謎の女
海へ流れる河川から枝分かれして運河が張られた大坂は、水の都だった。夜の帳が下りてもすぐに賑やかさを手放すことはなかった。
壬生浪士組の常宿となる京屋も八軒家船着場の目と鼻の先だ。今宵も旅装束の泊まり客が提灯片手に続々と敷居を跨いでいた。
「ほんま偉いすんまへんでした! よう見たら、こないに別嬪さんやのに、うちの女中が男やと勘違いしてもうて……」
「いえいえ……こちらこそ、すみません。私も紛らわしい格好をしているので、一言声をかければ良かったんですけど……」
「そんな事あらしまへん! 公方様の警護をなさったはる壬生浪士組様へのご無礼、お詫びしてもしきれまへん。何卒お許しを……」
行灯に明かりが灯る頃。京屋忠兵衛と名乗る月代を広くとった宿の主人が、更紗に向かって頭を下げていた。
共に低頭するのは老いた女中だ。更紗が女湯の暖簾を潜ろうとした際に騒いだのだ。
「そんな、京屋さん顔を上げて下さい。別に私は気にしていませんし、誰かに報告するつもりもないです。お風呂に入れれば、何でもいいので……」
座位のまま身動きの取れない船に揺られること、六、七時間。
日の暮れた大坂に辿り着き、京屋の一室で痛くなった腰をさする女をよそに、壬生浪士組の男たちはこぞって夜の町へと出かけていった。
(……今日はきっと帰って来ないよね。別にいいけど)
どこに行くのか聞かないが、置いて行かれた時点で予想はついた。この時代の男たちは堂々と花街で遊女を買い、自らの欲を満たす。
初めて知った時は衝撃を受け、嫌悪感を抱いた更紗も、日が経つにつれ、ここではそれが普通であることを受け止めていた。
自分の恋人であれば大問題だが、全員が赤の他人。彼らの私生活で何をしてくれようと、口を出す権利はない。
良くも悪くも男所帯で紅一点の自分が安全に暮らせている理由が、そこにはあるのだ。
「今の私には、お風呂があればそれでいい」
京屋からお詫びに売り物だった糠袋を貰った更紗は、部屋にあった浴衣と手拭いを片手に気を取り直して女湯の暖簾を潜った。
カラカラと鳴る竹製の引き戸を開けてゆけば、篭っていた湯気が足下の行灯に照らされ、全身を包むように仄白く漂う。
「……おお、意外と狭い。脱衣所とお風呂の仕切りがない……」
戸を閉め切った更紗は、床に備え付けられた籠を発見した。その中の一つに、女性の着物一式が畳まれて置かれていることに気づく。
(……あ……先客がいるんだ)
八畳もない室内の奥には、酒樽で作られた丸い湯船が少しの距離を置いて二つ。
曇る視界に、片方の湯に浸かる女の影がぼんやり映り込む。まるで旅館の露天風呂の情緒だ。
けれど、それは外にあるわけではなく……。代わりに外からでも覗けそうな低位置にある黒格子の窓に、月の光が射し込んでいた。
「ちょっと! ここは女湯やで! 男湯は隣や! 今すぐ出直してき!!」
シンと静まっていた風呂場に女の金切り声が響く。更紗は途端に鼓動が跳ねるが、何かが近くを掠める気配を感じた。
次の瞬間、真横の板壁にカコン、と桶のぶつかる小気味良い音が鼓膜を揺らした。たった今、自分へ向かって投げられたのだ。
「……ちょ、ちょっと待って下さい! 女です! 私、女ですから!!」
更紗は慌てて袴紐を解いた。それを湿った床へ落とすと、身に着けていた着物と襦袢をその場で脱ぎ散らかしていく。
ぎゅうぎゅうに巻いていた晒さえ息つく間もなく解き落としてゆけば、樽に浸かる女の影が動いた。
「……あら、女の人やったの?」
「……そうですよ。紛らわしい格好してますけど、これでも女です……」
「いやぁ、背も高いし髷も結わえんといはるから、流行りの浪士さんや思うたわ。堪忍え」
「……いえ」
女らしさをひた隠した弊害にまた見舞われる。唯一の楽しみだった入浴を前にして、更紗は急速に気分が滅入っていた。
(この時代だと、私の身長は男側なんだよね……ちょっと気をつけなきゃだな)
それでも、安心して裸になれる安堵感が最高だ。頭からお湯を被れる解放感は、数週間ぶりの潤いを全身で感じられた。澱んでいた心の鬱積まで洗い流されていく。
「……ふぅ……気持ちいい……」
更紗は桶に張った湯に糠袋をゆっくりと沈める。中から白濁の液が染み出てくるのを確認し、教えてもらった通りに肌に優しく押し当て滑らせていく。
米ぬか特有の匂いだが、不快さは感じなかった。ボディソープのように泡立ちはしないが、ぬめりを流し切れば肌はつるつるになった。
「……よし」
持ち込んだ手拭いで髪を一つに纏めあげた更紗はその場から立ち上がった。満を持して念願の湯船へ一直線に進むのだが。
「お嬢さん、ええ体してはるねぇ。ほんまはこういう子が女郎に向いてるんやろなぁ」
「……え?」
酒樽に手を置いて、慎重に跨いでいた自分にかけられた言葉に耳を疑う。眉間に皺を寄せた更紗は、ちゃぷんと湯船に足の指先を浸すとその身を隠すように沈めた。
熱くも温くもない丁度いい湯加減だった。身も心も癒やされたいところだが、背後から浴びせられる熱視線が気になって心がざわつく。
(……女郎って遊女のことだよね。初対面なのにジロジロ見てきて、失礼な人だな)
同性だからこそ、無神経な態度にムッとしてしまう。文句は言わないけれど、気を悪くしたことだけは示そうと、更紗は怪訝な顔でチラリと視線を向けるが。
「お嬢さんは旅人さん? どちらから来はったの? お肌が雪のように白いから北国やろか」
「……いえ……京です」
「あら、奇遇やねぇ。うちも京から来たんよ。住まいはどちら?」
「……はぁ……壬生ですけど」
「壬生村て……今、巷で噂になってはる嫌われ者の壬生浪のいはるとこやないの」
「……嫌われ者って……別に悪い人たちじゃないんですけど……」
その女は馴れ馴れしかった。更紗が警戒しつつ答えると、驚いた表情を浮かべる。樽枠から身を乗り出して、よく通る声を風呂場へ響かせた。
「綺麗な目やねぇ……まるで硝子玉みたい。月明かりのせいやろか」
「……まぁ……そうかもしれないですね」
「うちの好いた人がいつか航海に出て海の向こうの世界を見たいて、言うてはるんやけど、そこには硝子玉みたいな目をした大きな人間がようさんいるんやって教えてくれたわ」
「……それって、海を渡って外国……船で異国へ行くってことですか?」
「うん、そうみたい。周りは攘夷、攘夷言うてる中で、何や夢のような話やけどなぁ。頼んだら……うちも連れてって貰えるんやろかね」
屯所では出てくることのない話題だった。江戸時代らしからぬ話を聞かされた更紗は、俯きながら湯を掬って肩にかけ流す女を改めて見つめた。
(異人嫌いの時代に外国に行きたいなんて……そんなこと考える人いるんだ)
ポジティブに異国の話をする人間に会ったのは初めてだ。幕末において海外へ行きたいと願う男性とお付き合いしているのであれば、その女性に興味を引かれるのも必然。
町の女たちと何ら変わらず、風呂でも女髷を解かないその容姿は、肩から背中のラインを見てもかなり華奢だった。
「ここで会うたのも何かの縁やと思うて……ちょっと、お嬢さんにお願いしたい事があるんやけど」
「……え、私にですか? お願いしたいことって何……」
「そんな難しい事やあらしまへん。もし、明日までにうちが戻らへんかったら、文を二通、三条木屋町にいるお母はんに届けて欲しいんや」
「……文を二通ですか。すみません。私、京へ戻るのはだいぶ先なので、遅くなってもご自身で渡されたほうが早いと思います」
「だから、戻らへんかった場合ね」
こちらへ向ける眼差しが妖艶だった。瞳は涼しげな二重まぶたに縁取られ、スッと通った鼻筋が江戸時代の和顔美人そのものだ。
「もし、うちが命を取られる事になった時に渡して欲しいの」
けれども、更紗が気になるのは美貌ではなく、先ほどから繰り返される歯に衣着せぬ発言の数々で……。
「え、ちょっと待って下さい……命を取られるって……どういう意味ですか?」
「そのまんまや。もしかしたら明日の朝には屍になってるかも知れへんし、なってへんかも知れへん」
「しかばねって……え、お姉さん……これからどこに行って何をするおつもりなんですか?」
「ふふ、そうやねぇ……そんなの聞いたら、寝られへんなってしまうで」
「……ここまで聞いたら、どっちにしても寝られないですよ」
更紗は怪しい女から目が離せなかった。嫌な予感しかしない。
パシャリと水面から立ち上がった女は月の光を全身に浴びた。腰まで浸かる湯を再び掬い上げ、心を奮い立たせるように顔へかけてゆく。
「……うちは今から遊郭に乗り込むんよ。女衒と戦って、騙されて女郎屋に売られた妹を逃してやるんや」
まるで己の身を清めているようだった。ほんのり赤くなった肌を伝う雫は、揺蕩う湯船に吸い込まれていくが、更紗の胸中は大波が押し寄せたようにぐらつくもので。
「……誰と戦うかは知りませんけど、相手は男の人ですよね? 何を使って戦うんですか?」
「短刀を持ってきた。刺し違える覚悟はできてる」
「刺し違えるって……えぇ……? 何を言って……剣術の経験は?」
「無い。気組あるのみや」
「気組って……それは剣技あっての作戦だし! どう考えても気合いだけで素人が勝てるわけないでしょう!? まずは相手と話し合って……」
「話の分かる相手やったらハナからこんな事にはなってへん。敵は破落戸や。お嬢さんが思うてるほど世間様は甘くないんやで」
酒樽に手をかけ風呂から上がった女は、ニヤリと微笑んでくる。でも、その瞳は笑っておらず、死を覚悟したように潤んでいた。
「変な事を頼んで堪忍え。今聞いた話は夢や思うて全て忘れて」
更紗は性急に鼓動がばくばくと張り詰める。一体どうすればいいのか。ただ、自分の身の安全が一番大事だ。唇を噛み締め、その女の後ろ姿を黙って見つめていた。
身長は百五十センチもないかもしれない。細くてしなやかな柳腰。ただ、強く押せば折れてしまいそうで、肋骨は浮き出ていた。
どれだけ甘く見積もっても負け戦だろう。予測できる最悪の事態がのぼせ始めた脳内を埋め尽くしていく。
(……数時間後には、この人は死ぬかもしれない)
手拭いで大して身体を拭くこともせずに、女は褪せた襦袢をまとう。更紗は何も声がかけられない。ただ、着付ける女の手が微かに震えている。襦袢の胸元に差し込んだ手紙は蒸気で既に濡れているように見えた。
「待って……ちょっと待って……」
更紗は無意識に呟いていた。そのまま湯船に頭まで潜って浮き上がると、酸素を求めるように呼吸が荒くなる。
「………妹さんを助け出せれば……それでいいんですよね?」
「……え?」
「……だったら……あなたを見殺しにするのは嫌だから、私も行きます」
「……何を言い出すかと思えば。見ず知らずのお嬢さんを危ない目に遭わせる訳にはいかへんやろ」
「これでも少し武術ができます……危ない目に遭う前に逃げて……何とかすれば……」
湯に当てられた頭が、尋常でなくクラクラする。おかしいことを言っている自分を裏にいるもう一人の自分が冷ややかに見つめているような、妙な感覚に陥っていた。
(私、本当にこの人を助けるの……? 土方さんに見つかったら絶対怒られる……いや、怒られるどころじゃ済まない。下手すれば私も……)
今更、自分の言動を後悔したところで、吐き出した言葉が元に戻ることはない。
所詮、壬生浪士組に拾われていなかったら、地球のどこでのたれ死んでいても変じゃなかったこの命。
時代に必要とされていないちっぽけな存在だ。少しでも人の役に立つなら、数奇な運命で知り合った彼女に協力するのも決して悪い決断ではないと思いたくて。
「……私は市村更紗と言います。あなたの名前を教えて下さい……」
「……うちは楢崎龍と申します。龍の落とし子の龍と書いて、りょうと読みます」
「……龍さんですか。強そうな名前ですね……」
心にもないことを口走る淡褐色の双眸に映り込むのは、縋るような眼差しを向けてくる、か弱き女の姿であった。
更紗はため息交じりに目蓋を下ろした。その裏に焼きつく般若のような男の形相が今ならまだ引き返せるのだと、睨み訴えてくる錯覚すら覚えていた。




