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前門の虎、後門の狼

 逃げ場を奪うように日陰を一切作らぬ陽光が、京の町を隅々まで照らしている。


 地面には散ったばかりの花弁が無数に落ちていた。人々に踏みつけられて、色も形も失われている。



「腕が使いもんにならんかったら、どう落とし前つけてくれるんじゃ」


 ぞわりと、身の毛もよだつような囁きを耳元に吹き込まれた更紗は、条件反射で握り締められた手首を返す。無意識に男の腕を捻りあげていた。



「……痛……え……」


「離したら離します……!」


 

 即座に男は表情を歪ませ、掴んでいた指先を解いた。更紗も同じく手を離し、すかさず距離を取るように後ずさっていく。


 

 まるで腹を空かした獣のような目つきだった。こちらを睨むのは、腕をさする図体のデカイ男とその背後から歩み出てくる自分より小柄な男。


 髷を結わえ帯刀している姿から、侍に見えなくもないが、その身なりがお世辞にも綺麗と言えるものではなく……。近づかれた時に酸い匂いがした。



「うちの頭《かしら》を二度も手負いにさせた代償は高いぜェ? どうしてくれるんだ?」


「……今のは先にそっちからやってきましたよね? 確かにぶつかってしまったのは謝りますけど、怪我するほどでは……」


「女の分際で武士に歯向かうつもりかァ!? 無礼打ちにしてやってもいいんだぞ!!」


「……いや、そういうわけじゃ……」



 やばい。初動を間違えたかもしれない。更紗はトラブルが一瞬で大きくなってしまい、顔からぶわっと汗が吹き出すような不味さを感じた。胸が嫌な音を立てて張り詰めていく。



「詫び代として金一両払って貰おうか」


「え、一両って……私、一円もお金持ってません」


「何を分からねぇ事抜かしてんだ? 金がねぇなら仕方ねぇ……辻君みてえに体で償うのが女の筋だろうなァ」



 吐き出された言葉の意味は分からなくとも、緊急事態であることは分かる。へらへらと笑いながら近寄ってくる男たちの気持ち悪さに、息苦しくなっていく。


(……これって当たり屋だよね。マジで運悪い……最悪)



 幕末の京は驚くほど治安が悪かった。一瞬の隙をついて走り出そうと心では思っても、過去に与えられた恐怖心が、ズキズキと疼く足の動きを封じていく。


(……着物じゃ、制服の時みたいには走れない。じゃあ、どうする……!?)


 男たちの腰に下がる刀の存在が、必死で巡らせる思考をかき乱していく。逃げ出した途端にその背後から斬られるのではないかという、無限の脅威を与えるのだ。



「よく見りゃあ、肌が真っ白じゃ……こりゃあいい。前犯った女は浅黒い上に泣き叫んでばかりでよ。諦めが悪くてつまらんかったんじゃ」


「でも、この女……何か様子が妙ですぜ。面構えは上玉ですが、目が硝子玉みてぇに……」


「別に女でありゃあ化け物でも構わん。連れてこい」


「へ、へえ……」



 大柄の男に急かされた小ぶりの男は古ぼけた着物の袖口を捲りながら、三日月のような目をより細め、下駄を引きずった。


 一歩、一歩とそれに合わせて下がる女は、この時代に来て人生二度目の大ピンチに陥っていた。この前と違うのは、敵が自分より小柄であること。


 更紗は足下を確認すると、指先を強く握り締め、両手の拳を胸の前に置いた。



「……そ……それ以上、近づいたら本気でやりますよ!」


「……何だそれは。恐怖で頭に虫でも涌いちまったかぇ」



 正面から伸ばされた薄汚い手が触れそうになる。更紗は咄嗟に着物の裾を持ち上げると、膝の位置まで白い脚を露出させる。男が気を取られ、油断した瞬間だった。


「……痛ってえ……!!」


 

 脛に向かって躊躇なく蹴り出した草履の硬い先端が、鈍い音を立てるや否や、目先の男が声を上げて苦しげに前かがみになる。


 それを視界に捉えた更紗は、待ってましたとばかりに一歩を踏み出した。脳内で何度も再生していたのは、亡き母と一緒に通っていたジムのトレーナー直伝の護身術。


「……やあ……!」


 

 低い位置まで降りてきた顔に、肘鉄を食らわせれば、男は両手で顔を覆いながら、背後にふらつく。間髪入れず、隙のできた腹に足を振り上げ、ダメ押しの一撃をお見舞いする。


 実践したのは初めてだった。地面で転がる男の姿を見て、アドレナリンが止まらない。更紗は逃げ出したかったが、身体が震えて力が入らなかった。草履の片方は男のほうへ飛んでしまっている。


「……このアマ……!」


 代わりに飛んできた罵声へ視線を向ければ、腕が折れたとのたまった大柄な男が鯉口を切る。ゆっくりと大刀を鞘から引き抜いていった。

 

「この場でなぶり殺してやる……」



 殺気立つ男の眼差しが、仕留める獲物を定めた獰猛な猛獣に見えた。更紗はいよいよ地獄の淵に立たされた。通りすがった人々が蜘蛛の子を散らすように消えていく。


 全ては自分の招いた結果だ。店を離れてはいけなかった。親子を追いかける前に一言声をかけるべきだった。今更、後悔しても過ぎた時は戻らない。


(……詰んだ……どうせ死ぬなら、戦って死のう……)



 思いがけず、人生の最果てを見つけた更紗は、項垂れながら地面に落ちていた枝木を拾い上げる。ただの木の棒。せめて沖田が腰に下げているような太い棒だったら……。



「危ないから下がれ……!!」


 幻聴が聞こえる。聞きなれた少年の声だがいつもの楽しそうな声ではなく、切迫した声。 



「──更紗!」


 背後から名前を呼びかけられるや否や、首根っこを引き千切られたかと思うほどの強大な力に引っ張られ、更紗はその反動で棒ごと後ろへと投げ出されていく。


「……きゃあ……っ!」



 地面がスローモーションで近づいてくる。横倒れになって懸命に見上げた視線の先には、珍しく大刀を腰にぶら下げていた沖田が、抜き身を持つ男と自分の間に立ち塞がっていた。



「女相手に武士が乱暴ですか」


「乳くせえ餓鬼は引っ込んでろ。貴様も殺すぞ」


「手向かえば斬り捨てます」



 初めて呼ばれた自分の名は驚くほどに荒々しさを孕んだものだったが、目の前で聞こえる沖田の声は、恐ろしいほどに落ち着き払ったものであった。


 独特の緊張感が漂い、呼吸が浅くなる。全身が打ち震えて、みるみるうちにその碧色の双眸に大粒の涙がたまっていく。



「おいおい、大丈夫か? 何、物騒な事に巻き込まれてんだよ」


「……は……原田さん……」


「勝手な事した罪は重えぞ。土方さんの眉間が皺々になっちまってたからな」



 いまだ転がる小柄な男を足蹴にした長身の男は、下を向いて涙を拭う女の傍にしゃがむと、その腕を掴んで肩に乗せる。原田に身を任せて、更紗はその場から立ち上がった。



「……お……沖田さんは……」


「あいつは問題ねぇよ。一太刀でぶった斬る事はあっても下手こいて斬られる事は……先ずねぇんだよなぁ、これが」


「……でも……斬る、なんて……」


「腰抜けは抜刀する事も出来ねぇぜ? てめえの命が惜しいからよ」



 後ろを振り返った更紗は、抜き身を手に背を丸めながら虎に似た唸り声を上げる大振りの男が、細身の青年を前に一歩も動けないでいる姿を目の当たりにしていた。


 背面しか見ることが叶わない沖田は、相手を真っ直ぐに捉えたままいつでも鯉口を切れる状態だった。まるで孤高の狼のようだ。付け入る隙が一切ない。


 笑顔の裏に隠した難攻不落の壬生浪が姿を現す。更紗は底知れぬ恐怖を感じた。



「それよりよ、更紗。やっぱお前……間者じゃねぇのか?」


「……何で今……そんなこと……」


「いやぁ、さっき見た時は相当たまげたけどよ……男の性としてはゾクゾクしたぜ! 誰にも言わねぇから、ちょっと左之助様にそこんトコ教えてみなさい」



 グッと腰を掴む力が存外強いもので、更紗は新たな鎖を巻かれたような感覚に陥った。徐々に近づいて来る高下駄の音に気味の悪さを感じる。


 前に向き直せば、能面を付けているかと錯覚するほど端麗な顔立ちをした男が、刹那に般若の面を被り直し、恐ろしい形相で自分を睨みつけてくる。



「おめえは……全くもって聞き分けがねぇようだな」


「……ひぃ……」


 

 更紗は心臓を鷲掴みにされるくらいの戦慄を感じた。すぐ横を駆け足で通り過ぎる黒股引を履いた月代姿の男たちへ、今すぐにも死にそうな碧色の目を向ける。


 腰には刀がぶらさがっている。十手や麻縄、刺又など、時代劇に出てくる道具を持っている。なのに、こちらを見るだけで何も行動は起こしてくれない。


「……だ……誰も助けてくれない……」



 奈落の底へ自ら落ちてしまった絶望に追い打ちをかけるのは、少しでも動けば鋭い刃物が身体に減り込んでくるような原田の強靭な拘束力だった。


「これが“行くも地獄、戻るも地獄”っつうやつか? 土方さんの仕置きは怖ぇぞ〜俺ならチビるくれぇだが、女は直ぐあの世へイッちまうぜ」



 あたかも自分が捕縛されたように無理やり歩かされている様は、さながら水の流れていない三途の川を渡っているかのような幻想を抱かせてくれる。


 桜の花が朽ち、砂埃の舞う乾いた人生の終焉の先では、どう転んでも地獄にしか案内してくれない美貌の閻魔様が、腕組みをして待ち構えている。


「……終わった」



 全てが夢であればと強く願う世界の中で肩を落とした更紗は、鼻緒に触れる指先が赤く濡れているのをぼんやり霞んだ瞳で見つめていた。


 麻痺していた五感がゆっくりと命を吹き返す。この場に崩れ落ちたほうが楽だと思われる痛みや苦しみが、後から後へとその身を覆い尽くして止まなかった。

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