4.惰性と決意
4
雪が溶けると美しい自然が広がる。萌え始める草木を陽気な春風が揺らし、温かい日差しが包み込む。
なんてのは妄想だ。
前世でも雪国育ちだった俺はある程度覚悟はしていたが、原生林すらすぐそばにあるこの土地を舐めていた。ヌチヌチとぬかるんだ放牧地は、重りから開放された雑草がそれらを隠してどこもかしこも沼と言える有り様だ。
この時期の仕事は雪によって歪められた用水路の整備が九割を占めており、また足場の悪さから他の街へ繰り出す事すらできない。
そんな状況でも、アテナは弱音を吐いてランニングをサボる事はしなかった。どころか、最初のように辛そうにする事がなくなり、俺がイメージトレーニングをしている間は筋トレをする余裕すら生まれたようだった。
元々山育ちで走り回ったり家業を手伝ったりしていたから、下地としては上等なものがあったんだと思う。
それから、食糧事情もスラムに比べて圧倒的に質がいい。豆や穀物に始まり、羊や牛のミルク、税から逃れたジビエまである。前世の経験を持った俺からするとクオリティは最悪だが、栄養は豊富なわけだ。
飢餓と悪食を極めた俺の体が目に見えて大きくなるほど、グラウコーピス家は裕福であると言える。
そんな上出来な環境で真面目にランニングを続ければ、短期間で体力が向上するのも納得できた。
「そろそろいいでしょ?」
もうすぐ雪解け水も落ち着いたので、そろそろ街へ買い出しに行く話題が出た次の朝の事だった。アテナは真面目くさった顔で切り出した。
「何が」
アテナはわざわざ俺の目の前まで歩いてやってきて、汗だくの顔に不機嫌さを少し滲ませていた。
「戦い方を教えて」
アテナにしては硬い意思表示だ。いつもふにゃふにゃと笑っているクソガキが、まるで受験面接にでも来たみたいな雰囲気をしている。
俺はこれ見よがしにため息をついた。だらだらとした日常が愛おしすぎて、忘れようとしていたのに。
ここ最近は徒手格闘について教えていなかった。というのも、まずは体作りと適当を言って棚上げしていたからだ。
適当な訓練をさせていたつもりはないが、少なくとも体力錬成は最低ラインを超えてきた。ランニングや筋トレだけじゃない。まだ体が小さいくせに、家業での力仕事を皆から奪ってまでやっていた。
ふにゃふにゃと笑ってはいても、俺とのランニングを始めてからそうしていたのは気づいていた。最近は女としての発育もそれなりに進んできているのに、盛り上がる脂肪と筋肉が共存し始めている。
女に関してにわか知識しかない俺でも、それがどれだけ凄まじい事なのかは理解できる。中学時代、陸上中体連の全国大会にまで行った短距離の女子がいたが、そいつと似たような体格に見える。環境にも恵まれているし、ジャックの遺伝子も優れているからわからなくはないんだが。
「お前、俺との訓練と家業以外にも何かやってた?」
「ううん。ケイに言われた事やってただけだよ」
「……何考えてやってた?」
「何って、ケイが言ったんじゃん。体の使い方考えろって。こう、全部つながってるんだーって」
なるほど、なるほど……それを愚直に実行した結果、最高に近い効率で体を作れたわけか。
もしかすると、俺が思っているよりも遥かに、こいつは必死で本気なのかもしれない。
出てきたがっている本音を飲み込むのに苦労したせいで、口の中で気持ち悪いため息が漏れた。
体作りや格闘ごっこ以上の事を教えるのなら、俺の悪い癖が割り込んでくる。それその事も面倒なんだが、それ以上に面倒なのがその前段階だ。
ジャックとイザベルの説得だ。アテナが本気である事、血なまぐさい戦争について学ばせる事、それからその戦争のための訓練を行う事。黙ってやったっていいが、いつかどこかで必ず気づかれる。現に、格闘ごっこはもちろん、気づかれにくい早朝にトレーニングしている事も、すでにグラウコーピス家では周知の事実になっている。
それすら誤魔化して全てをやりきってしまう事もできるだろう。が、誰よりも俺がそれに納得できない。
幼い子どもが、両親の意に反する世界に踏み込むとか、そんな綺麗事の話じゃないのが、我ながら最悪の悪癖だ。信念とか信条とか、良く言い換える事もできるが……まあ、その事についてはいい。
いや、ちょっと整理しよう。子どもが、それも女が戦争に行く事への問題を、ジャックとイザベルは当然知っているだろう。ウビンインチでも、二人はアテナの戦争行きを反対していた。特にイザベルは、意識的にその話を避けているように思う。
その意思を汲んでいるというわけではないが、俺も、本質的な事をあまり教えてこなかった。格闘でフェイントを使うように言ったのもあくまでコツの話だし、トレーニングで行軍の話をしたのもちょっと頭を使えばすぐにわかる事だ。
俺とグラウコーピス家の、アテナに対する扱いは偶然にも一致している。俺は面倒だから、グラウコーピス家は心配だからという違いはあれど、アテナを戦争から遠ざけるという意識は同じだ。
なら、形だけでも説得してやってもいいんじゃないか。いや、念には念を入れてアテナの話を反対するような裏取引すらするべきだ。
方針が決まった。
「ジャックとイザベルは、お前が戦争なんかに行くの反対してるだろ」
「……うん」
「じゃあ、だめだ」
「説得できたら、いいの?」
「できたらな」
「ホントに?」
「ああ」
「絶対?」
「はいはい」
「約束だよ!」
「ああはいはい」
今日の夜にでもジャックかイザベルと密談してアテナの話に反対するように誘導するか。と、思っていたが、アテナの本気加減は想像以上だった。
その日の夜、全員が食事を終えた後、アテナは俺が根回しするよりも早く行動した。
「お父さん、お母さん、お話があるの」
「だめだ」
アテナが切り出したのと同時にバッサリと否定したのは、ジャックだった。
ジャックのアテナに対する愛情は、感情に鈍感な俺ですらわかりやすい。アテナのわがままを断っているのを見た事がないし、アテナと喋る時は髭面を貫通するほどだらしない笑顔になる。
ジャックとアテナがこの事について触れるのは、ウビンインチの時以来だ。つまり、この事に関しては、ジャックはわがままとすら思っていないのだろう。
「お父さん、聞いて。ケイがね、お父さんとお母さんを説得できたら、今よりももっと色々教えてくれるんだって」
アテナの言葉に、ジャックはまるで宿敵でも見るような目で俺を睨みつけてきた。
「ケイ、俺はな、恩のあるお前がとても悪い人間には見えなかったから、助けてやろうと思っていたんだ。お前を拾ったのは間違いだったのか?」
「……誤解だ。アテナが家族に大事にされてるのを知ってるから、家族の事は家族に任せるって意味で言ったんだよ。ですよ」
「今でもアテナに色々と教えているのは?」
「喧嘩ごっこと体力をつけるためだけのもんだよ。自衛の範囲で。最近はそのための体力が出来てきたからちょっと認めてやっただけだよ。俺が言っても言う事きくような女じゃないだろ」
面倒だ。根回しの重要さを俺は知っていたはずなんだから、こうなる前にジャックやイザベルに話を通しておくべきだった。
ジャックはしばらく厳しい顔つきで俺を睨んでいたが、天井を見上げてやがてため息を吐き出した。
「戦争なんぞに行くのは認めん」
「でも、お父さん」
「魔法を授かっていようと、お前が男で生まれていようと、戦争なんぞに関わるのを見過ごすわけにはいかん」
ぐっと俯くアテナには悪いが、ここはジャックの援護をして胡麻をするとしよう。
「お前が戦争に行ってもすぐに死ぬだけだ。頼りになる父親に守られて、裕福な暮らしをしてるのに何が不満なんだ」
アテナは何も答えず、俯き続ける。
ジャックやイザベル、他の兄弟も口を開かない。
流れに揺蕩っているだけでのらりくらりと過ごせるのだから、当然俺もそれ以上の声を上げる事もない。
しばらくしてジャックが大きなため息をつくのと同時に、アテナが小さく呟いた。
「ケイは、どうして戦っているの」
「は?」
突然湧いたかのようなアテナの疑問に、俺は間抜けな声を漏らした。
「最近ずっと、朝は一緒にいたからわかるよ。ケイのあれは、練習とかじゃなくて、戦っていたよね。わかるよ。まるでケイの倍も、その倍も動きの速い人と戦っているみたいだった」
朝というと、アーサーとの実戦を想定したシャドーの事か。
「ケイは、その人と戦うつもりなんでしょ」
確かに、俺はいつかあいつを殺すつもりでいる。それだけの事をされてきたのだから。
そこで、アテナは顔を上げた。
一言で言えば無表情だった。日常はもちろん、訓練をしている時ですら幼さが残っているアテナの表情から、そういった人間味がごっそりと削げ落とされている。
視界の端で、イザベルが息を飲んだのが見えた。
「でもケイは、ウルターさんにも戦争に行くなって言ってたよね。ウルターさんを説得しているところ、たまに見てたよ」
「……それがどうした」
「ウルターさんは、憧れてたコレットも殺されちゃって、お父さんもお母さんもいなくなった。それがどうしても許せなくて、戦争に行こうって思ったんだよ。でもケイは違うよね。今みたいな生活が好きなんだよね。毎日毎日同じことをして、なんでもない日常を過ごすのがいいんだよね」
「……回りくどい。鬱陶しいな」
「私ね、コレットをなんでもないみたいに殺したあの人との話、聞こえてたんだ。ケイが話してるところ」
瞬間、アーサーとの会話が脳裏を過ぎる。
「あの人は、ケイのことを『どうでもいい』って言ってた。ケイはあの人を怖がってたけど、あの人はケイのことは『どうでもいい』んだよ」
アテナの顔からは何も読み取れない。
「どうしてまだ戦ってるの?」
それは、興味や好奇心からくる疑問ではなかった。確信からくる確認のような、そんな問いかけだった。
俺が答えられずにいると、アテナはジャックに向き直った。
「お父さん。私ね、幸せなんだ。朝起きてフィデリスとカピトスと散歩して、鶏小屋の掃除して、ご飯食べてみんなで笑って、羊の糸を撚って服を作ったりして、毎日毎日幸せだよ。お父さんも、お母さんも、ジャクマンもジャンもピエールも、ケイだって大好き。みんな好き」
「それなら! ……ならなおさら、だろう」
ジャックは悲鳴のような声を上げたが、次の瞬間には震えた声に変わった。
が、アテナは首を横に振った。
「だからだよ。きっとね、これからもっともっと戦争が激しくなると思うの。今、できる事をしないとだめなんだ」
「……お前にできることなどない」
「そうかも。でも、そうじゃないかも」
アテナは笑ったが、感情を感じさせない笑い方だった。
「……今でも、たまに背中が痛くなっちゃうんだ。そのたびに、他人事にできなくなるの。戦争のことを考えるたびにね、神さまに急かされてるみたいに、ずきずき痛くなっちゃう」
「アテナお前、まだ……」
「お父さん、ごめんね。言うこときかない子でごめんなさい。でもね、きっと、いつか私は戦うんだと思う」




