いなくなれるの?」



 心の闇を覗き込むように橋から見下ろせば、月に照らされた水は墨のようにてらてらと光っていた。


 自分の価値観では助けられなかった。そもそも、この世界で誰かを救いたいと思うのは傲慢なのかもしれない。


 偽善──。芹沢に浴びせられた言葉の刃が心に深く刺さって抜けない。


「……ごめ……なさ……」



 家里の死のきっかけを作ってしまったのは、紛れもなく自分。偶然にでも彼を見つけてしまい、気まぐれに教えてしまったから──。


 たった一つの判断が、他人の人生を奪ってしまった。本当なら家里次郎の人生は、どこまで続いていたのだろうか。


 これ以上ない不幸に突き落としてしまった罪悪感が、更紗の口から零れ落ちていく。


「……切腹なんて、絶対苦しいじゃん。芹沢先生の言う通り、私が代わりに……」 



 自分がこの時代で生かされている意味はない。ここに存在する価値すら見出せないのに、生きるべき先人の命が自分のせいで消えてしまった。


 それでも、芹沢に死を差し向けられた時、咄嗟に言葉を返せなかったのは、死にたくないと思ってしまったから。本当に図々しくてどうしようもない。


「……どうすれば……いいの……」



 海近くの水面に映っていた宵月が揺れる。いつの間にか真上に移動し、儚い世界の中でも小さくも冴え冴えとした輝きを手放さない。


 カツカツと鳴る音が自分の目先で止まる。先ほどから声をかけてくれる人がちらほらいたが、顔を上げる気にはならなかった。皆がそのうち諦めて、目の前から去っていく。


 夜の静けさが広がる。微かに聞こえるのは、川のせせらぎの音と女のすすり泣く声。 



「いつまで此処にいんだ。おめえが源さんを困らせてどうする……戻ってやれ」


 更紗はその声を知っていた。仕方なく、少しだけ頭を持ち上げる。ぼんやりとした瞳に映るのは高下駄を履く男の素足だった。


 肌を撫でる微風が鉄錆の匂いを運んでくる。滲む視界には、黒袴についた筆を押し付けたような赤黒い染みが映り込んだ。それが何を意味するのか。更紗の瞳にまた涙が溜まっていく。



「……土方さ……ごめ……なさ……」


「何故《なにゆえ》、おめえが謝る義理がある」


「……だって……私が見つけた……せいで……斬っ……」



 伝えたいことは山ほどあるのに。ぽろぽろと流れ落ちる大粒の雫が、その唇から紡ぎ出そうとする懺悔の言葉を否応無しに奪っていく。


 更紗は火がついたように泣きじゃくった。それを眺めていた土方は溜め息を吐き、ゆっくりとしゃがみ込む。濡れた白いあごを掴むと強引に上を向かせた。


「確かに見つけたのはおめえだが、家里を処断したのは芹沢含め、俺たちだ」



 たちまち涙でぐしゃぐしゃになった女の顔が月明かりに照らされる。淡い瞳を見つめるのは、感情の読めない漆黒の双眸。伸びてきた長い指が頬に残る涙の跡を拭った。



「おめえは何も悪くねぇだろう。無駄に罪を背負うな」


「……でも……家里さ……が……死んだ……私、が……」


「自惚れるな。てめえで腹を切り、武士たる最期を遂げたんだ。背を向けて逃げやがった腰抜けの分際で、これ以上の死に様はねぇだろうが」



 一人の侍を死に追いやったと後ろ指を差されてもおかしくないのに、目の前の男は素っ気ない言葉の中に最大級の許しを与えてくれていた。


「……芹沢に一人で嘆願したらしいな。まさか、化け物呼ばわりしたおめえが一番情けをかけてくれたとは、奴も思うまい。それで十分じゃねぇか」



 耐えきれず声を上げて泣けば、呆れた指先が離れてゆく。しかし、次の瞬間、頭上を優しい感触が包んだ。かけられた重みで、伏せた更紗の睫毛が目の前の土方の肩を濡らした。


「いつもの威勢はどこ行った……たく、赤子みてぇに泣くのは今宵で仕舞いにしろ。気の済むまで弔ってやれ」



 情けない姿を笑うでもなく、まるで壊れ物を触るように何度も頭を撫でてくれる土方の体躯は、遠くに見える海岸線のように緩やかで存外逞しいものであった。


 その大きな手が心地良くて、その広い肩が心強くて、着物越しに伝わる体温が今もなお、この世界で生き続ける自分を肯定してくれるようで。


「……ふ、えぇぇ……」


 

 子どものように咽《むせ》び泣く声に混じって、一度は耳にしたことのある江戸子守唄を口遊む男の低音が、瞑目した更紗の鼓膜を静かに震わせていく。


 それは寄せては返す波のように、新しく生まれ出る雫を涙の跡へと引き込み、二人の狭間にある光の届かない水面へ落としていった。

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