捨鐘と時の鐘
「……塩に、砂糖に……味噌に醤油……あ、これはお酢だ。何だ……料理のさしすせそ、ちゃんと幕末でも揃うんじゃん」
さして光の届かない暗所にうずくまり、壺や瓶を指差してはぶつぶつと呟く女が一人。
ツンと鼻をつく匂いを放つ瓶から顔を離すと、すぐ側の式台にしゃがみ込む。山南が貸してくれた半紙の横の筆を手に取った。
一段上の上がり框を机に見立て、文字を書き連ねていけば、大きな瞳をパチクリさせた若者が徐ろに覗き込んでくる。
「へぇ……楷書で書くんだね。そんな畏まった字を書く人なんて周りにはいないから、何かムズムズしちゃうなぁ」
「そうですかね? 皆さんはどんな字を書くんですか?」
更紗は動かしていた手を止め、半紙越しに視線を持ち上げる。土間に佇んでいた沖田が、ニコリと微笑んでこちらを見下ろした。
「どんな字って、行草書体だよ。もっと流水の如く滑らかに、もっと早く書ける字体だよ」
「それって、くずし字ってやつですか?」
「くずし字って……面白いなぁ。そんな風に考えた事なかった」
沖田はクツクツと笑う。また袴紐に木刀を引っかけており、身体を揺らすたびにそれが式台の角に擦れ、微かな木の音が奏でられていた。
肌身離さず持つのが彼の癖であるのか、それとも武士の決まり事であるのか。
真意のほどは分からないが、少なくとも悪事を働こうとする者がいれば、良い意味で牽制とはなる。
(……そういえば。私に近づく時っていつも木刀持ってるかも……)
不意にぞくりとする感覚を覚えるや否や土間の入り口が開き、陽の光と共に勢いよく風が吹き込んでいき。
「……あ、」
更紗は式台へ手を伸ばすも、半紙の束は一瞬のうちに浮き上がる。吸い込まれるように板廊下へと飛ばされそうな刹那。ヒュッと疾風が女の目先を通り抜け、床へとぶつけられる。
しかし、風の勢いではない。沖田が木刀の先で、字の書かれた半紙を突き下ろしていた。
「おっと、危ない。またお嬢さんの大事な紙がなくなるところでしたね」
無邪気に微笑む沖田が恐ろしい。手渡された紙のど真ん中に綺麗な穴が開いていた。まだ間者だと疑われているのか……。更紗は生きた心地がしなかったが。
「総司、そのくらいにしておきなさい。市村殿の邪魔はするんじゃないよ」
「酷いなぁ、源さん。私は言われた通りにしているだけですよ。それより、皆で分けられそうな、良いお魚ありましたか?」
ひらりと式台に上がった沖田は、ぺたぺたと素足で廊下を歩み、落ちていた半紙を一枚一枚拾い上げていく。
そんな飄々とした様子をチラリと見た更紗は身を起こし、柔らかな光の中から現れた人間をゆっくりと見つめる。
背負う竹籠から黄緑の豆の房を覗かせた月代姿の侍が、重そうな鉄鍋を抱えていた。
「やはり十八名分となると少々、値が張ってな……総司の言う鮎は買えなかったよ」
「この前食べた鮎、美味しかったからもう一回食べたかったんだけどなぁ」
「代わりと言っちゃ何だが、獲れたものが小振りだからと安くしてくれてな。捌くことは出来んが、隊士全員に行き渡る量はある」
ゴン、と音を立てて黒鍋が床に置かれたので、更紗は恐る恐る中を覗き込んだ。全長10センチにも満たない白銀の魚が、鍋の底が見えないくらいに敷き詰められている。
しかしながら、魚独特の生臭い匂いがすぐに漂ってきた。
「お、小魚ですね。でも、本当に小さいなぁ。煮込んだら無くなっちゃいそうだ」
「買い手がつかなかったようでね。どうだい、夕餉に使えそうかい?」
「そうですね。少しメニューを考えてみるので、ひとまず冷蔵庫に……」
腐らせるわけにはいかない。更紗は魚の傷みが気になった。黒鍋から目を逸らすと、背後にある土間へと顔を向けていく。
初めて見るかまどの上には、教科書でしか見たことのない下駄を逆さにしたような丸い木蓋付きの鉄釜が乗っている。
傍には、薪の燃えカスや炭を入れる小さな火消し壺が置いてあった。かまどに火を入れる際に火種を使うようにと説明は受けたのだが。
「あれ? 冷蔵庫って……」
慌てて辺りを凝視すれば、浅い流し台に木のまな板とたらいが置いてある。他には洗い物をした時に使った水桶と大きな水瓶が鎮座しているだけ。
「……そっか。家電ってないんだ……」
暗所をボタン一つで照らしてくれる照明が天井に備え付けられていることはなく。
もちろん流し台に蛇口はついていない。小鉢一つ洗うにも柄杓で水瓶に溜めておいた水をすくい、たらいへ流し込むという一連の作業をして初めて成り立った。
つまり、今のところ生ものを保存する手立てはないようだ。この屯所では氷を作ることもできないので、このままだと大切な食材が無駄になってしまう。
「……どうしよう」
ゴーン、と、この世の終わりを思わせる重苦しい鐘の音が更紗の脳内へと響いた。それは間を空けずして同じ鐘が打ち続けられる。
令和に比べて江戸時代が不便であることは覚悟していた。けれども、電気もガスも水道もない生活を送るとなると、途方に暮れるのだ。
お手上げ状態の頭の中で規則的に鳴り響く重厚な音。二つ、三つと数えてみれば、九つを最後に鐘の音が響くことはなかった。
「一つ聞きたいんですけど……今、鐘が9回鳴ったのは、何か意味が……?」
「昼八つを知らせる時の鐘だ。壬生寺で鳴らされたんだろう」
竹籠を下ろした二本差しの侍が更紗を見やる。彼は井上源三郎と名乗った。近藤勇や土方歳三の兄弟子にあたるそうだ。年長者だが見るからに温厚でとても話しやすい人だった。
「でも、昼八つを知らせるのに、鐘はなぜ9回鳴るんですか? ズレてるのが気になる……」
「最初の鐘の音は捨鐘で数えない。江戸では捨鐘は三つだが、京は一つだ」
定期的に聞こえてきた鐘の音。どうやらこの時代における時計のようだ。
「一刻毎に町中で鐘が鳴るんだよ。そんなことも忘れちゃった?」
口を挟んできた沖田がニヤリと笑う。更紗は曖昧な顔つきで微笑み返す。
「前の鐘が昼九つ。お天道様が一番高い時に九つ鳴るんだよ。皆、昼餉を食べに集まってきたでしょ」
右手の人差し指をスッと持ち上げた沖田の仕草に釣られ、更紗は天井を見上げた。
虫小窓から光の柱が落ちる。斜光は刻一刻と移り変わっていた。宙を漂う無数の埃さえ太陽の力を借りれば、キラキラと美しい煌めきを手にする瞬間があった。
(捨て鐘入れて10回鳴るのは、12時を知らせてたのか。なんとなく時間の感覚が分かったかも)
少し前の出来事を思い返す。鳴りやまない鐘の音に気を取られているうちに、どこからともなく侍たちが土間へと集まってきていた。
各自が空の茶碗を手に取り、味噌汁に残り飯を入れて食べていたが、あの鐘が昼食の合図だったようだ。少しずつ幕末の時の経過が見えてきて、更紗の心が浮き足立つ。
(そういえば……お母さんが、花街では今でも古い時間の数え方が残ってるって言ってたような。一刻が2時間くらいって、お座敷に上がる時に使うって)
一刻ごとに鐘が鳴らされているなら、おおよその時間の把握はできる。もうそれで十分だった。令和の時代を生きていたように時間に追われる生活をする必要はないのだ。
「昨日の今日で、いきなり大所帯の飯炊きをさせて……大変なことを頼んですまないね」
黒鍋を持ち上げた井上が声をかける。更紗が振り返れば、目元を優しく細めて微笑んだ。
「市村殿が女中として勤めてくれるからこそ、我々は稽古に励めるんだ。本当にありがたいと思っているよ」
敵意を向けられることはあっても感謝されるとは思わなかった。ほとんどが間者扱いをしてくる中で、井上の言動は更紗を驚かせた。
とはいえ、期待あってのことだろう。朝も昼も食事のレベルは低かった。
今の自分に出来ること。それは郷に入っては郷に従い、女中の仕事をやり遂げること。
「……あ、水がだいぶ減りましたね。今のうちに注ぎ足そうかな」
水瓶の蓋を開け覗き込んだ沖田がポツリと呟けば、思案を巡らせていた更紗が即座に手を挙げる。
「私、お水汲んできます」
「井戸から汲み上げなきゃならないけど、できるの?」
「はい、さっき教えてもらったので……一人でやってみます」
「そっか、それは頼もしいね。ではお願いします」
更紗は沖田から差し出された手桶を両手で掴んだ。踵を返すと、開け放たれていた土間の戸から光が広がる外の世界へ一歩を踏み出す。
少し傾いたように見える太陽を見れば、その方角が西であると理解できる。さらに時の鐘のおかげで今の時間が14時過ぎであることも推測できる。
冷蔵庫がないなら、生ものはすぐに調理すればいい。不便は悪いことではないのだ。彼らの常識を受け入れ、自分を溶け込ませることこそが、時代を生き抜く手段となる。
(この生活は、令和へ帰るまでの間だけだし。期間限定のサバイバル体験と思えば、意地で乗り越えられる気がする)
嬉しい心地がした。身体中に力がみなぎるような、不思議な感覚に囚われていく。きっと頑張るパワーをくれたのは井上だろう。ありがとうは、相手を認める魔法の言葉だ。
更紗は弾む鼓動を感じていた。井戸へ向かう足取りも軽いものに変わっていく。しかし、井戸端に侍たちがたむろしていることに気づくと、自然と動かしていた足は重くなった。
「あの……初めまして。朝から何度かお見かけしたのに、挨拶できなくてすみません」
言葉をかけたが、たどたどしくなった。更紗は振り返った侍たちに慌ててお辞儀をする。
碧い瞳に映った侍二人ともが腰に立派な刀を二本差していた。そういえば、井上源三郎も二本差しだった。しかし、その眼差しは彼と違って、不躾なまでに冷ややかなもの。
ここで間者だと思われたら元も子もない。更紗はこれ以上、怪しまれないためにも精一杯の笑顔を浮かべた。
「……えっと、私は市村更紗と言い……」
「異人の分際で武士に近づくなど無礼千万。目の色を見ろ、青緑の化け物か」
「近藤の頭がおかしくなったか。こんな素性の知れん女を屯所に囲うとはな」
「気味の悪い女だ……どうせ、ていのいい慰め者にでもなってるんだろう。芹沢先生が戻られたら、真っ先に叩き出されるのが見ものだな」
目の前で吐き捨てられた言葉に硬直する。困惑する更紗を睨みつけた侍は、地面に唾を吐く。自分の扱いを知るには十分な態度だった。
(……見た目は……変えられないからなぁ)
昨夜の経験を踏まえても、特定の人間に好かれていないことは百も承知だ。でも、それがこの容姿あっての話だとすれば、自分の努力で解決できる問題ではない。
手が震えた更紗は、手桶を落とさないように握りしめた。居たたまれず、顔を伏せると、途端にドスンと地面を突くような大きな音が響く。
「おいおい……家里に根岸と、揃いも揃って随分と熱心なこったなぁ」
背後から聞こえる伸びやかな声。振り向くと、槍を携えた長身の美丈夫が意味深な笑みを浮かべている。
「芹沢先生の名を出して、小娘一人に大層な口叩くじゃねぇか。そんなに暇なら、俺の稽古に付き合ってくれよ。骨の二、三本も折れりゃあ、少しは頭も冷めるか?」
侍たちは舌打ちをし、嫌悪感を露わにしたが、槍を持つ男に逆らうことはしなかった。屯所を去る男たちを眺めていた更紗はチラリと横を見る。原田の目は一切笑っていなかった。
「……あの、助けてくれて、ありがとうございました……」
「別に助けたわけじゃねぇよ。俺ァ奴らのやり口が気に入らねぇんだ」
原田は更紗の手から空の手桶を奪うと、勢いよく井戸から水を汲み上げる。
「姉ちゃん、一人でうろつくんじゃねぇぞ。此処は誰が死んでもおかしくねぇんだ。特に芹沢派の奴らには、絶対に近づくな」
「……え、それってどういう意味……?」
「言葉通りの意味さ。あいつら、近々死ぬぜ」
「え……?」
更紗は息を呑んだ。意味を理解する間もなく、恐ろしさがせり上がる。水を満たした手桶を口元に運んだ原田は喉の渇きを潤すと、女に流し目を送った。
「まぁ、天女の望みってんなら、この左之助様が始末してやってもいいぜ」
「……始末って……えぇ……」
「報酬は、俺と一夜を共にするっつうのでどうだ。悪いようにはしねぇぞ」
「原田さん……! 何てこと言うんですか……そんなのしなくていいです!」
「頼りにしてた殿内があんな目に遭っちまったってのに、呑気なもんだよなぁ。おまけに近藤さんの悪口だぜ。総司が聞いたら、またおっかねぇ事になるぞ」
どこか楽しそうな原田の素振りに、更紗は言い知れぬ恐怖で満たされる。屯所にいる誰もが刀を持ち、命を奪える可能性を持つのだ。全身から血の気が引いていく。
命を懸けたサバイバル体験が目の前に広がっていた。




