窮余の一策
天下の陰気を吸い込んだような深い闇を照らすのは、生まれて初めて見る恐ろしく赤い立待月だった。
「お兄さん、私と……イイコトしない?」
その妖しき月光に操られるように紅い唇が弧を描く。独特な雰囲気をまとう女郎は、腕に登り鯉を飼う男、ただ一人だけを見つめていた。
更紗は素足で地面の状態を確認するように歩く。男の抜き身から視線を逸らさないまま、自身の着物の合わせへ指先を這わせた。
両の手で開けば、下着で寄せた豊かな谷間が現れる。挑発的に微笑む態度の裏で、人を傷つける刃の重みを確かめていた。
「ほう、骨ガラと違うて器はもう出来上がってんのか。何処の見世のモンや? 源氏名は?」
嫌らしい目つきで見入る男を焦らすかのように、更紗は唇に触れた指先で落ちてきた髪の一房を耳にかける。
「……店なんてありません。名前は……ただの女です」
ふと、名を呼ばれた気がしたが、龍以外は誰も知るわけがない。野次馬に囲まれた今の状況では、輪のどの辺りから放たれた声かも分からなかった。
「だから、身寄りのない私を一晩、買いません?」
「へぇ、東言葉とは珍しいもんや……大坂の掃き溜めから自力で這い出るつもりか」
カチャリ、と刀を鞘に収めた男から、殺気の念は消え去っていた。代わりに遊郭の客と何ら変わらぬ、男の強欲をその目に宿していた。
「まぁええ、せいぜい安い体使うて楽しませてくれや」
一番恐れていた抜き身が下げられたのなら、今から仕掛ける勝負の結果は五分五分。
自分より背の高い男だった。更紗は足元からその顔までの距離を視線で測る。身体の芯から湧き上がる力を使って、男相手でも引けを取らない戦いぶりを見せる自信はある。
「働きが悪いもんちゃうかったら、わてとこで置いてやってもええぞ」
「それは嬉しい。行くところがなくて困ってたんです……」
手を伸ばしてくる男との距離は数センチ。更紗は視線を伏せると、着物の前の裾を開いた。白い太ももを惜しげもなく晒していく。
「おお、先に見せてくれるんか」
ニヤリと薄汚く笑い、欲のままに抱き締めてくる男の首へ両の手を絡めたら、腹を括った女の戦いは幕を開ける────。
「極上のひと時をあなたへ差し上げます」
そう滑らかに、寄せた唇から耳元へ吐息を吹き込んだ次の瞬間、名もなき女郎は男の急所めがけて躊躇なく右足を突き上げる。
「……ううっ!! 痛っ……!」
何とも言えない感触が膝上をひた走るが、自分に覆いかぶさるように蹲る男を突き飛ばす。そして、間髪入れずに地面を蹴り出した。
数秒とかからず詰めた間合いに背を向けると、勢いのままに飛び上がる。その歪んだ顔面へ、むき出しの怒りを脚に乗せて振り抜いた。
「地獄へ落ちろ……!!!」
初めて本気で蹴り上げた人間が宙を舞う。その姿は、さながら腕の鯉が自由を得て、生き生きと夜の海を泳いでいるようであった。
しかし、地面に触れた足裏に石が当たる。更紗の足首に砕けるような激痛が襲い、そのまま男とともに暗黒の世界へ墜落した。
「……危な……!」
二、三歩よろけて目を瞑り、迫り来る痛みに備えた。けれど、地面に叩きつけられるはずだった腕は引き上げられ、目の前に現れた黒い壁に顔からめり込んでいく。
身体の浮遊感を失ったことで、苦界が現実と繋がる。落下の衝撃を受け止めてくれたその厚みから、覚えのある煙管の匂いが漂ってきて。
「誰でもいい、奉行所の人間を呼んでこい。総司、おめえには仕事をやる。縄を頂戴してやれ」
「分かりました、けど……どっちに縄を掛ければいいのか迷いますね。片や、伸びてるやくざ者と、片や、加減なくとっちめた女郎と」
「つべこべ言ってねぇで早くしろ」
「面白いものが見られたのに、土方さんは頭が硬いなぁ。縄、持ち歩けば良かったですね。廓に置いてあるかなぁ」
鼓膜に注がれる男たちの声が悪夢であってほしかった。更紗は目蓋を下ろしたまま、この世の終わりに足を踏み入れてしまったのだと、心から何かが落下するのを感じた。
「……最悪……だ……」
顔を寄せていた着物から、力が抜けるようにずるりと滑り落ちる。更紗はその場にへなへなと座り込んだ。薄く開いた淡い瞳には、浅葱色の羽織がいくつも映り込んでいる。
沖田が縄を片手に歩む姿も、永倉と藤堂が倒れている男の前でしゃがみ込む姿も、原田が笑顔で駆け寄ってくる姿も夢でないのなら、ここは────。
追い打ちをかけるのは、土方だった。至近距離から見下ろしてくる不躾な眼差しが、あの世で再び美貌の閻魔様の審判を待つように脅してくる。
「一体、おめえは何してんだ」
「……み……見逃して下さい」
咄嗟に出た言葉は情けないものであったが、真っ白になった頭が弾き出した本音だった。
更紗は土方を拝むようにして髷姿の頭を下げる。逃げ出したい一心で後退ろうとするも、掴んでいた片方の腕は離すつもりはないらしく。
「おめえは、やはり間者か」
表情一つ変えることなく切れ長の双眸で女郎を見据え続ける。徐々に人が寄り集まれば、土方は呆れたように溜め息を落とした。
「……たく、あられもねぇ」
腕が解かれたと思いきや、ばさりと頭上から何かが落とされ、否応無しに肩から下をすっぽりと包み込んでくれる。
更紗は黒の羽織がかけられたのだと理解するも、その目に映った自分の姿に顔から火が出るような、全身が燃え上がる心地に襲われた。
「……きゃあ……!!」
慌てて羽織の前を押さえるが、もう何もかもが遅い。はだけた着物から谷間どころか黒い下着が見えていた。そうなると、露出した脚もたぶん見られている。
もうこのまま地面へ埋めてほしい。壬生浪士組がいる世界から消えてなくなりたいと思うが、目の前に来た原田を突き飛ばした女郎が、迷いなく飛びついてきて。
「お更ちゃん!! 無事で良かった…!!!」
「……龍さん! まだ逃げてなかったんですか!?」
「お更ちゃん置いて逃げるなんて! そんな薄情な事できるわけないやんか……!!」
「……龍さ……く、苦しい……」
「怪我はない!? ほんま凄い蹴りやったぁ……ほんま堪忍やで……ほんまおおきに……」
龍はぎゅっと力いっぱい抱き締めてくれる。その回された腕も響かせる声も微かに震え、彼女の気持ちを代弁してくれていた。
龍の背中越しにゆっくりと歩いてくるのは、浅葱色の段だら羽織を肩からかける妹とその羽織を貸したであろう穏やかな顔の山南。
もう一人の副長が二人に付き添ってくれるほど、心強いことはない。張り詰めていた更紗の心も、少し安堵を取り戻して緩んでいく。
「おい、この女郎は誰だ。おめえを唆した張本人か」
「なぁ、この偉そうな人は誰なん? 顔だけの男は絶対信用したらあかんで」
冷酷に見下ろす侍の着物には、べったりと白粉がついていた。更紗を引き寄せ、怪訝に見上げる女郎が、お互いに睨みを利かせること、およそ数十秒。
暗闇にバチバチっと男女の喧嘩の火花が散ったようだった。更紗は不穏な寒気に襲われ、一人ぶるりと身震いをした。
「……つ……疲れた………」
カラカラと竹製の引き戸を閉め切った更紗は、火照る顔に手拭いを添えた。先ほどとは打って変わり、深夜の静かな京屋の板廊下を行灯の明かりを頼りに歩んでいた。
また引き摺られるように帰宅した更紗を待っていたのは辛辣な説教だったが、言葉の刃を受ける盾となってくれたのは、口のすこぶる強い龍であった。
更紗が話すと怒られるだけだが、全ての事情を知る龍が言い返せば、怒りの矛先が彼女へと向かう。つまり、土方との相性が悪かった。
おかげで土方の怒りから解放された更紗は風呂へ駆け込んだ。全てをなかったことにするために女髷を解き、白粉や紅をお湯できっちり洗い落とした。
「……やっと一人になれた。明日どんな顔して会うのが正解……?」
身なりを元に戻したところで恥は消えない。浪士組の男たちと会話する未来を想像するだけで、絶望が胸いっぱいに広がっていく。
更紗はがっくりと肩を落として、部屋の襖を開ける。真っ暗闇のはずの部屋に行灯が一つ灯され、髷姿の男が書状を読み耽っていた。
「……あれ? 土方さん何でここに……新町へ戻ったんじゃ……?」
龍を宿から追い出した男は、遊郭へ戻ると言ったはず。一人で今後の作戦会議をする予定が、まさか最大の敵が居座っているとは、万事休すだ。
よく見れば、お揃いの京屋の浴衣を着用している。土方はすっかり寛ぎモードに入ってしまっているようだ。更紗の心が憂鬱に乾いた。
「誰かさんのせいで着物を駄目にしちまってな」
「……その節はすみません。明日洗わせていただきます……」
「それにしてもおめえは風呂が長ぇな。女はそんなもんか」
「その辺はちょっと分かりませんけど……って。何ですかこれ……!」
手拭いで濡れた髪を拭きながら畳を歩くと、ぴったりとくっつけられて敷いてある二組の白布団が目に留まった。
仄暗い部屋にあるのはそれだけでなく、夜食らしき膳が二つ並べてある。大坂へ発つ前、この男が教えてくれた、その意味は────。
「京屋の女中が気を利かせたんだろうよ」
「気をって……何の気を利かせるんですか! 意味分かんないですね!!」
カッと顔が熱くなった更紗は片方の布団を掴み、ズルズルと引っ張って端へ移動した。そのまま暗がりに消えたかったが、行灯の明かりのせいで身を隠し切ることができない。
浪士組が使える部屋は二つしかない。一部屋は芹沢派が占領しているため、残りの隊士は皆この広間で寝泊まりだ。
こうなることは覚悟していたが、初日から男と二人で夜を越すのは本当に勘弁してほしい。
(……しかも土方さんだし……寝てる間に斬られたらどうしよう)
浴衣姿とはいえ、土方の傍には刀が置かれている。まだ間者だと疑っているのだろうか。
せめて山南がいてくれたら……と欲が出るが、彼は龍の妹に付き添い、奉行所へ同行してくれた。
代わりに隊士をまとめたのは、永倉だ。その場に居なかった芹沢一派に疑念を抱かせぬよう、局長が先に始めていた宴へ皆を引き連れて向かってくれた。
「市村」
静まり返った部屋に男の低い声が響く。名字とはいえ、自分の名前を呼ばれたのは初めてだった。
「足見せてみろ」
「……え?」
「捻ってんだろう。しょうがねぇから診てやる」
ぽんぽんと、手の平で畳を軽く打ち叩く音が木霊する。龍の力を借りて、無罪を勝ち取ったはずの自分に告げる地獄からの呼び出しだ。
それでも、着地に失敗した足を誤魔化しながら、京屋まで歩いた更紗は、言わなくても見抜いた土方の洞察力を少し見直した。
「……よく、気づきましたね」
バレたのであればといいや、と引き摺りながら歩く。行灯に照らし出された左の足首は湯の熱も含んで右のそれより膨らんで見える。
ゆっくりと腰を下ろし、三角座りで浴衣の裾を少しだけ捲ってみれば、スッと伸びてきた長い指が遠慮なく足の甲を掴んできて。
「あれだけ暴れて、足の裏は怪我してねぇのか」
「……え、待って……」
「足首は熱いな。捻って熱が籠ってんのか……」
「いや、その……大丈夫、大丈夫です。だから……離して……」
誰もいないだろうと素肌に浴衣を羽織ってきただけ。何なら下着は自作の紐パンのみ。じっと見られるのも困るが、足を持ち上げられるのもとんでもなく都合が悪い。
けれども、その男は女の焦りように気づかないようだ。はだける裾を必死で押さえる更紗に反して、土方は涼しい顔で、足首から脛に指先を滑らせる。
「化粧だけでなく髷も解いたのか」
「……そんなの、解きますよ。別に好きであの姿になったわけじゃないので……」
「そうかい、傍から見りゃあ満更でもねぇように見えたがな」
「……だから、さっきも言った通り、ただの人助けです。もう、あんなことはしません」
ぼんやりと灯る明かりの近くで、更紗は動揺を悟られないようにするのが精一杯。
優しく照らされた男の浴衣は白から橙へと色味を変えていた。着崩した合わせから覗く程よく厚い胸板が、鍛えられた肉体を意識させる。
(……お願い。早く終わって……)
何とも言えない空気が二人の間に漂い始める。背後の布団が気になってしまい、更紗は顔に熱が集まる。それを見ていた土方は堪え切れず、口元を綻ばせた。
「何だ、緊張してんのか」
「……そんなことありません」
高鳴る鼓動を抑えるのに必死だった。更紗は少しでも平静を保とうと闇の向こう側を見つめる。土方はようやく素肌から手を離し、小袋から何かを取り出した。
「まぁ、いい。薬を飲みゃあ一晩で治るだろう」
「……何ですか、これ?」
「代々伝わる家伝薬だ。打ち身や捻挫に良く効くもんでな」
「家伝薬ですか……へぇー」
手渡された白い包みをそっと開くと濃い紫色の粉が入っていた。物珍しげに見つめていれば、ひょいと湯気の立つ猪口を差し出してくる。
「……何ですか?」
「この薬は燗酒で飲むんだ。一気に流し込め」
「そんな薬の飲み方、聞いたことないですよ」
「おめえが知らなくてもそうやって飲むんだよ。黙って煽れ」
更紗は押し切られるように口に粉薬を含んだ。渡されたお酒に唇をつけるが予想以上に熱く、肩をびくつかせた。
(熱っ!! 飲めない!!)
思わず、自分の顔から猪口を遠ざける。一瞬で口内に苦味が広がっていく。
「……っ、けほっ……!」
喉に粉薬が張り付いて、むせ返る。涙目で室内の茶器を探せば、土方は片眉を僅かに持ち上げ手を伸ばしてきた。
「しょうがねぇな」
取り上げられた猪口で一体、何をするのか。男はなぜか、目先で熱い酒に口をつけ、その喉に流し込んだ。
放り捨てられた空の猪口が畳を転がっていく。刹那、更紗はぐっと腕を掴まれ、強引に土方のもとへ引き寄せられて。
「……ぅ……んっ……!!」
唇を塞がれ、女は驚きで仰け反る。しかし、後頭部に回された大きな手が逃がしてくれなかった。男の押さえつける力が強くて、思うように身動きがとれない。
抵抗する間もなく、巧みに打ち開かされた隙間から温い滴が注がれていく。更紗の喉を否応なしに潤せば、口内に広がった苦味は和らいだ。
ゴクリ、ゴクリと、吐き出すこともできないそれは飲むしかなかった。更紗は薄らいだ酸素を求めるように、全力で土方を押し返す。重ねていた唇がどうにか離れた。
「……はぁっ……はぁ……!?」
荒く息をする唇の端から垂れる水滴を男は指で拭おうとするが、更紗は手で払いのけた。
「……何、するんですか……!」
土方は代わりに転がっていた猪口を手に取った。まるで二人の間には何事もなかったように、落ち着き払った顔つきで手酌する。
「薬を飲ませてやったんじゃねぇか」
「……し、信じらんない……!」
「おめえの言う、人助けと同じだろう」
更紗は少しでもその感触を消そうと手の甲で強く唇を擦った。けれど、それは逆効果だった。たった数秒の記憶が、鮮やかに脳内で再生されていく。
(……幕末では口移しで薬を飲ますのが常識? いや、絶対違うでしょ! えぇ……!?)
今日一日、身に起こった全ての出来事が夢であってもおかしくない。現実が現実と思えなくても、口内に広がる苦くて甘い風味が真実であることを証明してくれる。
「餓鬼は寝る時間だ。ただし、おめえの素性が女郎なら一晩買ってやる」
「最低っ……!! 言われなくても寝ます……!!!」
急いで隅に寄せた布団に潜り込んだ更紗は、頭まですっぽりそれを被った。部屋中に響き渡りそうな心臓の音が体内を駆け巡る。今夜は全く寝られる気がしない。
朝まで無事でいられる保証が音を立てて崩れ落ちる。遊郭にいる男は全員敵だ。更紗はよく分からない羞恥と焦燥に襲われ、完全にのぼせ上がった身体を両手で強く抱き締めた。




