初下坂
太陽が山際から昇り始める頃、人々を眠りから起こす明六つの鐘が鳴り響く。珍しく屯所では、隊士たちの慌ただしい朝が始まっていた。
更紗は行灯を灯し、朝餉の準備や片付けに追われた。ひと仕事を終え、すっかり明るくなった自室で一人、旅支度に勤しんでいる。
畳に広げた緋色の風呂敷には、隠すように黒の下着と手縫いの紐パンを包む手拭いがある。替えの着物と襦袢、櫛にいつもの草履もだ。
そして昨夜、土方から受け取った護身用の短刀が置かれている。
その横、誂えと書かれた白の畳紙を丁寧に開けば、真新しい浅葱色の羽織が、昨夜に引き続きその姿を現してくれた。
「……これが、あの有名な段だら羽織か」
昨日、大広間に集められた全隊士に一着ずつ与えられたのは、上質な畳紙に包まれた新品の羽織であった。
先日の武術上覧によって壬生浪士組の実力を買った会津藩は、初仕事として上洛した徳川将軍家茂公の大坂に下る道中警護を要請した。
そんな願っても無い大役を得た壬生浪士組の喜びようは半端ないものだった。気を良くした芹沢局長から正式な隊服として本日から全隊士に着用するよう命令が出た。
「──更紗、もう準備は出来たかい?」
開けっ放しの戸の向こう側から優しげな男の声が聞こえた。更紗は包み終えた風呂敷をそのままに、背後を振り返る。
「源さん。荷物はまとめ終わったんですけど、これはどう持ち運べばいいのか……」
「どれ、見てあげよう。失礼するよ」
許可なく部屋へ上がり込んでくる他の男たちとは違って、礼儀を持って接してくれる。井上源三郎という男は、山崎と同じく甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
そんな年長者の親切心に更紗も安心して頼るようになった。すると、井上も娘や妹のように可愛がってくれる。更紗も自然と“源さん”と名前で呼ぶようになった。
「それは、羽織の上からくくり付けるんだよ。まずは羽織を着なさい」
「羽織が先ですね……分かりました」
折り畳まれた羽織の袖を広げて肩口を両手で持ち上げれば、真新しい水色の布地がはらりと重力のままに地面へ落ちる。
初めて袖を通す浅葱のそれは、糊がパリッと効いてゴワゴワとしていた。それでも、彼らの歴史の一ページに触れたことが何だか嬉しくて仕方ない。
更紗は自分も浪士組の一員である意識を持つようになっていた。ひらひらと段だら模様に白く染め抜かれた袖を振っていると、緋色の風呂敷を手にした井上が近づいてくる。
「これを背負って前で結びなさい」
「はい、こんな感じでいいですか」
「ああ、そうだ。浅葱の色に赤がよく映えるねぇ。この風呂敷は歳さんのものかい?」
「昨日、渡されたので多分そうだと思います。やっぱ派手すぎますよね?」
「いや、若い女子はその位の華やかさがあっていいもんだよ」
「若いおなごって……源さん。私、別に女に見られたいわけじゃないです」
いつものように本音が口をついて溢れ出せば、またかと言わんばかりに微笑んだ井上の眼差しが三日月のように細められる。
「ならば美男に見られるのも悪くはない。歳さんが呼んでいるから行って来なさい。戸締りはしておいてあげるから」
「げ、土方さん……すみません、じゃあお願いします!」
更紗は縁側の雨戸に手を掛けた井上へ軽く頭を下げると、この時代に来て初めて履いた白足袋を見つめて踵を翻す。
自分の部屋から見て二つ隣、山南の部屋を越えると土方の部屋だった。急ぎ足で近づいていくが、珍しくその障子は開けられている。
声をかける前にひょこりと覗き込んだ。既に段だら羽織を纏う二人の男たちが、文机の前に座り込んで、今も紫煙を燻らす男と何かを話しているようだ。
「……歳、この通りだ。私の顔に免じて此処は折れてくれ」
「そうですよ、これだけ近藤先生が頼んでいるんだから観念して下さい。どうせ大坂にいる人の誰も土方さんを知らないんです。浅葱色を着て歩いたからと言って……」
「……うるせぇな。てめえらみてぇな御国者は、この色味がどれほどのもんか把握してねぇから言えんだよ」
「この色味……綺麗な浅黄裏ですかね?」
「野暮の極みじゃねぇか」
「でも、ほら……木綿じゃなくて麻ですし。袖口に段だら模様も入って素敵だと思うけどなぁ。ねぇ、近藤先生」
「おお! 総司もそう思うか! これは芹沢先生が赤穂浪士の如く、我々が忠義に厚い武士になるよう考えられて……」
それぞれの男たちの放つ感情の温度がバラバラだった。更紗は声をかけるタイミングを見失った。気づかれないようにそっと顔を障子に隠してゆく。
何となく会話から想像するに、土方は羽織の着用を拒否しているようだ。近藤と沖田が説得を試みているようだが、交渉はうまくいっていない。
それもそのはず、土方歳三をあまり知らない更紗でも理由は想像できた。黒や赤を好む男が、水色のパステルカラーの羽織を喜んで着るとは到底思えなかった。
「おい、突っ立ってねぇで早く入れ。時間がねぇんだよ」
苛立ちを含んだ低い声が障子越しに聞こえてくる。びくりと肩を揺らした更紗は躊躇いがちに顔を見せて、お辞儀をした。
「……はい、すみません。失礼します……」
すこぶる機嫌が悪い。部屋に立ち込める白煙の香りの濃さが、起床してから吸い続けている事実を肯定してくれている。
気怠そうに煙管を咥える男の髪型が、いつの間にか髷に変わっていた。更紗は、その違和感に思わず面食らってしまうが。
「おめえは道中、これを被るようにしろ」
「……え、これですか? これって……笠?」
「宵はともかく昼間は目立って仕方ねぇだろう。面を隠してりゃ一隊士として男に見えるだろうが」
「……なるほど。ありがとうございます」
文机越しにひょいっと手渡される。更紗は菅笠を珍しそうに見つめた。いつぞやの旅装束の青年が手にしていたそれと同じもので、円錐型に編み込まれ紐が付いていた。
屯所にいる全隊士が普段と異なる装いでいる。初めての遠出に更紗も変にそわそわと落ち着かない心地だったが、近づく大きな足音が不思議と安堵を与えてくれて。
「おうい、そろそろ出立するぜ! 土方さんよ、田舎侍と冷やかされる腹は決まったか?」
「てめえら全員出て行きやがれ」
「まぁまぁ、そうツンケンすんなよ! 俺ァ更紗に言付けがあって来ただけだからよ! 新見がお前に戌の刻にと伝えてくれって言ったんだが……どういう意味だ?」
顔を歪める土方を無視して歩み寄る原田は、浪士組で一番恵まれた美貌を生かして浅葱色の段だら羽織を軽やかに着こなしていた。
更紗のようにその背に荷物はなかった。代わりに弁当箱のような四角い竹籠が麻紐と手拭いを器用に使って、肩から胸前にぶら下がっている。
「……ああ、魚の美味しいお茶屋さんが宿の近くにあるみたいで、一緒に行こうって誘われてて。海沿いの貸座敷とか、言ってたっけ……」
「……ちょっと待て……おま、それ……何て答えたんだ!?」
「分かりましたって。ずっと断ってたんですけど、しつこくて……会えば言ってくるから、もう面倒くさくなっちゃって……」
武術上覧で新見にお酌をして以降、屯所でよく声をかけてくれるようになった。とはいえ、決まって茶屋への誘いだ。土方の許可なく出かけられないことを伝えても諦めなかった。
そして、大坂行きが決まり、共に外出する機会ができてしまった。一度だけ付き合えば、新見の気も済むのだろう。仕方なく、局長からの食事の誘いを了承した。
「戌の刻って言われても何時か分からないし……鐘がいくつのことですか?」
更紗は試しに菅笠を頭に乗せてみたが思いの外、目深に被れてしまう。遮られた視界を取り戻そうと、両手で前を持ち上げていく。
すると、数秒の間に部屋にいる男たち全員が、何とも言えない顔つきで自分を眺めていた。
「え、何ですか? そんなにこの笠、似合わない……?」
「なぁ、更紗。単刀直入に聞く。もう破瓜してんのか?」
「ちょっと!! 左之さん更紗に何てこと……!」
「総司、黙ってろ。俺にとっちゃあ一大事なんだよ!!」
慌てて上ずった声を出す沖田に反して、それを制すように発せられた原田の声は太く、真剣味を帯びていた。
両極端な二人の態度に女は戸惑った。近藤、土方は無言のまま視線だけを寄越してくる。これは、何を聞こうとしているのか。更紗は眉間に皺を寄せて、原田を見つめた。
「……ハカ? 墓? 破壊……? 言ってる意味が分からないんですけど……」
「分かんねぇって事はしてねぇんだな!? よし! じゃあ、お前は新見に惚れてんのか?」
「……私が、新見さんに惚れてる? 何でそうなるんですか?」
「お前の気持ちは分かった。あの野郎……二度と口に出来ねぇように俺が断ってやる!!」
「……え、ちょっと……原田さん……!?」
原田は鎖を引き千切った狂犬のように走り出した。あっという間に部屋を飛び出し、荒ぶった足音を前川邸内へ響かせる。
原田は何かに対して怒りだしていた。その理由が分からない更紗は、答えを求めて男たちを見た。近藤と沖田は、顔を見合わせて苦笑いを浮かべている。
「……私、何か原田さんを怒らせるようなこと、言っちゃいました?」
「どっちかと言えば喜んでいるのかな……まぁ、怒ってたとしても、それは更紗にじゃなくて、抜け駆けした新見先生に、ですよ」
「抜け駆け?」
「うん、宵の茶屋に誘ったでしょう。左之さんはああ見えて我慢してたからなぁ」
自分の常識は相手の非常識。
たとえ月明かりのない夜だったとしても、宿近くで隊士と食事するくらいなら、受けても不自然ではないだろう。断固として断る理由も誘うのを我慢される理由も思いつかない。
「夜のお茶屋さんに誘うのは、悪いことなんですか?」
「いや、悪い事とも言い切れんが……若い娘にどう説明したものかな」
「 えぇ……? でも、美味しいご飯が出てくるんですよね?」
「まぁ……飯はついででな。こればかりは何と言えばいいか……」
いつもと違って、近藤は歯切れの悪い返答を重ねてくる。更紗は小首を傾げ、視界の端でゆらりと立ち上がった土方へと腑に落ちない顔を向けた。
「……もう少し、分かるように教えて下さい」
黒袴を纏うその男が慣れた手つきで腰に刀を差せば、綺麗に結わえた髷も相まって、まるで本物の武士のような風格が漂ってくる。
仏頂面で畳紙に置かれた浅葱色の段だら羽織を手に取る。土方はこちらを見ずに、黙りを決めていた口を動かした。
「貸座敷には何人も近寄らねぇんだよ。用意された膳の傍らには、布団が敷いてある。そんな所に男と女がいりゃあ、流石のおめえでも何がおっ始まるか分かんだろう」
「…………」
更紗は自身の察しの悪さに恥ずかしくなった。男たちが言葉を濁していた理由が、ようやく分かった。
それでいくと、原田の質問は、男性経験を尋ねていたのだろう。人前で聞くのはデリカシーがなさすぎる。絶対に教えない。
「……そういうことなら、行きません」
相手の常識は自分の非常識。
局長の誘いを無下にできない事情を逆手に取られた。熱心に誘ってくれたのが純粋な食事ではなく、その後に繋がる下心があったとしたら、一隊士として舐められたものだ。
(……好意を持たれても、誰とも付き合う気はないし)
物事を己の物差しで見る危うさを知る以上に、今は恋をする気力が欠片も残っていない。そのことを、たった一人に囚われたままでいる心が教えてくれる。
この時代に来てから一度も思い出さなかった過去の残像が脳裏をよぎろうとすれば、それを拒否するように胸が苦しく締め付けられる。
「──更紗、大丈夫か? もう少しで船着場だから、頑張ろうな」
屯所を出発してから四時間以上が経っていた。既に十数キロの道程を歩いてきた更紗は心身ともに疲労困憊、菅笠の下に浮かない顔を隠していた。
「……はい、藤堂さん。日頃から鍛えなきゃダメですね……こんなに歩くとは思わなかった」
石清水八幡宮の参拝を終えた徳川将軍御一行と合流した壬生浪士組は、会津藩の指示通りに長い列をなして警護を開始した。
その列には大勢の会津藩士も混じっていたが、当然のように浪士組の配置は一番遠いもの。家茂公の駕籠が米粒のように見える列の末席に連なるのを許されただけであった。
「……大きな川が見えてきた。これが淀川かぁ……」
壬生の屯所から南へひたすら進んでいけば、八幡宮近くの京都南端にある橋本の船着場で桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川という大きな河川を形成していた。
そこから船で大坂湾まで出ることができる。一行は淀川を下った。将軍家茂公は大坂城へ、壬生浪士組は船宿である大坂八軒家の京屋にしばらく世話になるのだ。
「……建物がたくさんある。ここは宿場町なんだ」
だだっ広い平原に続く畦道が、徐々に人の手が加えられた土道へ変わっていく。比例するように、点在していた平屋の木造住宅も二階建ての店舗家屋へと変貌を遂げた。
町を行き交っていた人々は皆、一様に道の両端に寄って末尾の自分たちが通り過ぎるまで、その場を動かなかった。その視線は前方の幕府御一行ではなく、浅葱色の集団を見つめているようだ。
「……これ……目立っちゃってるじゃん。笠があって本当に助かった……」
大名行列さながらの光景だった。意味もなく胸が高鳴ってしまった更紗は、菅笠で赤らんできた顔を隠しつつ、後方から前方へと視線を這わせていく。
浅葱の段だら羽織を纏う壬生浪士組の闊歩する姿は、黒や紺など、落ち着いた羽織袴を連ねる幕臣や会津藩士たちとは明らかに一線を画していた。
本人たちの気苦労をよそに、天下の土色を一変する涼やかな色合いだった。男たちの若々しい美貌が相重なって、勇壮な侍の魅力を引き立て、町の中で一際、異彩を放っていた。




