花散る里
朧げな浅葱の天空に風が吹けば、それを待ち望んでいたかのように薄紅の桜が舞い散っていく。
そんな心地よい春の風景の中を、一組の親子が歩いていた。
見上げた空と同じ色の着物をまとう女が抱えるのは、庭先に咲いた花を摘んでこしらえた、花束一つ。
勇み足で隣を進む娘の手には、近所の居合道場にある木の枝を手折り分けてもらった、紅梅の花一つ。
「ねぇ、お母さん。今からどこに行くん?」
ゆるりと、碧い瞳を見つめるのは、何かを秘めた黒目がちの双眸だった。
「さぁ、どこでしょう。ヒントは前に話した私たちと深い繋がりがあるところよ」
「……あ! 壬生寺のお墓に行って、お餅のおやつを買うん?」
「────なぁ、そこの澄ましたお二人さん……普通、俺を置いてくか?」
甘く漂う花の香りに誘われるように、親子は聞こえた声のほうへ視線を向けた。背の高いスーツ姿の男性が歩んでくる。
「だって、出かける用意が遅いんやもん! おじさん早く早く!」
春の不透明なヴェールに包まれた石畳を走り出すのは、枝を握りしめる赤いワンピースを着た女の子で────
令和8年 3月 春曇り
京都壬生寺 市村家墓前にて
穏やかな風が墓石の並ぶ境内に吹き込む時、少女が深々とお辞儀をしていた。
「今日はありがとうございました。無事に四十九日を済ませることができて……母も天国で喜んでいると思います」
頭上で咲くのは、何百年と歳月をかけてこの地を見守ってきた桜の老樹。
ゆっくりと花びらが散る下で少女は顔を上げた。大人たち四人の視線が集まる。
「更紗ちゃん、今回の件は不幸が重なるいうか……。孝ひな姉さんが逝ってしまっただけでも辛いのに、高校であんな噂を立てられてしもうて。あんた……大丈夫か?」
色喪服を着た芸妓が心配そうに問う。所作の美しい彼女は母の元同僚だ。返事の代わりに苦笑いをする更紗に、母がかつて世話になった置屋の女将が助け舟を出した。
「海外へ留学すると聞いて驚いたけど……人生を変える良い機会やと思うわ。渡辺さんが背中を押してくれたんか?」
「母の代わりに身元保証人になってくれました。渡辺のおじさんには感謝してもしきれません」
「……あんた、相変わらずまだおじさん呼んではるんやなぁ。今更、お父さんとは呼ばれまへんか。今日は来られへんで残念どした。お見送りしたかったろうに」
「仕事が溜まってるみたいなので仕方ないです。また一人で訪ねるそうなので、その時はよろしくお願いします」
改めて頭を垂れた少女は、三年の時を共に過ごしてきたチェックのプリーツスカートを見つめる。
高校の卒業式は出られなかった。それでも制服はクリーニングに出されていて、大事な日に着られるようにクローゼットに仕舞われていた。
恐らく母の入れ知恵だろう。悲しみに暮れる自分の代わりに、育ての父が今日のための準備をしてくれていたようだ。
「サラちゃんは大事な家族やからね。海外行く前に泊まりに来てよ」
「そうや、サラはうちの娘や。いつでもここに帰ってきなさい」
更紗は穏やかな声のするほうへ踵を返した。喪服を着た老夫婦に笑顔を向ける。
「……うん、ありがとう。またGWに遊びに来るね」
祇園にある楠木家は、歴史をもつ居合道場を営んでいる。大学生の息子の央太と更紗が一つ違いで、よく面倒をみてくれた。
母を失った少女にとって、幼馴染の家族の存在は一つの拠り所だ。
「……さて、と。日も暮れて来たし、そろそろ行こうや」
墓前で手を合わせていた若者が立ち上がると、手首に巻いた時計へ目線を落とす。稽古三昧の実家を出た央太は、反動からか髪を伸ばして、ピンク色に染めていた。
物心ついた時から兄妹のように育ってきた。その小ざっぱりした言動は元々の性格で、悪意がないのは理解しているのだが。
「央太! 何であんたはそんな言い方しかできひんの! サラちゃんの気持ちを考えなさい」
ピシャリと叱る幼馴染の母の声が忘れていた日常に戻してくれる。更紗と周りの大人たちは目を合わせて小さく微笑み合った。
「ちょっと出かけてきていい? まだ時間かかりそうだし」
ひんやりと冷え始めた壬生寺の参道を歩きながら、更紗は央太へ視線を向ける。楠木の夫婦と置屋の女将と芸妓は、壬生寺の住職と話し込んでいた。
「え、今から? お前一人でどこ行くねん」
「お餅のお菓子を買いに行くの。お土産にしようと思って」
「それやったら、俺も付き合うけど」
「ううん、近くだし大丈夫。すぐ戻るから安心して!」
更紗は怪訝な顔つきの央太に笑って手を振ると、参道を急ぎ足で駆けていった。
制服から覗く白い手足を動かせば、すれ違った人は無意識に目で追い、気づかれぬうちに視線を戻していく。
「孝ひなに似てきたなぁ……違うのは目と髪の色か。苦労の道やなぁ……」
少女の背中を見送る女将が本音を漏らした。その言葉は、街の雑踏に掻き消されていく。
一方、壬生寺から出た更紗は久しぶりに京都の狭い道を歩き、懐かしさを感じていた。
満開まであとわずか。既に八分咲きである桜は、沈み込みそうになる心をほんの少し掬い上げてくれる。
「……綺麗」
見上げたその瞳は、差し込む陽光で澄んだ青緑色に輝く。光の加減によっては淡い茶色にも見えるヘーゼルアイだった。胸まである髪は少し癖のある柔らかな栗色だ。
写真でしか見たことのないイギリス人の実父との思い出は皆無。何も話さない母の意思を尊重し、出自は聞かなかった。もう父親のことを知る機会はないだろう。
「……そういえば、お母さんと渡辺さんと三人で、この道歩いた気がする」
記憶の糸を手繰り寄せて思い出したのは、壬生寺へ墓参りに行った日に、自分たちのルーツだと話してくれた一つの昔話。それは歴史に名を残した新撰組と市村家には数奇な縁があったと……。
内容は忘れてしまった。もう一度聞けばよかったと後悔しても遅かった。遺品整理で出てきた傷だらけの刀の鍔も誰のものなのか調べようがないのだ。
せめて全てのルーツを失った感傷に浸るためにも、思い出の地を歩いて、この目に焼き付けて帰ろう。更紗は鞄に入れていた鍔を袋の上からそっと撫でた。
「でも、あの時確か……お母さんは空みたいな色の着物を着てた。あの色、何て言うんだっけ……青じゃなくて……水色でもなくて」
薄曇りの空に浮かぶ暗雲は、先ほどより絶え間なく流れ、頭上へと集まりを見せていた。
春特有の、どこか不安定に感じる今日の気候は、いつもの空を隠し、ぼんやりと目に映る世界を霞ませていく。
低層の和風建築が並ぶ道で、更紗は妙な心地を覚えた。ピリピリとやたら肌が粟立つのはなぜだろう。新撰組発祥の地である旧八木邸の前でゆっくりと足を止める。
「……そうだ、浅葱色だ」
吹き抜ける風によって、樹木からひらひらと舞い散る花弁は、吸い込まれるように長屋門のその奥へと消えていく。
朱色の誠の旗と白と水色の垂れ幕を見据えた少女がその地に足を踏み入れた瞬間────
今何が起きたのか。背後から数メートル吹き飛ばされたようだ。車に轢かれたのか、身体のあちこちが痛い。ズキズキと激しく痛む頭を庇って、少女は横たわっていた。
「……っ、……」
恐る恐る目を開けても視界がぼやけて見えない。誰かに救急車を呼んでもらいたくても、口が開かない。
それでも感覚は研ぎ澄まされている。地面に付いた手の平から、ひんやりとした土の感触と湿る苔の冷たさが感じられる。
(わた……し……生き……て?)
頭から足へと閃光が突き抜けた気もするので、交通事故じゃなくて雷に打たれたのかもしれない。ぐにゃりと世界が歪んだ感覚は今もなお生々しいものであった。
「女が一人で何してんだ」
意識が朦朧とする中、人の気配がする。更紗は反射的に声のするほうへ顔を向ける。
徐々に開けてきた視界に映るのは、舞い散る桜の花びら。そして町家の景色に溶け込む、着流し姿の男性と剣道着をまとった少年だった。




