浪士組筆頭局長
八木邸の部屋には、見知らぬ男たちが六人ほど、近藤と土方が中央に着座していた。縁側に陣取る芹沢らしき男が話をしている中、一人また一人と自分へ顔を向けてくる。
更紗は息を止め、幽霊の如く音もなしに畳の上を彷徨う。四方から感じる不躾な視線に今すぐにでも消え去りたい衝動に駆られていく。
「それよりも──、儂の居ぬ間に屯所の雰囲気が変わったようだな。近藤、何か話があって此処に来たのではないか。世間話をしに来た訳ではなかろう」
「……いやはや、芹沢先生には隠し事が出来ませんなぁ。実はここ一週間ほど前から居候している若者が居りまして、主に賄い方として働いております故、何卒、先生に無礼なきようにと連れてきた次第であります」
「賄い方……先だっての酷いアレか」
「いえ、今日の朝餉においては事情があり、別の者が……」
場の空気を壊さぬよう静かに腰を下ろした男の背に隠れるように、更紗も末席に小さく座り込んだ。伏せていた碧色の双眸を永倉の肩越しに前へ這わせていく。
嫌でも目に入ってしまうのは、縛り付けられた木柱だった。その前で黒い眼帯を付けた侍に脱いだ羽織を預けた長身の武士は、淡い陽光を受けて下座へ身体を向けた。
「まぁいい。顔だけ見せてもらう」
鼻梁の通った凄みのある顔の頬は痩けている。少し白髪が混じる髷から推測しても、部屋にいる誰よりも年長者であることが伺い知れた。
そんな齢四十にも届きそうな風貌を根底から裏切るのは、重ねられた着物の上からでも充分に分かる男らしい堅牢な身体つき。
大刀を袴から抜き取る所作一つみても抜かりのないものだ。その生き様全てを閉じ込めてきた眼差しに一度でも捉えられれば、人は容易に抜け出せるものではなく。
「……随分と変わった若者を雇ったもんだな。名は何と言う」
落とされた鋭い視線に抗うことはできなかった。更紗は慌てて口を開こうとするも、その脳裏を過るのは先ほど言付けされた永倉の言葉。
むっつりと座り込んでいた土方が途端に振り返り、剣呑な目つきでこちらを見つめてくる。二つの眼光が襲い来るため、否応無しに身体が竦んだ。
「……名は、市村と申します故。以後、お見知りおき──」
「土方、お前には聞いておらん。おい、そこの小童。名を名乗れ。何故、天を仰ぐと目が碧になる」
「……芹沢先生、そんな声を荒げられますと、何事かと怖がって……」
「近藤、夷狄を屯所に引き入れるとは、どういう了見だ。水戸浪士である我らへの愚弄か」
「……いえ、そのような事は決して…! これには深い訳がありまして……先生……!」
手に持つ大刀を強く握り締めた芹沢は、近藤と土方の間を裂くように荒々しく闊歩すると、獲物に飛びつく猛獣の如く殺気を放ちながら目の前へと迫ってくる。
更紗は顎を掴まれ、強引に持ち上げられる。勢いのままに背後へ押され、あえなく鈍い音を立て壁へと押し付けられるが、男がその力を緩めることはなかった。
寧ろ、より動きを封じ込めるかの如く、節くれた指を喉元へと這わせていく。
「儂の居ぬ間に忍び込むとは、何処の藩の差し金か」
「……ち、が……」
うまく息ができない。更紗は固く目を瞑り、押さえ付けてくる芹沢の右腕に震える両の手を這わせるのが精一杯だったが、突如、苦しみから解放された。
「……お前、女か」
ポツリと洩れた寂を帯びた呟きに目蓋を持ち上げれば、今ほどの獰猛な風格は削ぎ落とされ、冴え冴えとした双眸と視線が交わる。
舐めるように頭から足の先まで見られるため、女は今にも泣き出しそうな顔を背けるが、ざらりとした指先の感触が頬を撫ぜてくる。
「名は」
「……市村……更紗です」
「生まれは」
「……京都」
「齢は」
「………」
「年は幾つだ。答えろ」
「……じゅ、十八……」
「随分と若いが……上玉だ」
スッと離れた男の気配に全身の力が抜けていく。安堵を覚えたのも束の間、地獄の淵から掬い出される勢いで、下ろした腕を強く掴まれた。
更紗は息つく間もなく畳の上を引き摺られるように歩かされる。口から心臓が飛び出てしまいそうだった。意識が朦朧とする。ここが無限地獄なのだろう。
「儂の身の回りの世話をさせてやる」
「……身の回りって……何を……」
「全てだ。一つ一つ教えてやる」
男の望むことが何かなど考えられなかった。もう、この恐怖から解放してもらえるなら、何をしても構わないとさえ思うほど、精神的に追い詰められる。
霞む視界の先には、唖然とした顔つきの見知った侍がいた。その横で見知らぬ侍たちが楽しげな表情を浮かべ、他人事のように自分を眺めている。
背後から伸びてきた別の手が誰のものであるか、確かめる余裕はなかったが……。堅牢な侍の行く手を阻んでくれたのか、更紗はようやく踏みとどまれた。
「芹沢先生、具合が悪いことにその申し出は承知できません。何故ならば、賄い方っつうのは建前、此奴は俺が小姓としてわざわざ雇い入れたもんでしてね」
遠ざかる意識に届いたのは、馴染みのある低い声。いつもなら嫌悪感しか湧かなかったのに、この時ばかりは感じたことのない救いの力があった。
不意に腕を引かれ、更紗は目先にあった着流しに顔をぶつけた。慣れてきた煙管の匂いが鼻腔をくすぐる。肩に触れる感触は躊躇いのない優しいもので。
「土方の小姓だと言うのは、近藤、真意か」
「……ええ、まぁ……歳が此処に連れてきたのは真です」
「毎夜、熱心に勤しんでくれるもんで、今の所、手放すつもりはありません。まぁ、飽きた日位は回してもいいですが、俺の後とあっては先生も腹に据えかねる所があるのでは?」
話の内容は分からなくとも自分を助けようとしてくれているのは伝わった。
一触即発ともなり得る空気感の中、尋常でなく張り詰める女の鼓動を押さえるかのように、肩に回された逞しい腕がゆっくりと力を込めてくる。
更紗は、この憎き男に縋ることでしか極限状態を切り抜けられないと悟った。無意識にぎゅっと、土方の袖口を握りしめるが。
「……小姓にすら赤の組紐とは──土方、武士非ずと洒落者気取りか!! 出直せ!」
刹那、雷鳴のような怒号を浴びせられた更紗は全身をびくつかせるが、土方は腕を解き、見たことのない丁寧な所作で芹沢へ頭を下げていく。
「以後、気をつけます故、これにて失礼仕る」
踵を翻す姿が視界から見切れると同時に、更紗は再び手首を掴まれ引かれるままに逆方向へ歩み始める。命拾いまであと少し。はやる気持ちを抑えて敷居を跨いだ。
(……た……助かった……)
痺れるほどの安堵感に強張っていた身体の力が抜けていけば、震えの止まらない指先を大きな手が握り込んでくれていたことに気づく。
更紗は思わずその手の主である土方を見つめた。ふ、と口元を緩めて普段見せない微笑を浮かべていた端正な顔がこちらへと向けられる。
「流石におめえでも怖かったようだな。事が済んだんだ。飯でも食って落ち着きゃあいい」
「……今……ゴハン食べたら、絶対吐きます……」
「それでも間者の端くれか? 随分と可愛いもんじゃねぇか」
呆気なく指先を離れた熱は玄関口にある陽だまりに吸収されていく。更紗もそれに吸い込まれるように、よろよろと地面にへたり込んだ。
話す気力も歩く体力もない。高下駄を履く土方をぼんやりと眺めていれば、またも堂々と人の髪に触れてくるため、諦めるように身を任せるが。
「これは餞別としてくれてやる。次からはてめえで何とかしろ」
素っ気ない言葉とともに目の前に落とされたのは、鮮やかな一本の赤い紐。
まるで蛇の如くうねり、式台を這うように落下していったそれは、土方の結わえた黒髪に巻き付けられている赤い紐と同じに見えた。
「……え、……これって……」
その紐を拾い上げて玄関へと顔を向けるも、既に八木邸を後にした色男は振り返りもせず、細長く続く土道を颯爽と歩いて行く。
仄暗さ漂う室内から見る外の景色は、不自然なほどに白く明るい。この先に続く道がはたしてどこへ繋がっているのか不安になるくらいに、本来の姿を惑わせていた。




