9.凶兆
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人間を信用できなくなったのはいつだっただろう。
明確な何かがあったわけじゃないと思う。大きな転換期のようなものすら、俺の前世にはなかったように思う。
何でも知っているものだと思っていた大人が、疑問を解消してくれなかった時だろうか。いじめられている時に、誰も助けてくれなかった時だろうか。生涯無償の愛情を与えてくれると思っていた親が離婚した時だろうか。尽くしてきた人たちが簡単に離れていく時だろうか。それとも、なんでもできると思っていたのに、何も成し遂げられなかった時だろうか。
思えば、肯定される事のない人生だった。自己肯定感なんてどうやれば育てられるのかわからないまま、無力感と絶望感だけが積もっていく。
そりゃあ、生まれ変われたって何も変われはしないわけだ。
だから、他人を信用できる人間の気持ちはまるでわからない。理屈を教えてもらったとしても、一切合切理解ができない。
アテナは、俺にされた事を家族に話さなかった。何の意味もない、やりすぎな暴力であったにも関わらずだ。
なんとなく、そうしてくれるような気はしていた。
出会ってから、もうかれこれ半年になろうとしている。その半年にも満たない時間の中でも、俺はアテナ・グラウコーピスという人間をそれなりに理解した。
根っからの善人で、平和を好み、目標のために努力を惜しまず、ひたむきな姿勢が誰からも好かれる少女。
心のどこかでそんな少女が、俺の行為を秘していてくれるんじゃないか。そんな予感はあった。
だからそうなった事に驚きはしなかったが、妙な悔しさを感じている。もしかすると、俺はこいつを信用してしまっていたんじゃないか、と。
俺の一生分の人間不信に、塵一つ分の傷をつけられた。それ自体が悔しいわけではなく、ポジティブな感情を芽生えさせられた事が、少し悔しい。
そんな事を考えていると、アテナの拳が俺の顔面に当たり、口の中に血が滲んだ。
直前まで防御体制をとろうとしていたが、それをフェイントにした見事な一撃だ。
戦闘中に気を抜くなんて、アーサーに知られたら殺されそうだな。
少し恐怖する俺を余所に、アテナはぽかんとした顔をしたかと思えば、信じられないという顔をしているラフテノやピエールと顔を見合わせた。
「見た? お兄ちゃん、ラフくん、今の見た?」
二人は呆然としたまま頷く。アテナもまた、信じられないのか呆けた顔をしている。
が、時間と共に嬉しそうに顔をニヤけさせて、終いには笑顔満面であちこち飛び回り始めた。
「一本とった! あはは、ケイから一本とった! あはははは!」
あまりにも嬉しそうにするアテナ。
それはそうだろう、あの日からたった三日で、アテナはフェイントや虚を突くのが嘘みたいに上手くなっていた。
ピエールどころか、ラフテノと組手をさせてもアテナの方が強いと確信できるほどには、アテナは強くなった。
「ねえ、ねえ! ケイ、今の一本だよね? あはは」
俺の周りでぴょんぴょん飛び回るアテナ。
「……そうだな、強くなった」
俺がそう言うと、なぜかアテナは再びぽかんとした顔に戻った。変な事を言ったつもりはないんだが。
「今、ケイ、笑った?」
「は? なんで殴られて笑わなくちゃいけないんだよ」
俺はそんなマゾくない。
アテナはさっきと同じように二人の顔を見るが、二人はさっきよりも呆けた顔をしている。
「ケイ、今の、もう一回」
「何をだよ」
「笑顔! もう一回見せて!」
「笑ってねえっつってんだろ。いいからさっさと続けるぞ」
それがきっかけというわけじゃない――と思いたい――が、俺はその日から夜になるとアテナを呼び出す事にした。
やる事は、勉強だ。
心もとないランプの明かりを頼りに、質素な木板と炭で数字の学ばせる事から始めた。
とは言っても、学生以来一切使う事のなかった分野で、分数の計算すら怪しい。だからとにかく四則演算の基本と、多数桁の計算を徹底的にやらせた。
たまたまではあるが、この国の文字を読み書きできているのが役立った。
「これには何の意味があるの?」
「ない。少なくとも俺は使わなかった」
スマホなんて便利なものがあったものだから、暗算すら放り投げていた。
「でも、やらなくちゃいけないの?」
「やれ。意味も意義も目的もわからなくても、やれ」
同時並行して、戦争において重要だと思われるものを、俺がわかる限り教えた。
それを教えるのは組手中に口頭という形にした。
「前にも言ったけど、戦争では足が重要になる。けどそれより重要なのは、足を維持するための兵站、つまり食料だ。この国の食料事情は知らないけど、それを覚えておけば応用しやすい。繰り返せ」
口頭で伝えながらも、俺が三人の攻撃を受ける事は一切なかった。
「戦争は足が大事で、それを維持するための……あいてっ」
しかし、俺が繰り返すように指示した三人は、こんな感じで喋っている途中隙だらけになる。
非難轟々な訓練だったが、俺はさらに内容を濃くしてやった。
組手の前に予め用意した木の枝を適当な数地面に突き刺し、それを告知せずに数えさせる。それだけだとすぐに慣れてしまうので、なんでもない景色がいつもと違うところを見つけると、組手中にそれを探させたりした。
なんだっていい。使う事のない技術や知識だったとしても、俺の知っている事を全部教えてやった。
そんな事をしているうちに、季節はあっという間に夏になろうとしていた。
その頃になると、ピエールは事ある毎に俺を頼り、アテナは以前にも増して俺にべったりになった。ソアラも負けじとべたべたしてくるので、以前よりも煩わしくなった。
代わりに、俺にべったりな二人を見ても、苦笑いするくらいになったのがラフテノだ。それになぜか俺をアニキ呼びするようになったし、二人に負けず劣らず俺に付きまとってくるようになった。
グラウコーピスに仕事をしに来ている連中もそれを名物だと囃し立て、三人の暴挙を止める抑止力は完全になくなってしまった。なんせ夜だろうと寝る場所が違おうと遊びに来るのだから、最早この集落の公認だ。
その煩わしさとやる事の多さ以外は、ようやく今の生活に馴染めた気がした。
そんなある日の事だった。
元気のない馬、質素な馬車。俺たちが使っている馬車の方が上等な、貧相過ぎる馬車が集落へやってきた。
しかし、御者に座っているのはきちんと設えられた外向きの服装に身を包み、綺麗な金髪を緩く結った質素さに似つかわしくない女だった。
御者の女はグラウコーピス家の側に馬を止めると、馬車の中にいる人間が降り立つエスコートまでしてみせた。
相変わらずに黒と白が基調になった見た目をしており、そよ風で黒髪がするすると靡いた。
「久しぶりだな、ボロ雑巾」
平穏な生活にヒビが入る音がした。




