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月の隠れる夜に

 紫陽花色の京の町が宵の気配を放ち始めた時、 いつしか空には白んだ月が浮かんでいた。


 沈んでいく夕陽に照らされ、連なる山々は昨日と同じく茜色に染まっていく。


 急速に温度を下げ始めた部屋の空気は、湧き水のように冷たく澄み切っていた。唯一、温かい味噌汁へついつい手が伸びてしまうもので。



「──ならば、更紗は異国の血が入っているという訳か? 父がその、えげれす人だと……」


「はい、そうです。母は日本人、父がイギリス人です。と言っても、父に会ったことはないんですけど…」


「……そうか。確かに世の女子とは異なるものを感じたが……ううむ」



 椀の中でぷかりと浮いていた白い豆腐を見た更紗は、出汁の効いた味噌汁を一口飲んだ。目先には朝と同じく近藤が着座している。箸を置いて何やら考え始めたようだ。



「……攘夷を掲げる誠忠浪士組に異人の血を継ぐ者がいるのは……やはり不味いか?」


「だから言わんこっちゃねぇんだよ。謂《いわ》れを聞く前から何でも引き受ける悪い癖が、こういう厄介事を招くんだろうが」



 隣で盃を持ち上げた色男は辛辣だった。苦笑いを浮かべる近藤に追い打ちをかけるように土方は一気に酒を煽ると、せせら笑った。


「左之助から聞いたが、家里と根岸がこの女を“化け物”だと騒ぎ立てたらしいじゃねぇか。ただでさえ水戸一派は、攘夷の塊だ。そんな火種を屯所におくなんざ、正気の沙汰じゃねぇ」



 ガタ、と更紗の膝が小さく震える。山南が静かに椀を置き、丸眼鏡の奥の目を険しくした。


「今宵の夕餉に、水戸派の面々も誰一人姿を見せていない。朝になっても戻らないのなら、我々が異人の娘を匿っていると、芹沢先生に注進しに走ったのでは……?」



 辺りが静まり返る。更紗でも大広間の空気が張り詰めていくのが分かった。彼らの火種になるくらいなら、出て行ったほうがいい。そう思っても、簡単には覚悟は決まらない。


 うつむく更紗を一瞥した近藤は深く息を吐き出すと、隣の土方をまっすぐに見据えた。


 

「……でもなぁ、歳。身寄りのない娘を一人、外へ放り出す訳にもいかんだろう」


「おめえさんの心が痛んで出来ねぇというなら、この俺が一切の責任を負ってやってやる」



────いつでも、この女を斬り捨てる。


 そう聞こえた気がした。ここにいる全員が刀を持っている事実は、死の匂いを強く感じさせるものだ。だんだんと宵闇が深くなる。更紗の背後には死の恐怖が纏わりついてくるが。


「これ、美味いなぁ。皆食べました? 小魚を揚げたやつ」



 不穏な空気を変えたのは、サクサクと小さく聞こえた咀嚼音。声の主は沖田だ。いつも通りの無邪気な笑顔を浮かべている。



「山南さんも土方さんも心配性だなぁ。あの人たちには芹沢先生に告げ口する余裕なんてありませんよ。近藤先生の悪口を言う不届き者は、私が片付けちゃいますから」


「これっ、総司! 市村殿を怖がらせるような冗談を言うんじゃないよ」



 すかさず井上が叱りつけるが、沖田の目は一切の体温を持たない光を孕んでいる。



「それに……芹沢先生は大丈夫ですよ。きっとお嬢さんの事気に入ると思うけどなぁ」


「てめえのその軽口の根拠は何だ」


「だって、敵を知るにはまず味方からって言うじゃないですか」


「……総司、それを言うなら、敵を知り己を知れば百戦危うからず、だ。くれぐれも人様の前で間違えんじゃねぇぞ。その恥は近藤さんが掻く事になるんだからな?」


「永倉さんは手厳しいなぁ。そんなの言われなくても分かってますよ」



 むすりと、不貞腐れたような顔つきを覗かせた沖田が今度は青菜を箸でつまんだ。


 更紗は我慢できずに水の器に手を伸ばした。喉が渇く。周囲に漂う不協和音を飲み込むように喉元へ流し込んでいく。


(……今放り出されたら絶対に死ぬ。せめてもう少しだけ、生活の仕方を覚えたい)



 自分の存在が非常に危ういのは分かっている。でも、ここに置いてもらわないと生きていけないことは実感していた。やっと水を汲んでかまどの火の入れ方を覚えたところだ。


 こんな家事レベルでは、女中として雇ってくれるところはないだろう。息が苦しくなる。

 


「──って、なんだよこの空気! せっかく飯があるんだから、楽しく食おうよ!」


 突如、大広間の重苦しい沈黙を破ったのは、原田の隣に座る愛らしい顔つきの青年。名を藤堂平助と言った。


 藤堂は膳の皿を掲げると、身を乗り出して更紗に笑いかける。可愛い八重歯が見えた。



「お嬢さん、これ本当に美味いよ! この酸っぱくてネギの入ってるやつ。なんて料理?」


「え……あ、南蛮漬け、です。こうすると日持ちするはずなので……」


「へぇ、初めて食べたけど、甘酸っぱくて箸が止まんねぇや。それにこの青菜をごま油で炒めたやつも、少し焦げたとこが香ばしくて最高!」



 夕方にぎこちない挨拶を交わした時は、お互いに少し緊張していた。しかし、今は屈託のない笑顔で料理を大絶賛してくれる。ピリついた空気の密度が、和らいだ。


 料理を食べてくれる人もいるが、手をつけない人がいる。近藤や井上は口にしてくれたが、土方と山南は箸を置いたままだった。 



「平助てめえ、俺の小魚まで勝手に食うな! 姉ちゃん、此奴ァ小せぇくせに大食いだから気をつけたほうがいいぜ」  


「痛ぇな左之さん! 小さいは余計だろ! あ、でもさ、お嬢さん。こんだけ料理上手なら、買い出しで何か買ってきてほしい食材はあるかい? 明日は俺が当番なんだ」  



 照れている平助の気遣いが、恐怖に縮こまっていた更紗の心をじんわりと解かしていく。


 女中として初めて作ったメニューは、揚げた魚に塩をまぶしたものとネギを入れて甘酢と絡めたもの、壬生菜と油揚げの炒め物、茹でたえんどう豆、豆腐とネギの味噌汁。


 主たる彩りは青、茶、白と、朝にとった食事と何ら見栄えが変わることはない。できれば、赤や黄色が欲しかった。例えば卵があるだけで、メニューは劇的に増えるのだ。

 


「あ……ありがとうございます。もしできたら、なんですけど……卵、とかってありますか? 玉子焼きがあれば、朝食が華やぐかなって……」


「あー……卵かぁ……!」



 藤堂はうーんと唸りながら天を仰ぐ。そして申し訳なさそうに頭を掻いた。



「卵はちょっと厳しいなぁ。市場で見た時、一個十二文もしたんだ。うち今、貧乏だからさ、人数分買ったら、一日の予算がそれだけでスッカラカンになっちまう……」


「12文……?」  



 それは高いのか安いのか。いや、きっと高いのだろうが、江戸時代の貨幣価値が何も想像できなかった。戸惑った更紗が首を傾ければ、藤堂も釣られて首を傾げる。


 そんな二人のやり取りを黙って見ていた男が、ふっと息を吐いて箸を置いた。



「聞く所によると記憶がないらしいが。近藤さんの人の良さに付け入る気でいるなら、今のうちに止めたほうが賢明だぜ」


「人の良さに付け入るとか……そんなこと考えていません。確かにここに置いてもらえるのは、行く場所がないのでありがたいですけど……」


「左之や総司はあの世から来た天女だと舞い上がっちまってるが、俺は土方さんと同じでそうもいかねぇ。お嬢ちゃんの真意を知りたい」



 切れ長の一重から繰り出される鋭い眼差しに、彼の実直さが窺《うかが》えた。それは怖いほどに揺らぎのない力強いものだ。


 更紗は鼓動の音が鳴り響くような錯覚を覚える。これはきっと、試されている。でも、ここで見捨てられる訳にはいかないのだ。碧色から淡褐色へと移りゆく双眸に光が灯る。


「私が人を騙してるように見えますか?」



 不気味に静まり返る室内には、いつしか明かりが照らされていた。揺れる灯火が視界の端に見えたが、更紗は脇目も振らず、ただ自分に問うた男を見つめ続ける。



「……面と向かってそう言われちまったら、男は返す言葉がねぇな。此処は見ての通り、むさ苦しい男所帯だが慣れちまえば何て事はない。俺は永倉新八と申す故、お見知りおきを」


「……ありがとうございます。市村更紗です。どうぞよろしくお願いします」


「永倉君が認めたのなら及第でいいだろう。更紗、こっちへ来なさい」



 近藤の顔がほんのりと赤らんで見えた。明かりのせいか酔いのせいかは判断できない。


「試衛館では新たな門人が来た夜に、近づきの盃を交わしていてな。今宵はそれに倣《なら》うか」



 けれど、嬉しそうな声色を聞いて更紗は心底ホッとした。緊張の鎖が解け、強張っていた顔が少しずつ緩んでいくのが自分でも分かる。


(こんな私にこれだけ優しくしてくれる近藤さんて……本当に人が良いんだろうな)



 永倉や土方が近藤をやたらと気にかける理由が何となく理解できる。もしかしたら騙されやすいタイプなのかもしれない。そう思いながら、更紗は立ち上がった。


 天井近くにある虫籠窓から仰いだ空は既に暗かった。闇は月光を飲み込み、灯火のないところは、仄暗さを漂わせている。


 更紗は丁髷を結わえる近藤の傍に腰を下ろすが、灯された蝋燭の明かり越しに互いを見なければ、細かな表情まで読み取ることも出来なくなってしまい。



「総司が更紗を御伽草子に出てくる赫映《かぐや》姫なんじゃないかなんて言い出すもんだから、どんなもんだと思ってたが……あながち間違いではないのかもしれんな」


 くしゃりと破顔して見せた近藤は、なみなみと注いだ盃を差し出した。更紗は恐る恐るそれを受け取るが、ぱちくりと瞬きをして見せる。



「あの……私、未成年でして、お酒を飲んだことがないので、大丈夫かな……」


「うん? みせいねん、というのはどういう意味かね?」


「えっと、未成年というのは、成人していないということで……」


「この世では十五、六になりゃあ、自ずと酒を覚えるもんだが……」

 

「姉ちゃんよ、一体いくつなんだ。まさか十三、四という訳ではねぇよな?」


「さすがにそれはないです。あ、そっか。ちょうど……18歳になりました」


「へぇ、そうなんだ。お嬢さんが私より三つも下とは……見えないなぁ」



 沖田は近くにあった蝋燭を手に取るとその場から立ち上がる。部屋の四隅にある行灯へ火を移しては、暗晦《あんかい》に柔らかな明かりを灯していく。


 それを待ち構えていたのかゴーン、ゴーンと7回鳴る鐘の音が、夜の帳が下りた京の町へ響き渡る。今の鐘は何時を知らせたかったのだろう。女中として置いてもらえるなら、もう何でもいい。


 更紗は今日が自分にとって特別な日であることも、すっかり忘れていた。



「初酒、楽しみなさい。何、酔いが回ればこの色男が介抱してくれるぞ」


「おいおい、易く押しつけるんじゃねぇよ」


「そうは言っても、お前さんの面倒見の良さはこの身をもって知ってるからな。私のために一切の責任を負ってやるんだろう?」


「……たく、勝手に言ってろ」


「よーし! 局長の認可が下りたなら祝いだ祝い! 今宵は朝まで飲み明かすぞ!」



 原田が豪快に笑うのに対して、土方は不機嫌そうだ。それを満足げに眺める近藤を見つめた更紗は、この部屋にいる男たち全員が目に見えない絆で結ばれているように思えて仕方なかった。


 山南と井上が沖田と何かを話し始めれば土方が自然と加わり、傍にいた藤堂や永倉の声が混じり、やがて近藤や原田の大きな笑い声が広間へ響いていく。


(……皆、仲良いんだなぁ。ずっとこんな感じなのかな……)



 素直に羨ましく思うその心の裏で感じるのは、孤独の気配。同じ部屋にいるはずなのに一人ぽつんと取り残されたような寂しさに襲われてしまう。


(……人生で一番最低な誕生日だけど。お母さん、何とか18歳になりました)



 更紗は手にしていた盃の水面に浮かぶ月らしき幻影を見つけると、それに唇を寄せるように、冷たくも温くもない濁り酒を飲み干していく。


 喉にへばりつくように熱い。さして美味しく感じられなかった後味に顔を歪めるも、初めて経験する男たちとの酒宴に、いつしか心が浮遊していた。

 

 そっと見上げた空に宵月を臨むことは叶わなかった。けれども、楽しげな手拍子と陽気な歌声に感化されるように、視界の端に見える灯火が穏やかに赤く舞い揺れていた。

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