壬生浪と身ぼろ
のどかな田園風景を眺めながら緩やかな畦道を歩くこと、およそ30分。
屯所という名の鎖から解き放たれた女は、目前に広がる映画の中でしか見たことのない別世界に、驚きと戸惑いを隠せないでいた。
「……すご……ほんとに来てるんだ……やばすぎる」
青空の下、遠くに連なるのは緑の映える悠々とした京の山々だ。近くでは何ら舗装のされていない茶色の土道が延々と続いている。
天上天下に挟まれるように建ち並ぶのは、俗に町屋と呼ばれる二階建ての家屋だった。壬生村の近くに点在していた平屋の木造住宅とは、雰囲気が異なった。
町を行き交う人々は老若男女問わず皆一様に着物をまとっている。下ろし髪など一人もいない。男も女も多種多様な髷を結んでいた。
「……着物に……髪も……何かすごい……」
更紗はドキドキと高鳴る胸を手で押さえた。自分はこの中に溶け込めるのか。視線を落として己の着物姿を見つめれば、草履履きの素足が既に砂埃で汚れていることに気づく。
「……だから玄関に水たらいが必要なんだ……そっか。すごいなぁ」
朝に板廊下を掃除してもなぜか夕方には砂が落ちていた。畳でも足裏にざらりとした感触がある。更紗はようやく砂埃たちがどうやって部屋に運ばれているのかを理解した。
「お嬢さん、さっきからすごいしか言ってないよ。どの辺がそんなにすごいのか教えてよ」
クスリと笑みの混じった声が春の風に乗って聞こえた。桜の木は花盛りだ。時代の流れで人々の装いは変わったが、薄紅色の花弁は令和と変わらず、前を歩く男たちの背に舞い落ちていく。
いつも太い木刀を持ち歩く少年は、珍しく刀を腰に差していた。その横を闊歩するガタイの良い男も同じく、くたびれた袴に似合わぬ立派な大刀を携えている。
「おい、更紗。そんな大口開けてあっちこっち見てっと、一緒にいる俺らまで田舎者に間違われちまうじゃねぇか!」
「それに間違いはありませんよ。江戸の片田舎に居たんですから。そんな事より、左之さん。いつの間にお嬢さんのことを名で呼ぶようになったんですか?」
「いつの間にって、あっちゅう間にだよ! いいじゃねぇか、近藤さんも呼んでんだし」
「駄目ですよ。近藤先生と左之さんは人間の格が違います。それに女子の名を外で軽々しく呼ぶのは……」
「あぁもう、うるせぇな!! 総司、てめえは籠に入った生娘ならず生息子か! とうに筆下ろしも終わってんだから、もっとこう、ドンと……」
「……ドンと、三段突きでいいですね」
「うわ、止せよ! ちょっとからかっただけじゃねぇかっ!」
カチャリと刀音を鳴らす沖田を見てすぐに大声を上げた原田は、慌てて身体を反らすと後ろにいる更紗へ駆け寄っていく。
知り合って一週間が経ち、相手の性格が少し分かるようになってきたが、とにかく原田は朗らかでデリカシーがなかった。他人のプライバシーに土足で踏み込んでくる。
そして、人との距離感もすこぶる近い。こちらが警戒したところで空気は読んでくれない。怪訝そうな女の歩調に合わせるや否や、横からガシリと肩を掴んでくるのだ。
「……更紗も気をつけろ。総司を怒らせたら生きては帰れねぇぞ」
「その余計な一言が身を滅ぼすんですよ?」
「分かった! 分かったから! 更紗頼む、おっかねぇ総司から俺を守ってくれ!」
騒がしい二人のやり取りは、やはり京では目を引くのだろう。できれば悪目立ちはしたくないのだが……。更紗は少し前から通りがかる人全員に見られているように感じ、別の意味で心が落ち着かなくなっていた。
「……えっと……原田さん、とりあえず肩を離して下さい」
いや、注目されているのは自分かもしれないと、更紗は考え直した。少しでも町に馴染むために縞柄の着物を着て、黒のヘアゴムで髪をまとめてみたが、溶け込めていない。町娘がこちらを見て噂話をしている。男たちも一緒に浮いてしまったようだ。
「──おい、てめえら。いつまで此処にいんだ」
不意に背後からかけられた不機嫌な声に、女はびくりと肩を震わせた。原田も沖田も足を止めて背後を見るため、更紗も釣られて後ろを振り返る。
そこには一人で町へ来たかのように、黒の着流し姿の色男が懐手をして歩んでいた。眉間には深い皺を寄せ、自分たちを冷ややかに見据えている。
「目立たねぇように出てきた意味がねぇだろう。散れ」
「そんなの、手が早い土方さんに、か弱いお嬢さんを任せられる訳ありませんよ」
「おめえは馬鹿か。俺ァ餓鬼にはそそられねぇんだよ」
「だとしても……どうせ一人で来ても何か言われるなら、皆と一緒でもいいでしょう?」
少年の表情が珍しく曇る。更紗は違和感を覚えるが、その横を風が吹き抜けるように悠然と歩いた土方は、沖田の傍まで行くと、さも意味ありげに一瞥した。
「悪事を働いている訳じゃねぇんだ。堂々としてりゃいいだろう」
邪魔そうな大刀を腰に下げても、器用に着物の裾を捌く男の後ろ姿は悔しいが様になっていた。これが幕末の人間の装い。改めて自分の姿を想像した更紗は心臓がドキリ、とする。
(何か言われるって……ひょっとして、私の見た目のこと?)
人の視線が冷たい気がしたのは間違っていなかったようだ。また化け物だと気味悪がられたら、働き口を探すどころの話じゃない。屯所より、町中で嫌われるほうが死活問題だ。
恐る恐る店のほうへ視線を向ければ、軒先に食材が並んでいた。目の前の町家は、八百屋のようだ。竹編のざるに山菜が盛られている。ござに置かれた青菜が輝いて見えた。
「……青臭くない葉物ないかなぁ」
正直、壬生菜はもう飽きていた。遠慮がちに近づけば、軒先にいた丁髷姿の男と目が合う。更紗は微笑んでみるが、ぎこちなく視線を逸らされ、男は店から離れて行ってしまった。
(……やっぱり、私の見た目で引かれたか。これじゃ屯所から出したくないよね)
更紗は地味に落ち込んでいた。新選組だけでなく、客が逃げた八百屋にも迷惑をかけてしまった。ふと視線を感じたので顔を上げると、白髪交じりの店主がじっと見つめてくる。気を取り直して会釈をすると、店先に置かれた食材を眺めた。
「こんにちは、お野菜すごく美味しそうですね」
フキノトウやタラの芽は、数日前に井上が買ってきてくれた。大根やカブなどの根菜、九条ネギは料理でも使うものだ。しかし、黄色の蕾のある葉物は屯所で見たことがなかった。
「すみません、これって菜の花ですよね? どうやって食べるんでしょうか?」
「……うちらはお浸しや味噌汁で食べるけど……あとは天ぷらやろか」
「天ぷら! 一昨日、山菜でしたんですけど、とても美味しくてびっくりしました。菜の花でもしたいなぁ。これはおいくらですか?」
「一束4文やけど……あんたはん、見かけへん顔やねぇ……」
予想通り、話は弾まなかった。物売りである店主の顔つきから困惑が伝わってくる。でも、ここで挫けてしまっては、町に来た意味はない。更紗は意地の笑顔を貼り付けた。
「最近、京に来たんです。旬のお野菜が食べたいので、買わせていただけませんか?」
「……旬の野菜やったら、奥に筍があるさかい、付いてき」
女の圧力に負けたのか、つっけんどんながらも店の中へと案内される。更紗は迷ったが従うことにした。式台に上がるために足下を見ると、見事に砂埃だらけだった。
(これは失礼すぎるよね……せめて払ってから上がろう)
帯に差し込んでいた手拭いを出して、素足を払う。障子戸はなくても畳と長机が見える。屯所での出来事が蘇った更紗は、着物の裾を押さえながら着座する。
室内にもござが敷いてあり、土付きの瑞々しい筍がゴロゴロと山積みになっていた。ただ、下処理の仕方が分からない。質問すべきか悩みながら店主に顔を向ければ、大袈裟に目をパチクリさせていた。
「はー、綺麗なもんやね。お作法を分からはるんか」
「いえ、そんな……毎日怒られてばっかりです」
「東言葉の人やのに、あんたはんは丁寧でええわぁ」
「わぁ、ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです」
意外にも眉をひそめていた店主の反応が柔らかくなる。更紗は素直に安堵していた。このまま町の人と良い関係を築ければ、早めに屯所を出られるかもしれない。更紗はほんの少し見えてきた希望の光を胸に、頬を緩ませる男を見つめていたのだが。
「いきなり消えたと思ったら、此処にいたのかよ!」
刹那、背後に嵐の気配を感じた。更紗が咄嗟に顔を向ければ、刀差しの大男が式台に断りなくズカズカと上がり、傍にしゃがみ込んでくる。砂埃が大きく舞った。
「すみません。ちょっと野菜を見たくて……」
「野菜ねぇ。俺ァこう見えても買い出しを任された事がねぇんだ。調子こいて銭を使い過ぎちまうからって……酷えと思わねぇか?」
原田の肩がぶつかってきたので、更紗は横にずれる。相変わらずの距離感だが、心の壁を作らないオープンな精神は、ある種の安心感を与えてくれるものであった。
「何か気に入るもんあったか?」
「菜の花はどうですか? 一束4文なら安いですよね?」
「えー、俺に花を食わせる気かよ! それならあそこの筍にしようぜ」
「筍ですか……私、下処理の方法が分からなくて。原田さんは知って……」
「──うちには東国の浪士はんに売るもんはありまへん。他を当たっておくれやす」
二人の会話に割って入ったのは、辛辣な京都弁だった。更紗は驚いて店主の顔を見るが、目線が合わない。態度が一変して、明らかに避けられている。
空気感がピリピリしたものに変わっていた。竹箒を持ってきた店主が板間を掃き出す。嫌な予感がした更紗が横を見れば、既に原田は立ち上がり、拳を握っていた。
「おい、聞き捨てならねぇなジジイ。客の前で物売らず、掃除とはどういう了見だ」
「……あんたはんらが噂の浪士はんなんやろ。東言葉を喋る背の高い浪人には気をつけやて……買い叩かれた店は泣く泣く二束三文で売ったはる聞いたけど、うちはそう訳にはいきまへんさかい」
「噂の浪士っつうのは一体何の話だ? 俺にはちっとも身に覚えがねぇ! 江戸っ子は金子を弾む事はあっても、無理に買い叩くなんざ野暮の極み、ありもしねぇ空言じゃねぇか!」
「……ほんなら、言わして貰いますけど。あんたはんら、この町の人に陰で何て呼ばれたはるかご存知どすか?」
店主の声は微かに震えていた。無理もない。原田は大男の上に、腰にある刀に手を添えていた。侍と対峙する恐怖心が伺える反面、隠しきれない嫌悪と軽蔑が言葉尻に滲んでいる。
更紗は初めて見る男同士の喧嘩に口を挟めなかった。沖田や土方を呼びに行ったほうがよさそうだ。とはいえ、この場を離れた瞬間に原田が斬りかかってしまったら……。心は焦りながらも見守ることしかできなかった。
「昨日、老いぼれジジイが俺を見て壬生浪だとか何とか言ってた気もしなくもねぇが……それが壬生村にいる浪士で壬生浪と呼ばれてんなら、別に……」
「──身ぼろ、ですよね。知ってますよ。ここを通っただけで町の人から後ろ指を指されるようになりましたから」
カラン、と下駄の音が微かに聞こえたかと思えば、この一週間よく耳にしていた沖田の落ち着いた声が背後から響いてくる。まるで屯所にいるかのように、ひらりと式台へ上がった。
「え、何だ、その身ぼろってのは? 俺を見て壬生浪って言いやがった老いぼれは……」
「それは壬生浪じゃなくて、迷いなく身ぼろですよ。だって、左之さんはその袴を履いてたんでしょう? 裾が破れてボロボロだから身ぼろなんです」
「ボロボロだから身ぼろ? あの糞野郎タダじゃおかねぇ! 今すぐとっ捕まえて……」
「そんなの追っかけてたら、身が幾つあっても足りませんよ。毎日、ほっつき歩いてたのに気づいてなかったなんて……流石の左之さんだなぁ」
感情を爆発させる伊達男とは違い、沖田の声は飄々としていた。しかし、真っ赤な顔で今にも鯉口を切りそうな原田を背後から羽交い締めにして必死で押さえていた。
いつも無邪気に笑っている沖田の顔が歪む。屈強な原田に苦戦を強いられているようだ。更紗は助けに入ったほうがいいのかと覚悟を決めようと指先に力が入るが。
「店主、騒いで悪かったな。確かに壬生浪士組は俺たちの事だが、品物を買い叩く不埒者は別人だ。こちとら人違いされちゃァ困るもんでな」
「……人違い言うんやったら……あれは……」
「もう金輪際、邪魔する事はねぇ。これで仕舞いだ」
片眉を吊り上げ、微かに微笑む色男の表情には侍の余裕が感じられる。けれども、その瞳の奥は一切笑っていないことに気づき、更紗の背筋がぞくりと冷えていく。
踵を翻して一人歩み始めた土方の装いは、着古した和服をまとう原田と沖田のそれとは違い、綻び一つ見当たらないものであった。




