男装の麗人
四畳半ほどの室内に、シュッと袴紐を結ぶ心地よい音が鳴り響く。
慣れた手つきで余った腰紐を紺袴に押し込めると、同色の男物の着物の皺を横に集めて、もたついていた腰回りを整えていく。
障子越しに射し込む自然光はほんのりと明るい。およそ一日もの間、狭い和室から一歩も出してもらえなかった女でも、時間の経過を感じられていた。
部屋の隅に畳んで置いた女物の着物の横には、脚付きの古びた丸鏡があった。その前に座り込んだ女は櫛で髪を集めると、髪ゴムでポニーテールを作る。
「……うーん、見えない。これ鏡の意味あるのかな」
薄ぼんやりと映る自分の姿を目を細めて見ていた更紗は、最初から曇っている幕末の鏡に向けて、溜め息を吐く。髪型よりも顔色を確認したかったが、厳しかった。
それでも、ないよりはマシだ。鏡と櫛を用意してくれたのは山崎だった。きっと彼が使っていたもののお古なのだろう。この世界で心を許せる数少ない存在だ。
「入るぞ」
間髪入れずに障子戸が開く。その向こう側に立つ男を鏡越しに見れば、ぼんやりと黒く映る姿を確認することができる。
人の所作を口うるさく注意してくる割には、人の了解を得ずに立ったまま戸を開けてくるその矛盾ぶり。更紗は日々蓄積されていく恨みが腹の内でぐるぐると渦を巻いていた。
(……お腹減った。気持ち悪い……)
昨日、京の町で起こした事件について、土方から絞られたのは言うまでもないが、与えられた罰がきつかった。無期限の謹慎処分に加え、水以外の絶食であった。
前川邸の奥まった角部屋に押し込まれ、隊士に見張られた中での正座。終わりの見えない時を待つのもつらいが、唯一の楽しみである食を奪われたら、もうこの地で生きる自信はない。
飢えがゆっくりと精神を蝕み、夜も寝られなかった。頭が回らないと戦意は喪失する。これが男の狙いなら怖すぎる。更紗は原田の言葉を思い出し、身震いした。
「……たっぱもある分……男に見えなくもねぇか」
ポツリと落とされた低い呟きを前に、更紗は警戒して身体の向きを変えた。畳に正座したまま、恨みがましくその端正な顔を睨みつける。
土方は眉をひそめて思案気な表情を浮かべている。悔しいかな、意地悪な性格とは似ても似つかない清涼さを朝から醸し出していた。
「謹慎を解いてやる。ただし、飯は事が済んだ後だ」
「……事が済んだ後って……何ですか?」
「おめえには、今から人に会ってもらう」
「……人ですか」
男たちの会話で思い当たる節はあった。途端に更紗の胸が波立ち、騒ぎ始める。
(……やっぱり、芹沢って人が屯所へ帰ってきたんだ……)
昨日よりも今日のほうが酷い目に遭う可能性がある。曲者の土方さえ扱いに困っている大曲者なのだ。異人扱いされている女がすんなり受け入れてもらえるとは思えない。
そんな不安を置き去りにするように、後ろ手でパタンと障子戸を閉めた土方は、木柱へその背を預けると、腕組みをして更紗を見据えた。
「おめえは今日付けで俺の小姓だ。聞かれたらそう答えろ」
「……コショウって何ですか? 胡椒……?」
「茶運びみてえな雑用をこなしてんだろう。その役目の事だ」
「……はぁ」
以心伝心ならずとも、嫌いな相手と会話を続ければ、自ずと返ってくる男の態度も冷たいものになる。
「別に嫌なら辞めるか? ただし、役職のねぇ奴に個室を与える義理はねぇ、荷物をまとめてさっさと大部屋へ移動しろ」
男だけで雑魚寝をしている大部屋に送り込まれるのは耐えられなかった。これ以上の身の危険は冒せない。土方を突っぱねてまで一人で受けて立つ度量はなかった。
バッキバキに折られる意地とプライドはかなぐり捨てる。更紗は生きるためだと歯を食いしばって、心から苦手な男へ頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
「最初からそう言やいいんだよ。男どもの餌食になりたかねぇならな」
それ見たことかと優越に見下ろしてくる土方からプイッと顔を背ければ、再び障子戸がゆっくりと開けられていく。
今度は誰だと更紗は尖った視線を向けた。そんな状況を知ってか知らずか、顔に似合わぬ笑みを貼り付けた近藤が、稽古着姿の女をじっと見つめた。
「おお、そうか! 確かに歳の見立て通り良いもんだ。美貌を隠すのは勿体ないがね」
「んな事より、芹沢の様子は?」
「ああ、朝餉を終えて、八木邸へ戻っていった所だ。行くなら機嫌の良い今行こう」
「満腹でありゃあ……日の出た内に取って食いはしねぇか。おい、行くぞ」
クイっとあごを持ち上げ、近藤の後に続いて歩くように指示された更紗は、仕方なく立ち上がると、重い足取りで板廊下へ踏み出す。
心身ともに疲労困憊。こんな状態でまともな挨拶ができるだろうか。何度も頭に浮かぶのは、井戸端で自分を化け物呼ばわりした芹沢派らしい侍たちの姿だった。
絶対近づくなと原田に忠告されたのに、自ら相手の陣地へ乗り込むことになるとは。不幸中の幸いは、自分を受け入れてくれた近藤が一緒に行ってくれるようだ。
「……ちょっと待て」
スッと伸びてきた長い指が稽古着越しに触れた瞬間、その華奢な肩が不自然にびくりと跳ね上がる。
背後に立つ人影が自身のそれと重なった時、その距離の近さに更紗は狼狽えた。とはいえ、色男があまりに躊躇なく人の髪を掴むため、安易に離れることもできず。
「……何でしょうか? ゴミが付いてるなら自分で……」
くるくると何かを固定されているように感じなくもない。面倒くさそうに漏れた土方の吐息がかかって、更紗は平常心を保つことができない。
眉根を寄せて、険しい顔つきで前を見据えれば、その様子を立ち止まって見ていた近藤が、嬉しそうに頬を緩ませた。
「流石、歳だなぁ。なんだかんだ言っても更紗の身を案じているのか」
「総司がうるせぇから不承不承だ」
「お前さんのそういう所が心底頼もしいよ」
土方はカラカラと笑う近藤にはいつもの辛辣な返答はしなかった。岩のように動かない女の髪から手を離すと、その横を平然と歩いて行く。
「さて、どう切り出しゃ事が上手く運ぶか」
「……ううむ、それなんだが……」
更紗は髪に手を伸ばすが何をされたか分からない。でも、残り少ない気力を削がれた気がしていた。近藤と土方の背を追うように、しぶしぶ草履を浅く履いた。
一日ぶりに見上げた空は、膜を張ったようにはっきりしない天気だった。更紗は地面へ視線を落とす。少し残っていた貝の塗り薬を塗った足指はまだ赤い。
前川邸の目と鼻の先、土埃の舞う小道を30秒ほど歩いて八木邸の母屋へと赴くと、その本玄関には沢山の草履が乱雑に脱ぎ捨てられている。
「……うわ……隊士が集まってるの?」
更紗はどきんどきんと動悸が打ち始める。まだ覚悟ができていない。座り込んで他の履物も揃えてみると、ギシリ、ギシリと板廊下を踏み込む足音が近づいてくる。
「組で初めての謹慎を受けた気分はどうだ」
響いたのは芯のある低い声だった。恐る恐る後ろを振り向けば、脇差一本を腰に差した袴姿の侍が口の端を上げて佇んでいた。
「……永倉さん、おはようございます」
「昨日は派手にやったらしいな。左之が更紗は間者に違いねぇんだと、夕餉時に触れ回ってたぜ」
「……違います。あれは襲われそうになって……自分の身を守っただけです」
「今更、間者か否かなんぞ取るに足りねぇ事だ。それなりに稽古を積んでいるのは互い様、自分の身を守るだけの技量があるのは、此処にいる限り悪い事じゃねぇしな」
どこまで本気で言っているのだろう。けれど、永倉新八に限っては、たとえ自分が間者であっても無闇に斬り殺すようなことはしない思慮深さが伝わってくる。
それは迷いからくるものなどではなく、己の剣に絶対的な自信がある現れ。
余裕のある顔つきでこちらを見据えるその風貌は古き武士の姿だ。更紗は背筋がピンと伸びる心地に苛まれて、その場から立ち上がる。
「身丈、袖丈共に不都合はねぇか? これでも、小綺麗なもんを回したつもりなんだが」
「えっと……身丈ですか? ぴったりですけど、これ、もしかして永倉さんの……?」
「俺が一番、背格好が似てるんだと土方さんに言われてな。確かにそうしてりゃ、一隊士に見えなくもねぇな」
「あの……ありがとうございます。ずっと着てたいくらい、動きやすいです」
「礼には及ばんよ。で、土方さんから伝言だ。声を掛けるまでは話すな、だとよ」
淡々と言葉を放った永倉が踵を返す。更紗も慌ててその後を追い、八木邸の仄暗い板廊下を歩んでいく。
庭先には何度もお邪魔していたが、建物の中に一人で入るのは気が引けて、いつも玄関先から殺風景な部屋の景色を眺めるだけだったのだが。
「……話すなって……挨拶もですか?」
「芹沢先生は尊敬できる武士ではあるんだが、アクが強くてな。近藤さんが話をつけるまでは口を挟まずに出方を待ったほうがいい」
「……分かりました」
やはり屯所にいる誰もが慎重を期している。その姿勢は思いがけず女の胸のつかえを大きくし、室内に入る前から息苦しいほどの緊張感を与えてくれる。
深い呼吸を繰り返した更紗は、ふぅ、と息を吐き切ると、和室の敷居を素足で跨いだ。鼓膜にまで響き始めた心音を感じながら、目の前の光景に意識を向けていく。
「大坂はどうでしたか? 聞き齧った話では京の町より活気があると」
「京どころか江戸より活気があるやもしれんな。金回りも女もいいもんだ」
「……そうでしたか。それは良かったです。それでその……少しばかり聞いたのですが、大坂で金子を借り入れられたと……」
「儂の動向に探りを入れるとは──近藤、何をそんなに怖気付いておる」
「いや、そうではないのですが……」
「安心しろ、借り入れた訳ではない。是非とも隊服の支度金にと、献上されただけの事だ」
息を潜めたような静かな室内にしゃがれた声が重く響いた。更紗はその声を聞いただけで、顔を向けてはいけない気がした。
酸素を取り込むことさえ憚られる異質な男たちの気配が、辺りを占拠していた。




