粛清
沈みゆく鮮やかな夕陽が川の水面に反射し、一帯を煌めいた世界へ変えている。
どこを歩いても、船着き場が必ず目についた。たくさんの川が繋がって大きな海へ向かう。大坂の町から離れるように水は流れていた。
「──じゃあ、土方君は収穫があったと」
「何でも家里はここ数日、儒学者の兄の長屋に身を寄せていたんだとよ」
「……成る程。その情報は何処から仕入れたんだい?」
「山崎が伝手を使ってな。ただ、押し掛けてみりゃあ案の定、身内諸共消えていやがった。まだ遠くまでは逃げてねぇと思うが……時間の問題だな」
探索を終えた帰り道。偶然にも土方組と鉢合わせた山南組一行は、お互いの状況報告をしながら今後の策を考えあぐねていた。
隊士たちが忽然と消えてから三日も経つと、懸命に探している自分たちでさえ、もう既に大坂を脱出しただろうという諦めが脳裏を巣食っていた。
「……せめてよ、平山くれぇ胸を衝く面してたらこちとら見つけやすいんだがなぁ」
「まぁ、あの黒の眼帯は何処に行っても目立ちますからね。でも、左之さんも印象に残りやすいですよ。顔は二枚目だし背も高いし……」
「お、そうかい! 面と向かって人に褒められると小っ恥ずかしいもんだな」
「口を開くと天性のとんちきが溢れ出ちゃいますけどね。浅黄裏も土方さんの次に似合ってるなぁ」
「総司てめぇ! 二度と喋れねぇように斬ってやる!」
浪士組のどんよりとした空気を読まない二人が走り出せば、西日に照らされた七つの黒い影が音もなくするりと伸びていく。
更紗は自分の影法師をぼんやりと見つめていた。視線を上げれば、船着き場の小舟に乗っていた小柄な男が慌てて顔を背ける。手拭いで頬被りするのはなぜなのだろうか。
「……ん?」
「どうした、歩き疲れて足でも痛むか」
立ち止まった更紗を振り返ったのは、永倉だった。菅笠の下に隠した顔が腑に落ちない様子なのに気づき、懐手で歩いてくる。
「それは大丈夫なんですけど……あそこにいる人、私たちを見て顔を隠したんですよね」
「俺たちも褒められた生き方はしてねぇから人の事は言えねぇ。そういう輩はごまんといるぞ」
「そうなんですけど、何かそういうのとは違うっていうか……ほら、あの舟に乗った深緑色の手拭いを被ってる人です。顔を隠したいなら私みたいに笠を被ればいいのに……」
どれどれと隣で一重の双眸をスッと細める永倉に近づいた更紗は、その眼差しの先に人差し指を置いて視線を誘導させてみる。
何の気なしに目に入った怪しい男を教えたのは、更紗のほんの気まぐれだった。
チラリと垣間見えた顔が見分けられるほど、距離は近くない。見過ごしてもよかった。ただ、永倉に聞かれたことで少しの違和感を口にしただけ──。
「……更紗、手柄だ。こんな所に居やがったとは」
「……え、?」
「皆、ついて来い! 捕縛だ!!」
芯のある低い声が張り上げられるや否や、各々の羽織に命を吹き込んだかの如く、湿った海風になびかせて更紗から遠のいていく。
一羽しかいなかった鳶がいつしか群れをなして夕空を旋回するように、小舟を取り囲んだ壬生浪士組の男たちの背は、血潮のような夕焼けに染まっていた。
「……俺じゃない! 頼む……信じてくれ……ぐはっ……」
「じゃあ、誰が大事な金子を盗ったっつうんだよ。どう見ても、てめえの懐にあった小判が怪しいと思うだろ」
「……これは兄上から預かったものだ。我々は尽忠報国の士……たとい飢え死にしようとも……人様の金を盗るような行いは、断じて……っげほ」
「逃げ出した分際で芹沢先生に無礼を働くとは。頭が高えんだよ」
夜の帳が下りて、どのくらい経ったろうか。闇夜を照らす行灯の光の傍で、その男は痣だらけの顔を踏み付けられていた。
締め切られたその室内は今朝、鳥のさえずりを聞きながらストレッチを行った京屋の広間だ。宵の今、殴る蹴るの暴行を受ける家里のうめき声が響いていた。
退路を断たれた男を寄ってたかって責め立てる。五、六人の芹沢一派に混じって、原田や永倉も立ち会っていた。
自分が間者と間違われた時とは、まるで違う。やはり女であるから、手加減してくれていた。目の前で起きているのは拷問だ。
偶然にも家里次郎を見つけてしまった事の重大さに、更紗は部屋の隅で茫然としていた。身体の震えが止まらない。せめて命だけは助かるようにと祈ることしか──。
「──平山、窃盗の罪はどんな刑罰に処されるんだ」
「死罪です。十両以上盗めば斬首が的当かと」
「斬首か。いいだろう、庭で斬れ」
「……馬鹿なっ! 俺は一文とて盗んじゃいない……ぅぐ……」
「であるなら、恨むんだな。無実の人間を追いやったその盗人を」
家里は麻縄で縛られた身体で抗っていたが、何度も蹴られて動かなくなっていった。馬乗りになった芹沢一派の新見は、そう冷たく言い放つと芹沢の指示通り、縁側へと引きずった。
「……た……助けてくれ……頼むぅ……」
家里は助けを乞うように試衛館組の男たちを見ていた。縋るような目と碧い瞳の視線が交わる。かつて、この目を気持ち悪いと罵った男が、自分にも救いを求めてくる。
────言葉通りの意味さ。あいつら、近々死ぬぜ
忘れていた過去の記憶が蘇る。原田の言葉は言霊だった。しかし、家里次郎を死へと導いているのは、壬生浪士組の男たちではなく、化け物呼ばわりされた女。
(……私が見つけたせいで、殺されちゃう。どうしたら止められる……?)
ばくばくと心臓が打ち続けていた更紗は、無意識に自分を救ってくれた近藤に手を伸ばす。震える指先で袖を引っ張るが、こちらを見ようとはしてくれない。
近くにいる試衛館組の男たちも、険しい顔で見守っていた。近藤は誰よりも厳しい表情で、畳に吐血する家里を眺めている。一息吐くと広間に抑えた声を響かせた。
「……芹沢先生。せめて武士らしく……尽忠報国の士として、家里殿に詰め腹を切らせてやってはくれまいか?」
「罪人に情けをかけるとは。近藤、正気か」
「仮に斬首したとしましょう。そんな不届き者が浪士組にいたと御上に知られれば、我々の立場も危うくなります。しからば、切腹のほうが外に漏れたとて、聞こえもいいでしょう」
行灯の明かりが揺れる広間は、沈黙と闇が存在を奪い合っていた。ひゅうひゅう、と息をする家里の音だけが小さく聞こえる。
近藤は既に家里の死を受け入れている。更紗は頭が真っ白になり、近藤から指先を離した。
「妙なところで頭の切れる男よ。介錯は近藤、お前がしてみろ」
「……その仕事、近藤先生でなく私にさせて貰えませんか?」
「ほう、小童が人を斬るというのか」
「いかにも、芹沢先生から見れば小童でしょうが……これでも天然理心流の免許皆伝で塾頭も務めていましたから」
芹沢と近藤の会話に割って入ったのは、上座に歩き出した沖田総司の落ち着いた声だった。そんな青年をひと睨みした芹沢は、目尻の皺を深め、不敵な笑みを浮かべた。
「そうであったな。近藤がしこたま飲ませた殿内を待ち伏せし、四条大橋で滅多斬りしたのは沖田だろう。情の深い近藤には出来ぬ、無情な剣技よ」
「あれは仕方ありません。あちらが先に近藤先生の命を狙ったのですよ」
「近藤より肝が据わっておるな。では、お前の先生を憎んでいるであろう、家里の首を落としてこい」
「承りました」
────姉ちゃん、一人でうろつくんじゃねぇぞ。此処は誰が死んでもおかしくねぇんだ
言霊に、頭がぐわんぐわんと揺れる。更紗は立っていられず、その場にしゃがみ込んだ。殿内という隊士は既にこの世にいなかった。山崎が知らなくていいと言った理由が目の前にある。
暗殺したのは、いつも自分に笑いかけてくれる────。
腰元の刀を抜いた沖田は、刃先を行灯に向ける。感情を消した、更紗の知らない男の顔だった。一切の隙がない佇まいが、仄暗い部屋の空気を、より恐ろしいものへ変えていく。
「……おめえの剣を使うほどの事じゃねぇ。介錯は俺がやってやる」
押し殺すような低い声を出したのは、黒装束に身を包む土方だった。刀を鞘に収めた沖田の肩を押しやり、そのまま闇深い縁側へと消えていく。
閉め切った雨戸を開ければ、月明かりが血の滲む畳へと差し込む。男たちに連れられて、ぶつぶつと呟く家里に昔の面影はなかった。ただ、もうすぐ命の灯火が消える。
(……どうしよう……あの人……本当に死んでしまう)
更紗は喉をせり上がってくる気持ち悪さに口元を覆った。ここは修羅の道の半ば。自分を侮辱した男でも、このまま何もせず見殺しにするのは違う。
────まだ盗んだという確証はない。私はね、どうしても同志であった彼らが盗人だとは思えないんだよ
ふと、山南の言葉を思い出した更紗は、慌てて顔を向ける。そうだ。壬生浪士組の隊士は、そこまで落ちぶれていないはずだ。
しかし、山南は苦しげに目を伏せていた。藤堂は哀れみの顔で拳を握る。斎藤は瞬きもせず、見据えていた。誰一人、助けようとはしない。
ガクガクと震えが止まらない足にぐっと力を入れて、立ち上がる。上座で痩けた頬を緩めて笑う芹沢の傍まで歩むと、畳に手を付けて頭を下げた。
「……芹沢先生、お願いです……家里さんを殺さないで……」
「馬鹿! おま! 何言ってんだ……!!」
「これだけやられても盗んでないって言うなら……冤罪の可能性はありませんか? 相手の言い分は何も聞いていません……十分痛めつけたんだし……もうこれ以上……」
「芹沢先生、すみません。直ぐ下がらせます」
急いで駆けてきた原田と永倉が、女の両腕を掴んで強引に立ち上がらせる。それでも更紗は、涙の膜が張った瞳を芹沢の鋭い眼光から逸らすことはしなかった。
男は女を睨みつけたまま、盃を口につけて流し込む。数秒の沈黙でも耐えられなかった。更紗の呼吸が荒くなるのを見届けた芹沢から、笑みは消えていた。
「ならば碧目、お前が代わりに死ぬか」
「……え、……」
「儂はそれでも構わん。この中にいる誰かが件の罪を背負えば落着としてやる」
ヒュイ、と男の手から振り下ろされた何かが目先の徳利に当たり、パリンと大きな音を鳴らして四方に割れ散る。
砕けた破片の隙間から白濁した水滴が畳の上に流れていく。その全てを退けるかのように芹沢の手に握られていた鉄扇が荒々しく空を切った。
「儂に物を言うなら覚悟を持て。お前が探り当てたと聞いて褒めてやろうと思ったが……偽善の心ほど虫酸の走るものはない。近藤、夷狄を捨ててこい。頭足らずの女は目障りだ」
「……面目次第もござらぬ。源さん……更紗を外に連れて行ってくれ」
「……近藤先生、何で? 私のことは助けてくれたのに、何で家里さんは助けないの……?」
「更紗、話は俺が聞いてやるから。若い女子が見るもんじゃない……」
「ねぇ、源さん何で……何で誰も止めないの? 人の命って尊いものじゃないの……? この時代では、そんな簡単に消えてゆくものなの……?」
「更紗、言ってることは間違っちゃいねぇ。でもなぁ、お前さんのいたあの世と違ってこの世じゃ通らねぇ道理もあるんだ。いい子だから分かってくれ……」
涙をぽろぽろと落とすその背に腕を回した井上は、今にも崩れ落ちそうな更紗に寄り添うと、そっと襖を開けて板廊下へ連れ出した。
「今宵のことは、悪い夢だと思って忘れなさい」
「……家里さ……ごめ、なさ……」
「お前さんが謝ることじゃない。これも全て仏さんの導きだ」
命がけで幕末を生きる男たちの思いを感じれば感じるほどに、自分の涙ほど薄っぺらいものはないのかもしれない。
底知れぬ後悔に落とされた女の背後では、明日には消えてしまう侍のすすり泣く声が男たちの耳から離れなかった。




