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番茶と煙管

 天色《あまいろ》の空で白い雲が彷徨っている。春の暖かな日差しによって透けるように、その青に溶けていた。


 打って変わって光の恩恵を受けられない暗所では、七輪にかけていた鉄瓶から仄白い湯気が立ち上っている。


 更紗は乾いた手拭い越しに取っ手を掴むと、煮出した番茶を一つの湯呑みへ注いでいた。


「……よし、と。行きますか……」



 火種が弱まったのを確認し、丸盆に湯呑みを乗せた。板廊下を慎重に歩いていくが、その足取りは重い。


 気を紛らわせるように庭先を見ると、まだ一度も話したことのない侍たちが、木刀片手に稽古に励んでいる。



「近藤先生に持っていくならまだしも……何で私が毎日……」


 女はやきもきする気持ちを口走ると、ある部屋の前で歩みを止めた。仕方なくその場へと腰を下ろしていく。


 軋む板廊下には朝特有の柔らかな陽だまりができていた。澄んだ空気で一呼吸すれば、意を決したようにきっぱりとした声を放った。



「失礼します。朝のお茶をお持ちしました」


「入れ」


「はい。では、失礼します……」



 手を伸ばして障子戸を開けた。遠目に紫煙を燻らせる一人の男の姿が碧色の双眸に映り込む。


 ふと、その傍に竹籠の荷物をぶら下げる旅装束姿の侍も捉える。屯所では見かけたことのない男だった。


 更紗は盆片手に立ったまま戸を閉めると、初めて見るその若者へ自然と顔を向けるのだが。



「やり直せ」


「……へ?」


「盆を置いて戸に向かって正座。真ん中まで閉めたら手を替えて閉め切る」


「……ああ、はい」


「何度言ったら覚えんだ。聞き分けのねぇ女中はいらねぇんだがな」



 冷めた顔つきの男がこちらを見ていた。煙管を吸い込み、当てつけのように長く吐き出していく。


 女は日々溜めている苛立ちをその目に滲ませる。しかし、白煙越しに眉間を寄せ、ひと睨み効かせる色男の威圧に敵うわけもなかった。


「……すみません」



 即座に土方へ背を向けた更紗は、障子戸に向かって座り込むと湯呑みの乗った盆を左側に置き、言われた通りに戸の開閉をぎこちなく行う。


(……いつも思うけど、ほんと細かいなぁ。粘着質っていうか)



 人生最悪のタイムスリップから一週間。少しずつこの時代の作法を学んでいるが、存外この男だけが間違いを指摘しては小煩く注意してきていた。



「──で、話に戻るが。いらねぇ問題は起こしてなかったか?」


「……僭越ながら申し上げますと、両替商の平野屋五兵衛より強引に金百両を拝借しました」


「両替商からねぇ……何故《なにゆえ》その店にしたんだ」


「それが大坂の本両替だそうで、幕府公用の十人両替にも選ばれたとか」


「幕府御用達が災いしたっつう訳か。その男も運がねぇな……たく、其処《そこ》までして誂えてぇもんかね」



 更紗は土方の傍で再び腰を下ろし、畳に置いた盆から湯呑みを手に取った。空きスペースを確認した上で、文机と呼ぶらしい長方形のローテーブルに移していく。


 いつ運んでも淹れたてのお茶を飲んでくれることはなかった。ある種の嫌がらせではとネガティブに考えてしまうほど、この憎き男に近寄りたくはない。


 呼ばれるたびに試験を受けている気分にさせられる。手厳しい眼差しには慣れてきたものの、今日に限ってはすぐ横から突き刺さるような視線を感じる。



「……何でしょうか? 私の顔に何か付いてますか?」


 耐えきれず、更紗は旅装束の侍を見つめ返した。笠で潰れた前髪が顔にかかっているその青年は若かったが、無駄な肉のない精悍《せいかん》な顔立ちをしていた。驚きとも戸惑いともとれる表情を浮かべている。



「……土方副長、この女は一体?」


「近藤さんが雇った女中だ」


「……しかし、この女……異人では?」


「半分はそうみてぇだな」


「……この事を、その、会津藩には……?」


「言うわけねぇだろう」



 更紗は会話を続ける男たちの顔を交互に見ながら、二人の間に流れるちぐはぐな空気を感じ取っていた。また異人だから追い出せという話なら、もう聞き飽きたのだ。


(この流れはそうなるよね……気まずくなる前に立ち去ろう)



 盆を手に取り、さっと立ち上がる。悪戯に鼻腔をくすぐる煙管の匂いは、過去によく触れていた煙草の苦いそれとは違い、線香のような心落ち着く香りだったが。



「……無礼を承知で申します。屯所は女人禁制だと決められた手前、芹沢先生の許可なく女を置くのは少々事が過ぎるように思います」


「何だ、納得いかねぇか」


「ましてや、嘆願してお預かりになった身……申告なく異人を匿うなど、誠忠浪士組としての信頼を失うばかりか、会津藩の名に傷がつく可能性も……」


「斎藤、おめえの言う事は正論だが、近藤さんが決めたんだ。武士に二言はねぇんだよ。それに、餓鬼一人匿うくれぇで名が傷つくほど、会津は落ち目じゃねぇだろう」



 ふぅ、と再び白煙をゆっくりと吐き出した土方は、腕を伸ばして煙草盆を引き寄せると煙管に溜まった灰をその中へ落としていく。


「お務めご苦労。下がっていいぞ」



 畳に手をつき土方へ向けて深々とお辞儀をする青年を横目に、やきもきする気持ちが胸一杯に広がっていく。でも、それを押し込めるように更紗は無言で踵を翻す。


 歴とした日本人なのに異人だと敬遠される。この世は不条理だ。たとえ慣れてきたとしても、やはり面と向かって自分の存在を否定されるのは、心が落ち込んでしまうのだが。



「おい、誰が下がれっつった」


「……へ?」


「おめえは残るんだよ」



 更紗は反射的に振り返った。細めた切れ長の双眸と視線がぶつかり、背筋が冷たくなった。


「……芹沢が押し借りしたとなりゃあ、どう落とし前つけるか……」

 


 どちらを呼び止めたのか分からなかったが、自分だったようだ。旅装束の青年が抜き取っていた刀と菅笠を手に持ち、歩き出す。去り際に投げかけられた視線が、鋭く突き刺さった。


(……誰か分からないけど、芹沢派の人なのかな。なんか怖い……)



 更紗はその眼差しを避けるように向き直る。青年は音も立てずに障子戸を閉めた。


 眉間を寄せた土方は、煙管を文机にある引き出しに片づけていた。何やら物思いに耽っているようだが、不意に端正な顔を持ち上げ、ぎろりとこちらを見据える。



「おめえさんはよ、いつまで此処で世話になるつもりだ」


「……え、いつまでって……」


「あの世とやらに戻れるまでと……近藤さんに話したらしいが、戻れなかったらどうする。まさか、ずっと面倒かける訳じゃねぇだろうな」



 ドクリ、と更紗の鼓動が乱れる。土方の突き放すような言動で不安になったからか、その冷淡な眼差しに身が竦んだからなのか。


 思考が駆け巡るが、すぐに答えは出なかった。令和に帰れなかったら……そんなことは想像もしたくない。怯える心が見透かされた気がして、ばくばくと心臓が鳴った。


「それは……ちゃんと一人で生活できるようになったら……」



 毎日、井上にお願いしては八木邸へ行き、何か手がかりがないか探索していた。しかし、何も見つからないのだ。正直なところ、何をどう探して帰れるかも分からない。


 途方に暮れる中で心を巣食うのは、帰れなかった場合の恐怖だ。絶望はいつもすぐ隣にある。幕末で自分の居場所を作るには、まだ人として足りないところが多すぎるのだ。



「ほう、どうやって一人で生活するんだ」


「……とりあえず、働けるところを探します」


「障子戸一つ満足に開けられねぇのにか」


「それは……頑張って覚えます。雇ってくれるところがあれば、何でもしますから……」


「雇ってくれる所ねぇ……女が身一つで生きる生業なんざ、知れてるだろうに」



 その言葉を聞いた瞬間、更紗はカッと熱くなり、苛立ちが沸いた。


「……私は、自分を安売りするつもりはありません」



 静寂の中、険悪な視線が交錯する。丸腰で睨み続ける女を黙って見ていた男は目線を落とし、小さく息を吐いた。


 引き出しから深緋の小袋を取り出した土方はゆらりと立ち上がると、着崩した着流しの袖口に入れ込んでいく。さらには、刀掛けにあった大刀に手を伸ばした。


 怖い。今日こそ斬られる──。更紗は身を守ろうと後ずさるが、その間合いを詰めるように男は殺しの流し目を寄越してくる。



「町へ出る。付いてこい」


「……え、町……?」


「おめえの働き口があるかどうか、その緑か茶か分からねぇ目で見りゃあいい」



 二本の刀を腰の帯に差し込んだ土方は、悠然とした足取りで更紗の横を通り過ぎる。煙管の残り香がふわりと舞った。


 更紗の胸が、どきどきと高鳴る。今日はどういう風の吹き回しか、思いがけず、軟禁状態であった屯所から出られるようだ。


「……え、と……」



 これまで食材の買い出しに行きたいと申し出ても、問答無用で却下されてきたのに。


(……外に出られるのは嬉しいけど。一体、何を考えてるんだろう)



 結わえられた男の黒髪がその背で揺蕩うように、収拾のつかない更紗の胸の内も揺れ動いて止まらず、そわそわと浮き足立つものであった。

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