花開く都
文久三年 弥生 春霞み
壬生村 八木邸にて
夢の中にいるのだろうか。まるで映画のワンシーンを切り取ったような非現実的な情景だった。恍惚のため息が小さく溢れる。
「女だてらに間者とはやるじゃねぇか」
こちらを見下ろす切れ長の双眸が冷たい。更紗はふらつきながら身体を持ち上げる。意味の分からない単語を放つ男性を訝しげに見つめることしかできずにいた。
(……カンジャ? ……何のことを……言ってるんだろう?)
二人の間を隔てるように、はらりと薄紅色の花弁が一つ落ちていく。しかし、更紗の目に映る桜の木には緑が芽吹き、その花は地面で朽ちていた。
(……あれ? 桜……全然咲いていない……)
満開まであとわずかだった春真っ盛りの風景が、いつの間にか葉桜が目につく、新緑の季節に変わっている。
手で触れた桜の花弁は瑞々しい。奇妙な違和感を覚えた。着物を着る男からゆっくりと目を逸らすと四方八方を見渡していく。
(……何か……さっきと違う……?)
春特有の、どこか不安定に感じる天候のせいで、頭上で渦を巻いていた暗雲は千切れ、山の端へと消えていた。
ぼんやりと霞みがかっていた空も、いつの間にか綺麗な茜色が射している。もうすぐ日が暮れるようだ。
「土方さんが怖いから、 怯えてるじゃないですか。きっと異人ですよ。髪も下ろして変だし、言葉も分かんないようだし」
刹那、男性の背後に立っていた少年が、のんびり歩み寄ったかと思えば、目の前にしゃがみ込んでくる。
「硝子玉みたいな目……変な着物だなぁ。丈が短いのは破れたのかな?」
初対面にもかかわらず、手の届く距離から自分を眺めてくる。子どものような無邪気な目をしていた。今にも触れてきそうで、更紗は座ったまま後ずさった。
「……あ、目の色が変わった。碧色から薄い飴色になりましたよ」
頭の後ろには結わえ垂らされた髪が見えた。こんな長髪の男性と会ったのは初めてだ。稽古着も相まって異質に思えたが、その風景には不思議と馴染んでいる。
何か企んでいそうな、少年のようなうら若き青年から目が離せなかった。不意に見せた鋭い眼差しが背筋をぞくりと冷え上がらせる。
(……この人……多分、強い)
手に持つ木の棒は、竹刀や木刀とは比べ物にならないほど太かった。それが使い古されてボロボロになっている。痛み具合から何に使用しているか想像するだけで、身体が凍りそうだ。
更紗は手探りで自分の鞄を探した。スマホでも何でもいいから、身を助ける武器になるものがあれば……。けれども、掴めるのは湿った土と石ころだけ。
「総司、油断すんじゃねぇぞ。いきなり斬りかかってきたらどうすんだ」
「その時はこれを振り下ろすまでですよ。でも、震えてるし間者ではなさそうな……それにしても別嬪さんだなぁ、言葉が通じれば良かったのに」
「ほう、女に興味を示さねぇおめえが気にかけるとは、面白ぇ事もあるもんだ」
「別に気にかけてなんか! 私は土方さんと違ってどうこうしようとは一寸も考えませんからね」
むすりとふてくされた顔つきになる少年を一瞥した男は、ふ、と口元を緩めた。これまで見せなかった微笑を浮かべる。
「そうかい、そりゃあ悪かったな」
夕陽に照らされた男の表情が一転して優しいものに見えた。もしかしたら話せば分かる人かもしれない。更紗は麻痺が解けてきた唇を少しずつ動かした。
「あの……私、話せます……」
刹那、着流しの男性がカチャリと妙な音を立て、腰に差す刀へ手をかける。
「言葉は通じるようだな」
「……え、?」
一歩踏み出したことで光を浴びていく。豊かな黒髪を一つに結わえた、見惚れる顔立ちをした男だった。しかし、その眼差しはとても冷ややかだ。
「此処で何をしてやがった」
「……お店の和菓子を……買いに来たんですけど」
「何処か分かって言ってんのか」
「……旧八木邸ですよね? 新撰組の屯所の」
問われたことを正直に答えただけだったが、男の顔が険しいものに変わっていく。
間違ったことは何一つ伝えていないはずだ。しかし、相手の殺気が収まるどころか急激に増すため、否応なしに冷や汗が滲み出てくる。
「……あの……私、何か悪いこと……」
大人に敵意を向けられることなんか早々ない。更紗は緊迫した場の空気に思わず怯んだ。ばくばく打つ胸に手を添え、自分の置かれた状況を冷静に整理する。
(……これは……撮影だ。それならお店も立ち入り禁止にしてほしい……)
異様な光景ではあるが時代劇の撮影中に乱入してしまい、迷惑をかけた可能性はある。
客観的に見ても二人とも顔は整っているし、和装もよく似合っている。まとう雰囲気から見ても時代劇専属の俳優なのだろう。見たことはないけれど。
「大事な撮影を邪魔してしまい、すみませんでした。すぐ帰りますので許して下さい…」
更紗は申し訳なさそうな顔つきで立ち上がる。まだ若干フラつくが、一秒でも早くここを去りたい。綺麗だった制服は土だらけで、靴下も靴も汚れてしまった。
手の平に付いた土を払い、スカートの汚れも軽く払う。荷物はどこへ行ってしまったのかと辺りを見回せば、着流し姿の男がゆらりと近づいてくる。
「……あの、まだ何か……」
視界の端に見切れる何かが首元へスッと当てられたため、更紗は視線を這わせる。
「……っ!!」
少しでも動こうものなら、その光がどのような弧を描くのかは容易に判断できるものであった。
当てられた刀の光輝が顔へ反射する。奇しくも日本刀の中に恐怖に引きつる自分の顔が細く映り込んでいた。




