文武館と策士
抜けるような青空の下、八木邸の隣にひっそりと佇む道場、文武館には今日も多くの隊士たちが出入りしていた。
大声と共に小気味良い竹刀の音が鳴り響けば、雷が落ちたような振動が場内を駆け巡る。
そんな中、隅っこで太い木刀を握り締めていた更紗は、同じ木刀を腰に差す藤堂の指導の下、黙々と素振りの練習をしていた。
「止める時に四方に振れないように。腕で振るんじゃなくて、肩で振るんだよ」
「……こう……ですか?」
「もっと利き手の力を抜いて。右手は添えるだけ。肝心なのは左手」
スッと太い木刀を腰から抜いた藤堂は、あえて左手だけでそれを持つ。そして、捲り上げた袖口からむき出しの腕を持ち上げ、弧を描くように振り下ろした。
軽々と片手で振り抜く藤堂に更紗は目を奪われる。自分より小柄なのに、その腕は驚くほど肉付きがいい。
試衛館の男たちが使う木刀は、柄も太く、まるで鉄の棒でも持っているような重さだった。
「……藤堂さん。だいぶ腕がダルくなってきました……」
「あはは、俺も最初の頃は腕が上がらなくなったなぁ。でも、試衛館では近藤さんから千回振るように言われたから、皆で励まし合いながら頑張ったんだぜ」
「せ、千回ですか!? こんなに重いのに……!?」
「そう、毎日休まず千回。でも、そのお陰で実践で刀を握っても違和感なく立ち回れる。大刀の重さとこの木刀の重さはほぼ一緒なんだ」
ニコリと八重歯を見せて笑う藤堂は、途端に顔つきを凛々しいものへ変えた。身を翻しながら、その場で素早く殺陣を披露してくれる。
彼に限らず、近藤の周りに集う男たちの誰もが俊敏で腕っ節が強く──。
「何度言ったら分かるんだよ! そんな踏み込みじゃ斬られに行くだけだろうが!!」
バチイン、と地面を叩く凄まじい音が木霊する。身を縮めた更紗が顔を向けると、防具を着ける隊士が打ち付けられた剣先の前で、尻餅をついていた。
「いつまでそうやってるんだ!! 早く立ち上がれよ!!!」
防具越しからでも伝わる熱量が、道場を灼熱地獄にしていた。ここは間違いなく修羅の国だ。
最初こそ面食らった更紗だが、刀を握れば別人へと変貌する沖田の姿を、少しずつ受け止められるようになっていた。
「今日も総司は絶好調だなぁ。昨日もあんな感じだったか?」
「はい。昨日は斬り込みの練習をしていた隊士さんに、刀で斬るな!体で斬れ!って、怒鳴ってました」
「そっかぁ。総司の才は天性もあるけど、人一倍苦労して稽古を重ねてきた努力の証だから……周りは真似できないんだよなぁ」
沖田を見つめる藤堂の眼差しは、道場で苦楽を共にし、青春を謳歌した戦友ゆえの慈愛に満ちている。同じ釜の飯を食う仲間の団結力はよそ者が立ち入る隙を与えないのだ。
やはりどこか踏み込めない彼らとの微妙な距離感に、更紗は疎外された気分を味わうこともある。そんな時に決まって助け舟を出してくれるのは、いつも場を盛り上げてくれる賑やかな男の声だった。
「おうい、更紗! 素振りばっかやってねぇで、そろそろ打ち込みに入ったらどうだ! 俺が相手になってやるぜ」
「……原田さんに打ち込んでいいの?」
「脳天に一本入れてあげたらいいよ。左之さん、掛かり稽古でいいよな? 更紗の防具は……」
「あ、大丈夫です。打ち込むだけならこのままでできますし」
原田は防具置き場の前に膝を付いて、使い込まれた胴と面を身に着ける。それを横目で見た更紗は、木刀を竹刀に持ち替え、空いたスペースへと歩んでいく。
潔癖とはいかないまでも令和の女子代表として、誰が使ってきたか分からない古びた防具を身に着ける勇気は今のところ、ない。
それでも、一つだけ小綺麗な防具はあった。面の紺紐を赤紐に変え、胴色も男性が好む黒でなく朱。どうしても一人の男がチラついてしまう。
(……これってきっと……触らないほうがいいやつだよね)
初めて見た瞬間から持ち主の想像はついたが、そこは触らぬ神に祟りなし。土方と無駄な関わり合いを持たないためにも、赤色のものには近づいてはならないのだ。
「……よろしくお願いします」
顔を付き合わせた防具姿の原田へ丁寧に一礼した更紗は、スッと腰を下ろして蹲踞の姿勢を取ると、手に持つ竹刀をゆっくりと構える。
重くて持ちにくい木刀から細身の竹刀へ持ち替えれば、途端に腕にかかる重量が減った。その身が格段に軽くなった心地を覚える。
「……やぁ……!」
地面を蹴った更紗は、荒く大きな一歩を踏み出した。飛びかかる勢いのまま、高い位置にある面の中心へ振り上げた竹刀を下ろしていく。
原田はさながら仁王像のようだ。一寸たりとも動かない大男へ身体ごとぶつかれば、その反動を使って背後へ飛ぶと同時に再び振りかぶる。
「……面!!」
怪物、芹沢鴨との戦慄の対面から十日が経った。八木邸の名を聞くことすら億劫だった気持ちを奮い立たせたのは、自分の身は自分で守るしかないという危機感だ。
その屈強な姿を遠目に見るだけで背筋が凍るような緊張を覚える。できるだけ試衛館の男たちと行動を共にしているおかげで、今のところ実害はなかった。
それでも、立て続けに見舞われた不運な出来事を思い返せば、いつ何時どんな状況に追い込まれても、自分の力で切り抜けるだけの技量を身に付ける必要がある。
「……面!! ……胴!!」
空を斬る音が二人の間を掠めていけば、刹那に方向を転換した女の竹刀がすれ違いざまに原田の黒胴を小気味よく打ち抜いていく。
面の格子越しにニヤつく男の表情を垣間見た更紗も頬を緩めた。踵を翻して姿勢を正し、肩で息をしながら改めて一礼をする。
「……ありがとうございました」
久々に本気で打ち込んだ剣術はとても清々しかった。幼馴染と剣道場にも通った子どもの頃を思い出す。居合も途中で挫折したけれど、剣の道を学んで良かった。
更紗は額に滲んだ自分の汗さえも愛おしく感じた。面を脱いだ原田が近づいてくる。以心伝心とも言わんばかりに、その男も白い歯を見せて笑ってくれた。
「お前、いい筋してるじゃねぇか。まぁ、剣の腕っつうよりも、足がよく動いてるっつうか。一体どこで手習いを受けたんだ? 流派は?」
「えっと……剣道のほうは流派は分からないです。足が動くのは家族で通っていたジムでやってた、キックボクシングのおかげ……とか言っても分からないですよね」
「きっく……?」
「キックは蹴りです。何か道具を使うより、体を使うほうが好きというか」
「おいおい、体を使いたいとは大胆なこと言うじゃねぇか! じゃあ俺と夜の稽古──」
「あ、鐘だ。土方さんに朝のお茶を運ばなきゃ……」
昼四つの鐘の音が聞こえるや否や、更紗は一瞬で表情が固くなる。自由時間を取りすぎてしまった。今からお茶を淹れたとして、うるさい小言を回避できるか微妙なラインだ。
「すみません、もう行かなきゃ怒られるので。今日はありがとうございました」
「あ、おい! 更紗、まだ組み合っちゃいねぇ──」
明らさまに不服そうな大声が聞こえたが、背後を振り返る余裕はない。
相も変わらず、叱責が木霊する場内では沖田が容赦のない稽古を付けていた。先ほどまで教えてくれていた藤堂は、数人の隊士相手に身振り手振りで斬り込み方を指導している。
男たちがぶつかり合う熱風の中をすり抜け、開け放たれた道場の入り口を跨ぐ。生き返るような新鮮な朝風が女の火照った身体をくすぐった。
次は新たな戦場だ。着替える時間も惜しく感じた更紗は、そのまま前川邸の土間へ走った。
大急ぎで淹れたお茶を丸盆に乗せ、薄暗い板廊下を早歩きする。
ここ一週間、土方の部屋には必ずと言っていいほど近藤がいた。太陽のように大きく笑う近藤の前では、無愛想な男も自然に笑みを浮かべる。
二人の空気感は局長と副長というより、長年連れ添った夫婦のようだった。
「失礼します。朝のお茶をお持ちしました」
「入れ」
「はい、失礼します」
反して、副長と小姓の会話は業務的なやり取りだ。更紗はいつものように廊下に腰を下ろして戸を開け、入室する前にその場で三つ指を付いて丁寧にお辞儀をした。
教わった通りの三手開閉を、頭の中で反芻しながら実践する。
(左手で真ん中まで閉めたら右手に替える。拳ひとつ分まで閉めたら、持つ位置を変える)
音を立てずに戸を閉められた更紗は、安堵の息を吐き、したり顔で部屋の主を振り返った。
しかし、土方は書状に視線を落としたまま紫煙を燻らせている。その横で微笑むのは近藤ではなく……。
「市村君は所作が美しく、惚れ惚れしてしまうね」
「……あ、山南さん」
「最初に比べりゃマシにはなったが。惚れ惚れするほどのもんじゃねぇだろ」
「そうは言っても土方君が作法を教えているんだろう? 沖田君を連れて出稽古していた頃を思い出すと近藤さんが嬉しそうにしていたよ」
「餓鬼のお守りは勘弁願いてぇんだがな」
味気なく吐き出された煙の先を見た更紗は、燻りだした苛立ちを胸に押し込めると、素知らぬ顔つきで二人の傍へ歩いていく。
いつもながら辛辣な言葉を放つ土方に嫌気が差す。一方で、その言動を気にして、所作に意識を向けるようになったのは紛れもない事実だ。
右も左も分からなかった自分が、短期間で立ち振る舞いを褒めてもらえるまでに成長できたのは、悔しくも目先に座る男のおかげだと言えるだろう。
腰を下ろせば、至近距離から絡みつくような視線を感じた。今から所作をチェックするつもりだろうか。せっかく収まった汗がじわりと滲む。
文机に置いてあった飲みかけの湯呑みを下げ、代わりに湯気の上がる淹れたてのお茶を二つ置けば、香りの良い白煙が混ざり合うようにその男の口元から漏れた。
「──先ほどの続きだが。藩の公用方曰く、肥後守様は浪士組の力量を測る為にありとあらゆる稽古模様を拝見してぇんだとよ」
「……ありとあらゆるという事は、普段の稽古から実践型の稽古までかい?」
「詳しい事は分からねぇが、試合形式で何試合か見せりゃ気も済むだろう」
「試合形式か……剣術は勿論の事、居合術、小具足術、棒術、柔術なども織り交ぜていくべきか」
「いや、全てはいいだろう。俺たちが有利に運べる武術で算段する」
「しかし……芹沢先生が何と仰られるか。またあの時のように立腹されては……」
「どうせ夜まで戻って来ねぇんだ。伝えるのは明朝でいい。今宵も島原へ行くだろうから、万一、酒が残って試合に立てねぇとなったら、こちとら好都合じゃねぇか」
二人の密談の内容は分からないが、土方の涼しい顔を見るに、また何か企んでいるのだろう。
芹沢鴨と対面した日、土方は萎縮するどころか、小姓との怪しい関係を匂わせて芹沢派を挑発してみせた。
すると、芹沢派の男たちが自分を避けるようになり、結果的に身の安全は守られている。不本意な嘘だが、命には代えられない。試衛館と芹沢派の不仲を利用した土方の手腕に、更紗は密かに一目置いていた。
「市村君、ありがとう。有り難く頂くよ」
「いえ、とんでもないです。それでは失礼します」
湯呑みを手にして、笑顔で声をかけてくれるほうの副長に会釈して立ち上がる。すると、更紗の顔を見つめた山南は、何かを思い出したかのように表情を変えた。
「……そういえば土方君、市村君はどうするんだい? 総員での列座を希望されているのなら、連れて行くべきなのか……」
「まぁ、気掛かりはそこだ。芹沢もだが殿内派の輩が黙ってるとは思えねぇ。ならば、先手を打って会津にバラしちまったほうが波風立たねぇんじゃねぇかと、な」
「近藤さんはその件については何と?」
「俺と同意見だ。女の隊士もいるっつうていで公用方にそれとなく話してみるとよ」
ふぅ、と溜め息混じりに吐き出された低い声が鼓膜を揺らせば、何とも言えない不可解な感情が膨れ上がり、歩み始めた女の足を止める。
振り返った更紗は、煙管を燻らせて物思いに耽る土方を、眉根を寄せて睨みつけた。
「何だ、もう下がっていいぞ」
「あの……女の隊士って、私のことですか?」
「他に誰がいんだよ」
「いや、私、女中として居候しているだけで、隊士じゃないです」
語尾を強めて紡いだ言葉は、立ち上る白煙の中へと呆気なくかき消されてゆく。
沈黙の狭間に土方は煙管を咥え、ゆっくりと吐き出す。呆れたように片眉を持ち上げた土方は、その内にある漆黒の双眸を更紗に向けた。
「小姓という役目を受けた以上、おめえは隊士だ」
「それじゃ、話が違います。私は戦いには出られませんし……」
「今朝も道場にいたんじゃねぇのか。出入りできるのは剣術、柔術を嗜む隊士だけだ」
「嗜みって……人様に見せられる腕はありませんし、護身以外に使うつもりもありません」
「おめえが何を言おうが近藤さんが決めた事には従ってもらう。納得いかねぇなら出て行きゃあいい」
表情を崩さずに吐き捨てられた言葉は、女の胸の内に抉るような痛みを与えてくる。
今の自分に行くところがないのを理解しているくせに、突き放すような態度を取り続けられるのは、悲しみを通り越して惨めな気分になる。
この世界で誰一人からも必要とされていない存在なのは、この半月、隊士たちと生活を共にして十分に分かり得たこと。
出て行けるならとっくに出て行っている。喉まで出かかった反論を飲み込んだ更紗は、ぎゅっと唇を噛みしめると足早に立ち去る。
パシン、と障子戸が閉まる音が響いた部屋には、いつもの静寂が戻った。
「……相変わらず手厳しいね、土方君。わざわざ嫌われ役を買って出なくてもいいんだよ」
「放っとけ。餓鬼に好かれたところで、いい事ァねぇんだよ」
素知らぬ顔で紫煙を燻らす土方を一瞥した山南は苦笑いを浮かべる。
主に手を伸ばしてもらえない湯呑のお茶は、以前よりも香りが立ち、美味しく淹れられるようになっていた。




