隊士の表裏
更紗は一刻も早く仕事を見つけて、屯所から離れたいと考えていた。でも、彼らでさえ京で生活するのに苦労している。その事実が、何一つ見出せない自分に重くのしかかる。
光の届かない谷底へ落ちたような、救いのない苦悩だ。闇の中でぼんやり灯る明かりを頼りながら、遠くの小鍋がグツグツ煮えるのを眺めているしかなく。
「──何や、今日は元気がないなぁ」
「……え?」
「いつもやったら、このくらい煮詰まったら完成ですよね?なんて、前のめりで問うてくんのに、心ここに在らずや」
「……すみません」
「何があったかは知らんけど、悩んでるんやったら聞いたげるさかい」
月明かりの下、山崎は土間で小鍋から取り出した布海苔とぬるま湯を混ぜた。小鉢片手に、行灯傍にちょこんと座る更紗のほうへ歩んでくる。
「ほら、頭出してみ」
暗くてその表情は読めなくても、男から紡がれる声色の優しさに、頑なに守ろうとしていた気持ちの棘が一つずつ抜かれていくようだった。
更紗は言われた通りに地面へ下ろし髪を垂らした。ゆっくりとしゃがみ込んだ山崎が、とろりとした温かいものを後頭部へ落とした。
「これに卵を溶いたらもっと髪が綺麗になるんやけど。もう少し隊の懐が潤ってからでないと厳しいなぁ」
「いいです。どうせ私は皆さんのお荷物ですし……お金がかかることは大丈夫です」
「何をいじけてるんや。そうか、また副長にお小言言われたんか」
小さく笑みを漏らす山崎にぐうの音も出ない。更紗は静寂の中に身を委ねていくが、男の指がそっと髪に差し込まれると、途端にトクトクと心臓が早くなる。
液体を馴染ませた地肌に触れ、マッサージするように丁寧にもみ洗うその感触が心地よいのだ。更紗は息を吐いて目蓋を閉じると、思いの丈を唇から零した。
「……これ以上、皆さんに迷惑かける前に、出て行くべきなのは分かるんですけど。どうやって生きていけばいいのか分からないんです」
「別に迷惑やとは思ってへんけどなぁ。賄いなんて格段に美味しいなったし」
「……でも、土方さんは私のこと……気に入らないみたいだし」
「気に入らへんというよりは、気になるんと違うか? 副長は白黒はっきりした性格やさかい、当たりは強う思うやろうけど、誰に対してもそうやからなぁ」
「……でも」
「ほら、顔上げて。生え際も洗わへんと気持ち悪いやろ」
沈み込んだ心を掬う声かけに、更紗は冴えない顔を持ち上げた。まるで半泣きの幼子をあやすような山崎の柔らかい眼差しに視線を絡め取られる。
タイムスリップ直後、屯所に風呂がないというまさかの現実に直面し、悲しみに打ちひしがれていたところを助けてくれたのが山崎烝だった。
身体を水拭きするための手拭いを与えてくれ、その夜には皆が寝静まった刻を見計らって、土間で洗髪の仕方を懇切丁寧に教えてくれた。
石鹸やシャンプー代わりは、うどん粉や卵の白身、布海苔という名の海藻だ。そこまで匂いは残らないとはいえ、気が滅入る。ただ、洗いあがりはしっとりして悪くなかった。
「すみません、甘えてしまって。後は自分で洗えますから……」
「かまへん。これも俺にとっては生業のお稽古やさかい」
「……生業のお稽古ですか。山崎さん、ここ数日お見かけしなかったですけど、どこで何をされてるんですか?」
「ほんま、どこで何してんのやろなぁ。まぁ……あんたに話せるような仕事やないかな」
「言えないならいいです。で、あの……今日はアレ持ってきたのでお返しします。本当に裁縫道具までありがとうございました……」
土間の式台に置かれた風呂敷を横目に見た山崎は、ふっと小さく笑った。
「役に立ったんなら良かったわ。何や、いきなり近づいてきて俺の褌が見たい言われたから、どんな趣味してるんやと思うたけども」
「うわぁ、違う!! そんな言い方してない!」
「別にあんたが変態でも、俺はかまへんけどなぁ。ちゃんと作れたんか?」
「……はい。あの……山崎さんがお勧めしてくれた、忍び装束用の褌を真似しました。いただいた手拭いを切って……」
「へぇ、器用なとこもあんのやなぁ」
「いや、不器用なんですけど、布の両端に輪を作って、そこへ一本の紐を通して……片方だけ結ぶようにしました」
夜中に蝋燭の火で縫い物をするなんて思いもしなかった。自作の紐パンは切り目も縫い目もガタガタだが、誰にも見られることもない。
下を覆うものがあるだけで、日々の安心感が違うのだ。
「どんなもんになったんか気になるなぁ。ちょっと見せてみ」
「いや……それは無理です。ごめんなさい」
「俺のは見たのに?」
「それだけは、本当に許して下さい……」
更紗は頭から湯気が上りそうだった。小鍋で煮えたように顔が真っ赤になっているのは間違いない。山崎は我慢できなくなったのか、頭上でクツクツと笑い続けている。
変人扱いされてしまったのは確かだ。それでも、勇気を出して褌の見本を貸してもらった甲斐あって、下着の悩みは一つ解消できた。ただ、年頃の女子として禁忌を犯した気分だった。
「可愛らしい顔して、ほんま面白い子やなぁ。他にも心配事があるなら、聞いたげるよ」
その優しい声色に更紗は安堵した。山崎はライフラインだ。もし嫌われてしまったら、この屯所では生活していけない。そして、巡ってきた質問のチャンスだ。
「じゃあ、ずっと気になっていたことがあって……殿内さんって方は、何者ですか?」
何となしに人の名前を口にすれば、小刻みに動かされていた男の指先がこめかみで何故かピタリと止まる。
不思議な沈黙だった。また変なことでも聞いてしまったのだろうか。更紗が頭を動かせば、止まった時の流れを取り戻すように、再び指先がべったりと濡れた髪を梳いていった。
「殿内の何を知りたいんや?」
「……いや、知りたいっていうか。皆さんが話をされている時に名前が出てくるんですけど、そういう隊士さんはいないから、誰だろうと思って……」
「それはなぁ、あんたは知らんでええ事や」
突如として、山崎は穏やかな声で一線を引いてくる。更紗は全身に冷水を浴びさせられたような、不穏な焦燥に駆り立てられた。
どういう顔をして見ればいいのか分からなかった。変な気まずさに視線を泳がせれば、山崎は行灯の明かりの横でスッと立ち上がる。その目は笑っていなかった。
「さ、髪流そか。ついておいで」
いつもの飄々とした美しい顔が微笑むと、何事もなかったように湯の入った桶を手にした。
「明日は忙しくなりそうやなぁ」
山崎は土間から宵闇の広がる庭先へと出て行く。更紗もその背を追い、外の世界へ一歩を踏み出した。
雲のかかる月の下では、自分の足元どころか彼らの心の内さえ闇深くて見えることはない。
そんな不安な気持ちを抱えた翌日も、水色の空高くに太陽はまた昇る。その眩しい日差しを緑の山の端にかかる薄雲が遮り始めた真昼頃。
浪士組は、上質な羽織袴を纏う高貴な人物との拝謁を済ませた。それぞれが緊張の面持ちで、金戒光明寺の本堂前に敷かれたござに着座した。
末席に座る女も例に漏れず、長い髪を一つに結わえ、木刀を腰にぶら下げた周囲にいる男たちと変わらぬ装いだ。ただし一人、強張った表情を浮かべていた。
(昨日、土方さんと山南さんが話してたのは、これだったんだ……本当に私のこと、隊士扱いするとは……)
更紗は何も知らされないまま、大広間へ集められた全隊士と共に京の町を約一時間歩かされた。
二十五名ほどの浪士が列を成して闊歩するのは、なかなかに見応えがあったようだ。通りかかった市井の民はその足を止め、何事かと言わんばかりにこちらを眺めていた。
苦い思い出の残る四条通りを突き進めば、現代とほとんど変わることのない朱塗りの八阪神社が祇園の町を見下ろすように堂々と鎮座していた。
より北へと歩んでいくにつれて家屋は減っていく。代わりに映り込むのは、要塞の如く丘の上に聳え立つ金戒光明寺だった。
「──何や、今日も大人しいなぁ」
不意に昨日と同じ静かな声音が聞こえる。右隣へと顔を向ければ、口の端を持ち上げる山崎の横顔を捉える。
気後れしていた更紗は、顔を寄せて耳打ちするように小さな声を出した。
「いや……だって、今日は何があるのか、教えてもらってなくて……」
「今日は武術上覧。肥後守松平容保様が、会津藩との結束を強める為にも浪士組の稽古披露の場を設けて下さったんや」
「……武術上覧? その、肥後守様っていうのは……あそこにいる方ですか?」
「そう、会津藩の中で一番偉い人や。俺らは肥後守様の命に従って幕府に仕えることになる」
「……そうなんですか」
太陽の日差しを浴びている自分たちとは違い、本堂の屋根の下に陣を取る男性の周りには屈強な侍が控えていた。浪士組の局長である芹沢や近藤と歓談している。
上座と下座に区別するように、間に広く開けられたスペースに男たちが歩いてきた。よく見れば、白装束に身を包んだ藤堂平助と普段通りに黒装束を纏う土方歳三だった。
(何だかいつもの二人と違う……無駄に緊張する……)
上座に向かって深く一礼をした二人は、顔を付き合わせたまま、手にしていた木刀を構える。対極の色味が自然と陰陽を彷彿させた。
藤堂は見るからに表情が硬かった。それでも、堂々と真正面を見据えるその姿は若さ溢れるパワーが漲っている。
対に立つ土方は涼やかな雰囲気を醸し出していた。美貌を包む黒が品位を上げている。
「……すごい……隙がない」
剣術の試合というよりは剣道形の公開演武といったほうが正しかった。二人から繰り出される剣舞の一挙一動。更紗は目を離せない。
藤堂が木刀の切っ先を土方の顔の中心に向けると、土方はその刀身を僅かに傾け、切っ先が藤堂の左目を捉えるように構え直す。
ひたすらに攻めの姿勢を貫くのは、藤堂の剣だ。それを躱して鮮やかに斬り込む土方の剣さばきが、周りにいる男たちの感情を昂ぶらせる。
「更紗、ようく見とけよ。一番年下でちっせえ癖に土方さんにも容赦なく斬りかかる平助の流派は北辰一刀流だ。江戸でも三本の指に入る名高き道場、玄武館で鍛えた凄腕なんだぜ」
「……玄武館、ですか。試衛館じゃなくて?」
「試衛館にも居たけどよ。初めに体に染み付いちまった剣は消せねぇ。是が非でも突破しやがる度胸は、北辰一刀流で培ったもんだ。俺なんざ逆立ちしても真似できねぇ剣技だぜ」
白を纏うことで身体が大きく見える藤堂平助の剣は、道場で見た時よりダイナミックな躍動を感じられる鋭さを全面に押し出している。
対して、初めて目にした土方歳三の剣は、相手方の果敢な剣とは異なり、雄叫びを上げもせず、無駄な所作一つ見当たらない落ち着き払ったものであった。
男の余裕が感じられるその凛とした佇まいは、自身の魅せ方を熟知しているようだった。
「……土方さんの剣って、綺麗なものなんですね」
「いや、ありゃあ、たまに出る余所行きの剣だぜ」
「……え、?」
「若い頃、行商で道場を渡り歩いていた所為で、普段の剣は癖が強ぇんだよ。しかも勝つ為にはどんな姑息な手も使いやがる。天然理心流にも染めきらねぇ土方流。即ち我流だ」
土方がいない時間に道場へ通っていた更紗にとって、興味深い話だった。目の前の姿が作り物であるなら、その裏に秘めた本当の剣では、美しさは封印するのだろうか。
「……副長なのに……姑息なんだ」
更紗はふわふわと落ち着かない心地だった。藤堂と土方は上座へ向かって頭を垂れる。入れ替わりで現れた二名の剣士は、防具の全てを着けていた。
「おお! ぱっつぁんと一を組ませるとは、土方さんも粋な事をしてくれるじゃねぇか。こりゃあ、面白い試合になるぜ」
「どっちが永倉さんですか? もう一人は……誰?」
「右が新八で左にいるのが斎藤一。まだケツの青い無口な野郎が一人いるだろ? あれがまた強くてよ……まぁ、見てろ。驚くような事をしてくれるぜ」
期待を煽る原田は試合を楽しんでいるようだ。更紗は前に座る隊士たちの背中越しに竹刀の切っ先を合わせて対峙する男たちを見つめる。
号令がかかった次の瞬間、雷鳴の如く凄まじい音が辺りに木霊する。互いの面に振り下ろされた剣の威力が甲乙つけがたいものであることを証明していた。
磁石が弾き合うかのように距離を取った永倉と斎藤は、殺伐とした空気を放ちながら、摺り足でゆっくりと立ち回っていく。
斎藤が基本の構えから腕を持ち上げた刹那、上座側、下座側の会津藩士たちから歓喜とも思えるどよめきが沸き起こった。
「……あれ? 左手に竹刀を持ち替えた……!?」
「そう、一は両利きだ。利き手であっても武士が左で刀を握るのは法度とされてんだけど、前の道場では強みとして捉えたみてぇでな。今でも欠かさず右も左も稽古してんだぜ」
「……へぇ、珍しいですね。両利きの剣士なんて初めて見ました」
「……俺も初めてや。確か……流派は溝口派一刀流やったと言うてたやろか」
「そうそう、そんな名だった。なぁ源さん、一の流派はどこの国の流派だったっけよ?」
原田が前に座る丁髷姿の侍を小突けば、遠慮がちに振り向いた井上源三郎が目尻に皺を寄せて穏やかに微笑んでくれる。
「本人は口下手なのか言いたがらないんだが、会津で伝承されているようだね」
「会津かぁ……そりゃあ肥後守様の前で披露するにはもってこいじゃねぇか。お陰でぱっつぁん、年下相手にやりにくそうにしちまってよ……」
和やかな空気が流れるござの向こう側では、まさに緊迫した戦いが繰り広げられていた。
永倉が重い斬撃を打ち込んでいくものの、左手に竹刀を持つ斎藤は滑らかにそれを交わして攻撃を切り崩す。
左利き独特の間合いの取り方はやりにくそうだった。踏み込みを間違えるだけで右利きの剣士は命取りになるが。
「勝負…!!」
不意に声を張り上げた永倉が背後に大きく間合いを取り、切っ先を土埃の舞う地に向けるように構えた。
刹那に斎藤が地面を蹴って掲げた竹刀を振り下ろすが、その斬撃を永倉は力で擦り上げ、威力そのままに渾身の面を打ち込んだ。
「……龍飛剣出しやがったな。肥後守様の前だからって身内にも手加減しねぇなんざ、ぱっつぁんの良い格好しいめ。源さん、後でちょっと懲らしめてやろうぜ」
「別にいいじゃないか。実にいい試合だった。二人の良さが出ていたねぇ」
「永倉の剣は天然理心流ですか? 何や近藤先生のとは違うような気がしました」
「山崎君の見立て通り、新八の剣は神道無念流のほうが色濃く出ているかな」
「そうそう、天然理心流は気組で乗り切っちまうが、ぱっつぁんは力で敵をねじ伏せる神道無念流だよなぁ。芹沢先生にもやたらと気に入られてるしよ」
「芹沢先生の一派は皆、神道無念流の使い手なんやもんなぁ。次に出る平山五郎が免許皆伝で、佐伯又三郎は……何て言うてたやろか」
衝撃音が鼓膜から離れない更紗は、身を縮こませていた。頭上を飛び交う男たちの声をぼんやりと聞いていたが、芹沢という単語が聞き取れるや否や、背筋がぞくりと冷えていく。
「平山っていつ見ても黒の眼帯をしてやがるが、生まれつき見えねぇのか伊達政宗に憧れて隻眼を真似てんのか気になるよなぁ。とっつきにくい野郎で聞きづらくてよ」
「いやいや、左之助。流石に偽りで目を隠すことはしないだろうに」
「でもよ、源さん。面をプルプル振って妙な動きを見せる癖に、俺と互角に手合わせしてきやがるんだよ! ありゃあ間違いなく、眼帯に穴開けてこっそり覗いてるぜ」
「な訳ないやろう、ほんまに……。それで言うと、昔、花火が当たって左眼が潰れたんやて本人が言うてました」
「げぇ……花火にやられたとは気の毒だぜ。まぁ、それで免許皆伝まで会得した根性は大したもんだ」
緊張感もなく会話に花を咲かせる男たちとは対照的に、更紗は圧巻の戦いぶりを見せる芹沢一派の隊士たちを息を潜めて見つめていた。
(……あれが……芹沢先生の剣)
自分がこれまで携わってきた居合の剣が遊戯に感じるほどに、江戸時代の武士の繰り出す剣は鬼気迫るものだった。
それは護身の剣ではなく、人を殺めるために磨かれた剣であるがゆえ。
男たちの歩む未来は修羅の道に繋がっていることに恐怖を覚えるが、奇しくも激動の時代に飲まれてしまった女の進む道もただ一つ。その退路は既に絶たれていた。




