雨の日の記憶
思えばその日は、朝からツイていなかった。
血溜まりの中に、横たわる人影。
それを呆然と見つめる自分。
両手はぬるりと暗赤色に染まり、拭っても拭っても肌の色が見えることはない。
『助けられなかった』
『お前を庇ったから』
『お前がいなければ』
『お前のせいだ』
(はぁっ…はぁっ…はっ…はっ)
呼吸のリズムが取れない。
心臓から送り出される血液がドクドクと脳内で打ち鳴らされる。
キーンと耳鳴りがして、周囲の音が消える。
意識が遠ざかるような感覚を覚えてーーー、
6月1日(月)
「はっ……はぁ、はぁ…」
スマホのアラームが鳴る前に目が覚め、ゆっくりと身を起こす。
時刻は04:26。
あと2時間は眠れたはずだったが、これから二度寝を決め込むつもりはなかった。
理由は単純、あの悪夢のせいだ。
この夢を見た後は、眠りたくてもどうせ眠れない。
起こってしまった事象は変えられないとわかっているはずなのに、一条の脳はその場面を繰り返し夢に見せるのだ。
まるで、忘れること自体を罪だというかのように。
しっとりと汗ばんだ黒髪をかきあげ、ぼーっと窓の外を眺める。
5月が明けたとはいえ、まだ暗い外では雨が蕭々と降っていた。
雨を見た一条は、なんとも言えない気分の沈みと鈍い頭痛を自覚する。
雨は苦手だ。
嫌な記憶までも引っ張り出されてしまう。
(少し動くか)
重く感じる身体をどうにか起こし、出勤の支度を始めるためにシャワーを浴びに向かった。
2時間ほど早く出勤した一条は、同じ建物内にあるトレーニングルームで軽く汗を流し、再度シャワーを浴びて出勤した。
「あ、おはよ」
フロアにはすでに朝比奈が出勤しており、自分のデスクで書類を捌いていた。
朝比奈が一番乗りなど、まず見ない様子に一条は目を丸くする。
「おはよう。珍しいな、ピッタリ30分前出勤のお前がこんなに早い出勤なんて」
「はは、今日は残業できないからね。なんてったってうちのお姫様のお誕生日なもので」
そう笑った朝比奈の右手の薬指には、シンプルながら光るシルバーが存在感を放っている。
「あぁ、真希ちゃんの誕生日なのか」
朝比奈にはとても大切にしている彼女がいる。
看護師で3歳年下の、童顔で可愛らしい子だ。
一条も当直の荷物を届けにきた彼女に、たまたま一度だけ会ったことがある。
『優…じゃない、朝比奈に渡していただけますか?一条さん』
意志の強そうなクリっとした瞳が印象的な子だった。
朝比奈の印象は腹の中が見えず、見た目に反して食えない奴だが、彼女も可愛らしい見た目に反して一本筋の通った強い子らしい。
どちらかと言えば、朝比奈はブランド好きで大人っぽい、さっぱりとした女性と付き合っているイメージがあったのだが。
真希の溌剌とした雰囲気から、朝比奈は完全に年下の彼女の尻に敷かれているのだろうな、といった印象だった。
「レストランを予約してるんだよね。大変だったよ、予約半年待ちの人気店がいいってリクエスト受けちゃったからさ」
愚痴のようにこぼしながらも、その実は照れ隠しであることは一条もよく知っている。
この実利主義の男がリターンなどを考えることなく尽くすくらいなのだから、相当大切にしているのだろう。
対して、自分にはそういう存在がいない。
だからこそ、少し羨ましくもある。
「今日は早く帰っていいぞ。どうせ予備待機組だからな」
自分のノートパソコンを起動し、目線を外さないまま斜め前の席の朝日奈に声をかける。
今日の巡回担当は2班だ。
事件が3件以上起きなければ、1班までは回ってこないはず。
そんなことを考えながら伝えたのだが、朝比奈からの反応がない。
ふと顔を上げると、形容し難い表情で朝比奈がこちらを向いたまま固まっていた。
「…なんだ」
「イチ。お前、……本当いい奴だよな」
「気持ち悪いな」
心底意味がわからない、といったような顔の一条に、朝日奈は笑った。
「ありがと、事件を起こす鬼がいないことを願うよ」




