3.冬の狩り
3
無我の境地とは。
達人が踏み入る事のできる領域とされ、我を忘れるほどに集中している状態を指す。砕けた言い方をすると、ゾーンに入るってやつだ。どの宗教の話かはわからないが、悟りすぎて欲や執着がなくなった状態とも言われていたっけ。
まあ、こんな事を考えているってことは、そんなところに辿り着いているはずもないって事だ。
弦を弾いた瞬間、破裂音と同時に矢が吹き飛んでいく。音速を有に超える速度で直進する矢は、群れで休んでいる鹿へ向かって吸い込まれるように命中した。
が、こちら側にとっては当たりどころが悪かったようで、鹿の群れは一斉に逃げ出し始めた。矢が命中した鹿も、矢が刺さっている事なんてお構いなしに逃走している。
「何事もなかったように走りやがる」
「ヘンなの。何かあったから逃げてるのに、何事もなかったみたいなのって、ヘンなの」
「言葉が出来損ないだから起きる現象とも言えるし、人間が出来損ないだから言葉を完全にできていないとも言える」
「追うぞ」
俺の舌打ちにアテナが首を傾げ、それに対してしたり顔で返した俺。そのどちらも無視して荷物を抱え直すピエール。
フィデリスとカピトスのおかげで二日目には鹿の痕跡を発見し、それからそう時間が経たないうちに狩りを開始できた。
が、結果はこの有り様だ。当たりどころが良ければ一撃で仕留められたんだが、頭から少し外れて首元に命中していた。今日は倍の距離から射ったのも一因ではある。まあもっとも、こんな事はよくある事なので気にする狩人はいないだろうが。
……目を射抜けるはずだったんだけどなあ。
思った以上に弓の反発が強く、矢を射る時のブレを制しきれない。このサイズの強弓ともなるとそれはほぼ不可能、とはピエールの言だが、俺には自信があった。
「悔しそうだな」
鹿を追うフィデリスとカピトス。二匹を追う道中、ピエールが俺を見もせずに呟いた。こいつが雑談をふっかけてくるなんて珍しい。
「別に」
「俺は安心した」
「は?」
「お前は感情が希薄だ。そのくせどこで学んだんだか知識もある。身体能力も化け物じみている。できない事があって、悔しさを隠しきれていないのが、ジャンと同じだ。あまり話さないからわからないが、ジャンと同じで後ろ向きな奴なのかもな」
「俺が、ジャンと?」
「ケイ、すっごい顔、してる」
息切れ気味のアテナに言われずとも、自分がどんな顔をしているのか想像がついた。
望まない身体を手に入れたからというわけではなく、前世から悩まない事には自信がある。食事や風呂の時間が無駄だと思うくらいには自分の時間が好きなので、悩んで時間を取られるなんて以ての外だ。まあ、たまにミスした時や軽いトラウマを思い出してしまって鬱になる事はあるが、それだってなかったかのように言い聞かせる事はできる。
それを、よりにもよって自分のミスをうじうじと責める奴と同じだとは。
「非常に遺憾である」
「お貴族様みたい。そういえば、ケイはなんでっ、お貴族様みたいな言葉を知ってるの?」
言われて、久々にオッサンの顔を思い出した。元はどこかの貴族に仕えていたらしいが、クビになってスラム落ちしたオッサンだ。食料を恵んでやると色々と教えてくれるオッサンだったが、名前を聞いた事はない。
「黙って走れ」
俺はピシャリと吐き捨てて、それ以上の会話を拒否した。
アテナはむくれた顔をしているが、知ったこっちゃない。
不可能を可能にしないと、苦しんで死ぬかもしれなかった時間があった。そのためには目についたものを手当たり次第可能にしなくちゃいけなかった。
言っても理解できないだろうし、例のクソ野郎を思い出してイラつく時間も無駄だ。
しばらく無言で鹿を追いかけ回す時間が続いた。鹿が作った獣道で雪が均されているため、追いかけるのが幾分楽になるかと思ったが、むしろその逆だった。
あいつらに崖や悪路といったものは関係がなく、天然の落とし穴に引っかかっても平気で乗り越えやがる。こちとら人間様だけじゃなく二匹の安全も考えなくちゃいけないから、見せつけるようにバッタバッタと跳ね回られる度に経路を考え直さなくてはいけなかった。
そうこうしているうちに矢の刺さった鹿の体力が尽きたのか、一匹だけ動きが緩慢になった。この機を逃すまいと外さない距離まで近づき、仕留めた頃には日が暮れかけていた。
ジャンに血抜きを任せている間、俺とアテナは急いで簡単なかまくらを造設していった。走って多少体が温まっていたとはいえ、二つのかまくらが完成する頃には手の感覚がなくなっていた。
一つは俺達の寝床になる、背は低いが三人がギリギリ横になれる広さのかまくら。一つは火を起こして暖をとるためのかまくら……というよりも釜と言った方がいいか。空気穴を作って火の起こりが良くなるようなやつだ。
用意してきた薪――薪を運んだのは俺だ――で火を起こして、溶かした雪に野草と干し肉をぶち込んだ汁で食事をとった。
まだほんの少し日が残っているうちに、俺とアテナと、それからフィデリスで仮眠をとる事になった。
「ねえ、ケイ」
いつのまにか敬称すらなくなっている。というか敬語ですらなくなっている。
特に気にしているわけじゃないが、嫌な気分でもない。過去日本人として生きて、未だに日本文化が染み付いているのに、不思議な話だ。
「私ね、やっぱり戦争に行かなくちゃって思うの」
「そうか」
「どうしてか聞かないの?」
「……俺がお前んところに世話になりだして、もうすぐ季節が変わる」
全く関係のない話を始めたつもりだが、アテナが黙って頷いている気配を感じた。
「でだ、ジャックは無口だけど世話焼きのお人好しで、イザベルはうるさいお人好しだ。イザベルの方は、ジャックよりも用心深いけどな」
イザベルの場合は、しばらくの時間を過ごすまではそれがわからなかった。口調がそう感じさせるのかもしれないが、ごく普通の用心深さだ。ある程度の信頼ができれば、それもほとんど感じない。
「それがお前ら兄弟にも受け継がれてるってのはよくわかった」
「ふふん」
アテナは得意げにクスクスと笑うが、
「言っとくけど、このご時世じゃそんなもん短所だ」
と続けるとまた黙った。
「言ったろ、敵は騙し欺いて殺しにくる。寝てる時飯を食ってる時クソをしてる時、お前がどんな時に俺を殺そうとしてきても、俺は返り討ちにできる。お前が俺を陥れようとしないからな」
「……まだ、私たちが信用できない?」
「誰も信用してないだけだ」
「ケイの世界は、さみしいよ」
「人間の中で生き抜くってのはそんなもんだろ」
「いやだなあ、そんなの」
「戦争ってのは、そんなもんなんだよ」
俺言葉に、アテナは黙り込んだ。だから俺も続けはしなかった。
わかっているのか、わかろうとしていないのか。このご時世じゃなくても、世の中そんなもんだった俺が言うんだから、間違いはないんだけどな。
翌日、熊や狼に襲われるといったアクシデントもなく、凍りついた鹿をソリで引っ張って帰路についた。ソリを引くのはもちろん俺だ。別にいいんだけど、俺を重機かなんかだと思っているんだろうか。
二日も通して鹿を追っていたが、帰るだけとなると早いと感じてしまう。なんせ日が沈みきらない時間には家に着き、鹿の解体まで始めている。俺だけなら絶対に遭難する自信しかないんだが、土地勘ってのは凄まじい。
その時のアテナの様子はまるで変わらないから、油断していたというか関心がなかったというか、気にしていなかったから次の朝は驚かされた。
夜明けに起きて訓練に向かおうと準備していると、すでに防寒着を着込んだアテナが待っていたからだ。
「何してんだ」
「いつもどこかに行って汗だくで帰ってきてるでしょ? 私も訓練してもらおうと思って」
「……邪魔なんだけど」
アテナと遊んでいる時と違い、イメージトレーニングと銘打った本気の訓練だ。小娘一人に構う余裕はない。
「強くなりたいの」
こっちを真っ直ぐに見つめてくるアテナの目に、どんな感情があるのかわからない。焦っているにしては冷静だし、落ち着いているにしては必死さがある。
今さら遊びじゃないとか死ぬかもしれないとか、そんな忠告をする気にはならなかった。こいつも、家族に言われて納得できないほど馬鹿じゃないし、俺もこいつがどこか達観しているのはわかっている。
もはや言いくるめて煙に巻くのも面倒くさい。というかもうしつこく迫られるのが面倒くさい。チャンバラごっこ程度で誤魔化されてくれたら楽だったのに。
アテナへの返答をうっちゃって、いつもの日課をこなす事にした。犬たちが水を補給している間、俺はいつもの柔軟を始めた。
筋肉量だけで言えば、俺の筋肉量はジャクマンよりも少ない。が、力比べではボディビルダー顔負けのジャックにも負けない。
何故か。
尋常では生き残れなかった俺は、自分の身体を完全に支配しなくてはいけなかった。
雑に言うと柔軟体操と筋トレである。自分の体をイメージ通りに動かすと言うと簡単に聞こえるが、これが何より難しい。雀の涙ほどの筋肉を完璧にコントロールしなければその日の飯にありつけないし、イメージ通りに動かすための基礎である柔軟を怠ればそもそも死んでいた。
ので、俺の隣で物真似を始めたアテナを見ていると、次第に引っ叩きたくなってくる。
「もっと筋肉の動きを意識しろ」
「え?」
「腕を伸ばすにしても足を伸ばすにしても、動くのは腕や足だけじゃない。首、肩、背中、腰、足のつま先まで、体は連動してんだよ」
微妙な顔をするアテナの体をあちこち引っ張って軽く教えるが、一朝一夕で身につく感覚じゃない。早めに切り上げてランニングに移行した。
ランニングと一口に言っても、俺はいつも人間よりも脚力のある犬と同じ速度で走っている。というか、懐かれるのが早かった理由の一つに、犬たちよりも足が早くスタミナもあったおかげだと思っている。
当然、脚力のないアテナがそれについてこれるはずもなく、五分もしないうちに距離が離れていった。その度にアテナを気遣った二匹がアテナに駆け寄り、早く遊ぼうとアテナをせっついた。
いつもの広間へ辿り着くと、アテナは話す事もできない様子で雪に倒れ込んだ。十キロじゃ利かない距離を一時間弱も走り続けたから、慣れないうちは無理もないが。
「俺の知ってる戦争じゃ、兵にとって一番大事な事って戦闘技術や指揮能力じゃねえんだよな」
横たわるアテナを尻目に、犬たちへ干し肉を与えながら言った。
「十中の一に雑多な技術があって、九は体力だ。体力がない奴から死んでく。腕がもげても腹に風穴が空いても、足があれば撤退できる。足のなくなった奴の事はまあ、言わなくてもわかるよな」
「……うん。私の魔法は体力まで治せないから」
「……そういやお前魔法あったな。そういう意味じゃ、お前は優秀な兵士になれそうだな。足を怪我した奴を治してケツを蹴飛ばせば、負傷兵も戦えるだろうし」
二匹が干し肉を食べ終えるのを見てから、俺はいつものアイツを目の前に召喚する。
「今の倍の倍のその倍の距離を、俺以上の重さがある荷物担いで歩いて休みもないまま戦闘が始まる。ちなみに泥にまみれた腐りかけの糧食も貴重になるから、俺が指揮官なら今そうやってへばってる奴に糧食を渡したくもないな」
言って、アーサーとの妄想戦を始めた。
アテナは悔しそうに俯いたが、戦争なんてそんなもんだ。
今の体なら前世のレンジャー訓練すら余裕でクリアできる自信がある。できなければ苦しんで死ぬ状況で、死にものぐるいでできるようにしなければならなかった幼少期のせいで、要領が良くなってしまった。勉強もその要領でやれば、多分できてしまうだろう。
改めて人間離れさせられたな……そう思うと腸が煮えたぎってきた。怒りに任せて妄想のアーサーと戦うと簡単に負けた。
人生を滅茶苦茶にされたのか、それとも元々滅茶苦茶だったのかはわからない。ただ数いる殺したいほど憎い人間の頂点にアイツが君臨している。つまり、
「……何と戦ってるの?」
「敵」
敬語、敬称のある言語は日本語以外にも当然あります。
それから、作中でレンジャーになれるとケイが言っていましたが、あくまで身体能力での話です。
勉強が嫌いなので途中で挫折するでしょう。




