素寒貧
大坂の町に、朝五つの鐘が鳴り響く。既に燦々と太陽が降り注ぎ、眠らぬ水の都へ海風が吹き渡っていた。
閉め切っていた雨戸を開けた女は、ぐっと伸びをする。潮の香りのする空気を胸に取り込んだら、寝ていた布団へ立ち戻る。
青空を見上げもう一度伸びをすれば、腕を下ろして深く前屈。布団の上で袴履きのまま開脚し、上半身ごと前方へ傾けていく。
鳥のさえずりを聞きながら瞳を閉じた更紗は、精神の安定を図るように取り込んだ酸素をゆっくりと吐き出した。
「……ふぅ」
何年も続けている朝の習慣は今更やめられない。一日の中でほんの少しだけ、自分の生きるべき時代を忘れないためのストレッチだ。
たとえ目を開いた先で、寝起きの男たちがだらけた状態のまま、自分に好奇な眼差しを向けていたとしても──。
「……原田さん、それ以上近づかないで下さい。縄を越えたら不法侵入です」
「おっと、中には入っちゃいねぇぜ。俺のことは気にしねぇで続けてくれ」
視界の端に捉えた美男は、肩肘をついて寝そべっていた。部屋の隅を囲うように置いた麻縄の傍から、朝の光景を楽しんでいるのかニヤニヤしている。
安定の寝相の悪さで、寸足らずの浴衣が脱げていた。そのせいで引き締まった脹脛や、割れた腹筋の切腹傷が目に飛び込んでくる。
「女は素人玄人限らず、体が柔らかいのがいいねぇ。そう思わねぇか、ぱっつあん」
「左之の場合は玄人、それも巧者に限るだろうが」
「何でい、そりゃあどういう意味だよ」
「女の身になってみろ。お前の相手なんざ、溜まったもんじゃねぇぜ」
ぱふり、と手に持つ布団を他のそれに重ねた永倉は、着崩れた浴衣を脱ぎ捨てると、畳まれていた襦袢に手を伸ばす。
褌一丁の後ろ姿は、分厚い背中や筋肉質な尻が切れ上がっている。途端に更紗の表情が険しくなった。碧い瞳に数秒映り込むだけで、否応なしに心の平穏を削いできて。
「……全っ然……集中できない……」
ここは雑念の集まりだった。幕末に来てから、あらゆる困難を乗り越えたつもりでいた更紗だが、新たにして最大の試練が麻縄の向こう側に立ちはだかっている。
それは、男だらけの烏合の衆の中で暮らすことを選んだ紅一点だからこそ、絶対に逃げられない性差の問題。
自分が女だからといって誰も配慮はしてくれない。むしろ、自分が女であることを嫌というほどに自覚させてくれる。
「ええ!? 今日はもう終わりかよ。昨日より短えじゃねぇか! まだ後ろに手ェついて反ってねぇぞ」
「…………」
「せっかくの朝一番の楽しみがよォ……! ご丁寧に縄を撒いてくれたおかげで、寝顔も見らんねぇし……」
「それは更紗の所為じゃなくお前の手抜かりだ、左之。皆一様に息潜ませて覗いてたのに、でけえ声出した馬鹿がいたからだろうが」
「だってよォ、思い出してみろ! 遊郭から帰ってきたら、あのやんごとなき女郎が無防備に寝てんだぜ!? 健全な男でありゃア声の一つや二つ出るのが道理じゃねぇか」
「それを耐えるのも男道。お前は遊んでる割にケツが青ぇんだよ」
自分専用にしている布団を片付けた女は、どうでもいい会話を続ける男たちの横を無言で素通りした。全てを無視するように姿見の前で正座をする。
栗色の下ろし髪を櫛でとき、まとめていく。その顔はどうにも冴えなかった。ここ数日の寝不足の代償をすっかり肌に青白く反映させていて。
(……今日はお昼寝できるかな。いい加減、ゆっくり寝たい……)
大坂入りした夜は、想像の域をはるかに超える出来事が起こって寝つけなかった。明け方ようやく眠りについた女を起こしたのは、泥酔した男たちの執拗な女郎話だ。
すっかり臍を曲げた更紗は、暗いうちに鳴らされる明六つの鐘で起床している。着物と袴を手に寝入る男たちの間をすり抜け、朝の一番風呂へと駆け込んでいた。
「……それにしても、土方さんが吉田屋に来なかった時点で、ああ食われちまったと落ち込んだけどよ。手入らずのままで本当に良かったぜ」
「そう思うのは自分だけ。たとい情を交わしてもお前みてぇに馬鹿正直に話す奴はいねぇぜ。ましてや怒れる娘も黙る多摩の色男とくりゃ、そりゃなぁ」
「ええー、ぱっつあん……そりゃないぜ! そこんとこハッキリしてくれねぇと……なぁ、更紗……土方さんとは何もなかったんだよな!? まだ破瓜してねぇと……」
「全然言ってる意味が分かりませんけど、変なことするなら相手が誰でも蹴り倒します」
朝から絶好調な原田を鏡越しに睨む。更紗はその背後で膝を立てて紫煙を燻らす色男へ向けても、冷たい口調でけん制した。
自分と同じタイミングで朝風呂に入ったらしい土方は、早朝から浴衣に着替えて一刻ばかり仮眠を取っていたようである。
口には出さずとも遊郭帰りであることは明らかだった。すれ違った時に香った白粉の匂いが、数日前の嫌な記憶を呼び覚ましてくる。
「────だそうだ。あのじゃじゃ馬を食うのは御免だな。蹴られたかねぇ」
艶気を孕んだ声色が、淑やかな煙管の香りと共に広間に広がる。しかし、今はその全てが鼻について腹立たしく思えた。
(……この女たらしの変態。じゃじゃ馬呼ばわりするなら、あんなことしないでよ……!)
あの夜のことを変に意識しているのは自分だけ。仕掛けた当の本人は目が合っても堂々としていて、全く悪びれる様子はない。
更紗は唇を見るたびに複雑な感情が入り混じる。しかし、それを悟られたくない一心で、鏡の中できゅっと引き結んだ。
「土方さん起きた? 散薬を二包ほど、分けて欲しいんですが」
開いた襖の先からひょこりと顔を出したのは、起き抜けから京屋の庭先で竹刀を振っていた沖田であった。
「何だ、朝稽古で怪我でもしたか」
「いえ、平助も一君も元気ですよ。山南さんも源さんも。私もこの通り」
「じゃあ、誰が入用なんだよ」
「近藤先生です。まぁ、飲んだところで気休めですが」
「……朝っぱらから俺に喧嘩売ってんのか」
「違いますよ! ほら、金庫のアレのせいですっかり気が鬱々しちゃって、朝餉を食べないと言うんです。だから、せめて馴染みの妙薬を胃の腑に入れたら食欲出るかなぁって」
沖田が口にした金庫のアレ──。その言葉の威力は寝ていた隊士が起き上がるほど。ここにいる全員が頭を悩ませる大問題に発展していた。
それは土方と二人きりで夜を越えた朝に起きた。一晩中、無人だった芹沢派の部屋から金庫がなくなっているのを隻眼の平山が気づいたのだ。
気分よく帰宅した芹沢は激高。不運はそれだけでなく、昼を過ぎても家里、根岸含む七名の隊士が京屋へ戻らない。彼らの手荷物は綺麗さっぱり消えていた。
「芹沢の野郎、今日は何処へ行くと言ってた」
「今日はですね、両替商の平野屋さんで用立てるそうで」
「この前、金百両強奪したとこじゃねぇか」
「まぁ、そうは言っても……金がないと飯も食べられませんから。連れ回される近藤先生の気が少しでも晴れるように、私たちは早く彼奴らを捕まえないといけませんね」
何かと矢面に立たされる近藤の心労は計り知れないが、無一文となった壬生浪士組はただいま絶賛、困窮中であった。
犯人は逃亡した隊士だと踏んでいた。男たちの話を聞く限り、殿内派の人間だそうだ。大坂入りに乗じて隊の運営資金を盗み、浪士組を脱走したと考えるのが筋だった。
おかげで京屋へ支払う宿代は消えてなくなった。請求されるその日まで、何食わぬ顔で泊まり続けるそうだ。ここにいる男たちは全員、面の皮が厚かった。
「……今日も二手に分かれて探すしかねぇな」
とにかく犯人を見つけ出して、お金を取り返す。芹沢筆頭局長からの命は、逃亡した隊士を生きたまま捕獲することだ。大坂の町で人知れず、捕物帳が始まっていた。
更紗は指示通りに動いた。船着き場でそれらしい人物がいないか聞き取り調査をする。広い城下町を男たちと共に歩き回る。当たり前だが、貧乏でもお腹は空くのだ。
「心太二皿はここに置いて下さい。後、追加でお団子四本ね」
「へぇ、おおきに! 他のお客はんは注文おまへんか?」
「ほらほら、もっと食べなきゃ。腹が減っては戦ができませんよ。更紗も心太どう?」
時は、おやつの時間とも言われる八つ半刻。
更紗は四名の男たちと共に探索しつつ、青空の下で一本2文という破格の串団子を頬張っていた。長椅子が草臥れていても文句はない。金欠の浪士組にとって大事な休息場だ。
「ところてん……どうしても布海苔の匂いが……山南さん、どうぞ」
「市村君、ありがとう。でも私もお腹いっぱいでね、藤堂くんどうだい?」
「うーん、俺もう食べたからなぁ……あ、一は好物だっただろ? 更紗、もう一皿あげてやって」
茶を啜っていた藤堂に促された更紗は、器を手に取る。斜め横で団子の串を口元に運んでいた青年の前へ差し出した。
「あの……良かったらどうぞ」
初めての出会いは土方の部屋だった。眼光の鋭い斎藤一は、永倉も一目置く左利きの隊士だ。噂に聞く通り、あまり他人と積極的に群れようとはしない。
「……忝い」
それでもその場に違和感なく馴染む、不思議な青年だった。上の命令に従順で、余計なことは語らない。土方は特段、寡黙な彼に目をかけているようだ。
静かに心太をすする斎藤から視線を外した更紗は、茜色に染まる準備を始めた大空を仰ぐ。被っていた菅笠を持ち上げた。
「もうすぐ夕方になっちゃう……」
縁もゆかりもない土地での人探しは、困難を極めていた。何の手がかりも見つけられないまま、刻一刻と時間が過ぎるだけ。その顔立ちや風貌さえ既に少し忘れかけている。
「壬生浪士組の一大事でも、穏やかに日は暮れていくものですね」
「俺たちはのんびりしてるけど、土方組は血眼になってどっちの人間も探してるかなぁ」
「まぁ……そうでしょうね。土方さんはああ見えて、慎重で心配性だから」
「おまけに煩い左之さんと融通の利かないぱっつあんが一緒だし、変な奴に声かけて乱闘騒ぎ寸前」
「今頃、源さん大変だろうなぁ。私たちは山南さんの組で良かった」
沖田と藤堂はクツクツと小さく笑い合う。山南組は平和だ。更紗はぼんやりと、昨日の内に転換された土方の新たな思惑を思い出していた。
(……七人とはいかなくても、五人は欲しいって言ってたっけ)
壬生浪士組内の脱走騒動の痛手は金銭面だけではなかった。慢性的な人手不足に加え、目に見えて分かる隊士の減少に近藤は頭を悩ませた。
道中警護の務めを終えるのはあと半月後。行きと帰りで人数が違うのは示しがつかない。できれば、お上に内輪揉めを気づかれぬまま、帰京したいのが本音だ。
そのために目ぼしい若者を見つけて、入隊してもらう必要があると土方は言うが、ほとんど給金の出ない壬生浪士組へ加入したがる人間がいるはずもなく……。
頼みの綱は大坂出身の隊士たちだった。彼らには隊とは別行動で昔馴染みの屈強な男たちを勧誘するように命を出していた。
「ほら、油を売るのもそこそこに。我々も土方君を見習って両方の人探しを再開しましょう」
「と言っても、山南さん。あの人たちはもう大坂には居ませんよ。盗んだ金子を使えばその夜には全員江戸へ渡航できるでしょうし」
「そう……だよなぁ。大金叩いて船に乗れば、手っ取り早く俺たちからも逃げられるし」
「……それは早合点だ。まだ盗んだという確証はない。私はね、どうしても同志であった彼らが盗人だとは思えないんだよ」
山南が真面目な表情を浮かべれば、饒舌であった沖田と藤堂がぴたりと動きを止める。
それは心の奥底にある疑念だった。水戸派の尊王思想で、居候の女に敵意を向けるくらいに攘夷を掲げる誇り高き武士が、隊の資金を盗むほどに落ちぶれるものなのだろうか。
このままだと真実は闇の中だ。そして、示し合わせて七人で隊を抜けた罪は重い。見つかった人間は、もれなく全ての贖罪を背負うことが必然だ。
「こんな金も行く末も危うい浪士組に入りたがる武士なんていますかねぇ」
「うーん、武士というより、武士になりたい輩が入るんじゃないか?」
「何だか今以上に欲目の強い人が集まってきそうだなぁ……一君はどう思う?」
「……どう思うと言われても。副長には何か策があるのだろう」
「……策と言うほどのものではないんだがね、志高き武芸者である事を条件にすれば、山崎君が逸材がいると、かつて通っていた道場を当たってくれるそうだ」
更紗は男たちの他愛のない会話を聞いていた。その視線の先には黒装束の男。長椅子に一人で座っているが、なぜかこちらの様子を伺っているように感じる。
(……怪しい人?ではないのかな。少し見た目は変わってるけど……)
幕末では珍しく、つるりと綺麗に剃られた坊主頭だ。お寺の住職にしては、恰幅が良すぎるように思える。店主を呼ぶその眼差しは、とても柔らかいものだ。
代金を払い終えたその男は身支度を整えると、小袋を置いたまま原田よりも高い背を折って目の前を横切った。
「……あの、すみません。お兄さん椅子に何か忘れてますよ」
「うむ?」
「ごめんなさい。ずっと見てたわけじゃないんですけど……気づいちゃったんで」
浪士組の男たちは話しを止めて女を見る。その場から立ち上がった更紗は、隣の長椅子まで駆けると、古ぼけた麻の小袋を手にしてその恰幅の良い男に差し出した。
更紗から受け取った男は小さく微笑む。慣れた手つきで袋を開けると、剣だこのある大きな掌にチャリンと鳴るその中身を乗せた。
「大したものは入っていないんだよ。たった7文の端銭だ」
「……端銭かは分からないですけど。7文あれば美味しい長芋が買えますよ」
「では、この小袋。薄汚れてしまって捨てられても可笑しくないものでね」
「その小袋の価値を決めるのは、他人じゃなくて持ち主のあなたです。もしかしたら、大切な人から貰った手作りのものかもしれないし……って、何の話をしてるんだっけ?」
まるで何かの試験を受けているような気分──。小首を傾げた更紗は、相手の顔を見るために顔の半分を隠していた菅笠をぐっと持ち上げる。
西に傾く太陽の色味が更紗の瞳に宿っていく。男は一瞬目を丸くするも、すぐに頬を緩めて穏やかな表情を浮かべた。
「……そうか、貴女が浪士組の……」
「えっと……私たちのこと、知ってるんですか……?」
「また、改めて。正式に心を決めました暁には八軒家へお伺い致します」
「……そうですか。私は壬生浪士組副長の山南敬助と申します。いつでもお待ちしていますので、失礼ながら貴殿の名を伺っても?」
「……私は松原忠司と申します。左様ならば、これにて失礼仕る」
大きく一歩後退った男は、とても丁寧な所作で深々とお辞儀をしてくれる。
浪士組への入隊を検討してくれていたのだろうか。もしかすると山崎の知人なのかもしれない。後ろ姿を見送った更紗は、そわそわと落ち着かない心地に苛まれた。
「……いつから居たんだろうな。俺、何か変なこと口走ってなかったっけ……」
「それを言うなら平助より私のほうが不味いですよ。どうせ泡銭で払うからって、団子いっぱい頼んじゃった……」
「否、繕いのない浪士組の人となりを知って貰えば良いんだよ。待てば甘露の日和ありだ」
「兎にも角にも左之さんが居なくてよかったよな。きっと小袋の中身はお代の足しにして、その辺の川に投げ捨てちゃってただろうから」
へらりと笑う藤堂に釣られるように沖田と山南が苦笑する。黙る斎藤の背中越しでは、橙色に変わり始めた西空を鳶が悠然と飛んでいた。
ピーヒョロロロロ、と鳴く声が上空から天下へと反響する。温みのあったはずの潮風が、ひやりと冷たく更紗の頬を撫でていくのを感じた。




