1.日常
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日の出前、庭先で鶏が騒ぎ出す前に起床。音もなく外へ出て、家畜たちに与える準備を済ませる。それから飼い犬のフィデリスとカピトスを小屋から放つ。犬たちは家畜を見張るために牧場の方へ走るのではなく、森の方へ向かう俺についてくる。
最初は訓練のために俺一人で山を走り回っていたが、二匹の犬はいつの間にか俺に懐き、いつの間にか良い散歩とばかりについて回るようになった。
最初の頃は、雪に邪魔されないよう木から木へ猿のように移動していたのだが、犬たちの安全のために踏み均した道は、今や人が三人並べるようになっている。ついでに、俺が動き回って運動しているせいで、森の中にも大きな広場が出来上がってしまった。
広場の端に作った雑な切り株に座ると、二匹は目を輝かせておすわりをしてくる。毎朝のおやつとして干し肉を与えているのを、二匹は完璧に理解している。
が、まずは俺からだ。縦社会が本能に刻まれている犬に、前世から持ってきたにわか知識を実践しているだけだが、二匹は健気に従ってくれている。
干し肉を二切れ胃に押し込む作業が、俺は嫌いだ。少し前の環境からすると塩味のする肉なんて贅沢品だが、前世からすると生ゴミにしか感じられない。フィデリスとカピトスにも一切れずつの干し肉を与え、体を軽くほぐす。
腕立て懸垂スクワットの基本的な筋トレを済まし、頭の中にトラウマを――アーサーとか言われていたな――を思い描く。強烈な死の恐怖として刻まれている記憶だからか、何の苦も無くはっきりと形にできてしまう。
誇張なく俺の妄想でしかないはずだが、その妄想に勝てたのは指で数えるほどしかない。出来上がってきた身体も、模索し組み上げ編み出してきた戦略も、成長すればするほど実力の差を感じるスパイスにしかならない。
敗北感やら無力感やらで苛立ち始めた頃、犬たちが俺の周りで吠え始める。見上げた太陽はすでに地表から離れたところにいる。
「わかったわかった……帰るって」
俺が二匹の毛深い背中を撫でてやると、二匹は俺を急かすように走り出す。シベリアンハスキーに似た後ろ姿は雪景色に映えるな、なんて思いながら二匹を追いかけた。
「おはよう、ケイ」
家へ帰るとジャックが家畜に餌を与えているところだった。冬になって畜舎に移った牛や羊には秋までに貯めた牧草を、鶏には麦の種ガラや野菜くずを。
「おはようございます」
俺が挨拶を返すと、ジャックは無言で俺に掃除用のホウキやスコップを渡してくる。俺も慣れたようにそれを受け取り、擦り切れた干し草と一緒に糞を掃き出していく。
「おはよう、おっはよう!」
次に起き出してきたのはグラウコーピス家長男のジャクマンだ。朗らかな挨拶を響かせ、馴れ馴れしく俺に肩組みしてきた。
「掃除はほとんど終わってるな。じゃあ俺は、干し草でも敷こうかな、いつも通りにね!」
ジャクマンは俺に肩組みしたままゆさゆさと体を揺らす。父親譲りの体格をしているため、力もそれなりに強い。無駄に力強いジャクマンのコミュシケーションは、過ぎ去るのを待つしかない。毎朝の事なので慣れてしまったが、鬱陶しいと思うのは移住直後から変わらない。
いつもニコニコとしていて、常にペラペラと喋るくせにネガティブな事を言わず、仕事に真面目で面倒見がいい。酒が入るとますます陽気になって、相槌を打つ間がなくなるほど手が付けられない。俺の苦手なタイプだ。
いっそこいつが、ウルターと知り合っていれば百年来の親友になれたものを。惜しい事をしたよ、ウルター。
「ほらほらお前たち、新しい寝床だぞ」
俺から離れたかと思えば、今度は家畜たちに明るくぶつぶつと語りかけ始める。
ジャクマンのその奇行を、次男のピエールと話題にした時、明るくぶつぶつってなんだと突っ込まれた事がある。違和感があるのかピンと来ていないようだったが、間違っちゃいないのかジワジワと笑われた。
ジャクマンが解放してくれたので、俺も掃除を再開する。
グラウコーピス家に来たばかりの頃、朝の掃除は俺の仕事だった。正確にはやる気ありますのポーズが欲しかったから、毎日の作業でわかりやすかったのが掃除だったってだけだが。
この家に来て翌朝から始めたわけではなく、来た日に案内された場所で掃除が必要そうな場所を勝手にピックアップしていたから、来てすぐにやり始めたとも言える。
俺には会話スキルがなかったから、前世で生きていくための金欲しさに文字通り死ぬほど押し付けられた処世術だ。
とは言え、一言に掃除と言うが、これがまた重労働になる。前世のような文明の利器がないため農具や生活用具の軽量化とは縁遠く、イザベルなんかは豪胆な性格に対して力はそれほどではないから、家の中で掃き掃除をする時ですら汗をかくほどだ。
家畜は牛十数頭と羊が数十匹、鶏に至っては百を超えている。牛や羊の糞については十日に一度は広い牧場を走り回って回収しなくてはいけない。鶏で数を稼いでいるとは言え総数二百以上にもなるし、鶏は基本的に大きな鶏小屋に隔離されているため糞の重量がとんでもない事になる。その上、鶏に関しては数が多いため毎日の仕事だ。イザベルにはできまい。
放牧地の糞の回収については犬たちの散歩のついでにやるため今朝は既に済んでいるが、今いる羊小屋の掃除が終わると今度はその糞を焼き切る作業が待っている。
問題はクソそのものが焼ける臭いが半端じゃない事だ。専用の焼き場へ近寄っただけで吐き気がするのに、この糞を焼いている間は言葉で言い表せないほどの臭いが爆発する。スラムの悪臭を肩で切って歩いていた俺をして、最初の頃は何度も吐かされるほどの強烈なヤツだ。
これがジャックと長男ジャクマン、次男ピエール、そして俺の男手を集結させての大仕事になる。
三男のジャンについては、大人と言える男衆が可愛い弟に苦労をかけさせるわけにはいかぬと参加させていない。もっとも、ジャン本人は自分も役に立ちたいと何度も希望している。糞焼きの日の夜は、断られて落ち込むジャンを励ますため男衆が疲れを押して明るく振る舞うのが、グラウコーピス家の名物だ。
糞焼きがない日は川へ水を汲みに行ったり洗濯をしたりするが、今は冬だ。
そう、冬である。これらの作業を全て雪の中で行わなくてはならない。牧場は家畜たちが踏み均せる制限があるため行動範囲は微差程度に狭まりはするが、その範囲制限に見合わないエネルギーが消費される。
雪が積もる日なんかはもっと最悪だ。あぜ道を機能させるため馬を連れて踏み均してもらうが、もちろんそれは一日じゃ終わらない。家や家畜小屋の雪下ろしにその周辺の除雪……糞焼き以外の作業は全身につららをぶら下げながらやるわけだ。
異世界俺ツエーができる連中ってどうなってんだ、マジで。
とまあ、ドムレディレでの生活はそんな感じである。日常生活が過酷な事以外は、至って平穏そのものと言っていい。
唯一闘争的な行事と言えば、狩猟だ。
日暮れ時の夕食、いつものようにジャンを元気づけるようにジャクマンが一層陽気に騒いだ。アテナもジャクマンに続けとばかり音痴な歌を披露するわ、イザベルは豪快に笑うわで中々にカオスな様相だ。もちろん、明るい連中ばかりが陽気になっているわけじゃない。いつもは家長のジャック以上に静かなピエールすら果実酒で顔を染めている。
そのピエールが、酔いに任せて俺の隣にやってきて肩を組まれた。焼いたクソの臭いとや酒の臭いやなんやら色んな臭いがするが、顔をしかめるのは何とか堪えられる。
「ケイ、狩りは二日後だ。準備はいいな」
やや呂律の回らない様子のピエール。それでもいつもより声が気持ち大きい。
「もう何回も聞いたって……俺は飲まないですよ。飲まねえって」
ピエールが無言で差し出してくるコップを避ける。
「何度も言うが、もっと砕けた話し方でいい。父さんがケイを認めているし、俺たちもケイを認めている。あの攻撃的な母さんですらケイを褒める。これがどれだけすごい事か、ケイはわかっていない」
もう何度目かの指摘だか注意だかわからない言葉に、俺はうんざりと相槌を打った。
これを言ってくるのはジャクマンだけじゃない。この家族と来たら全員で示し合わせたように俺との仲を深めようとしてくるのだ。特にやかましいのはジャクマンだが、グラウコーピス家曰く排他的な性格のイザベルですら俺とコミュニケーションを図ろうと話しかけてくる。
確かにイザベルは、最初は俺に対して食事すら出し渋っていたし、実際面と向かって言われた事もある。アンタみたいなのにアタシたちの食い扶持を分けてやる義理ないんだけどね、とかなんとか。
ところが近頃は、他の子どもたちと変わらない態度で接してくる。どころか、今日みたいな糞焼きの日は俺に山盛りの食事を用意するほどだ。
「狩りはこれで四度目になるが、ケイには才能がある。弓の習得も早いし、獲物を見つけるのもうまい。自分以外を養えるくらいの才能だ」
「あー。はい。ありがとうございます。ちょっと離れて……離れろって」
頬と頬をくっつける勢いで俺の肩を揺らすピエール。
「弓の持ち方すらわかってなかった。教えて三度目で真っ直ぐに飛ばすなんて離れ業、天性のものだ」
転生だけにってか、やかましいわ。日本以外じゃわからないし面白くもないが。
しばらくそうやってダル絡みされていると、そこへアテナもやってきた。酒を飲んでいるわけでもないのに頬を紅潮させているのは、さっきまで大口を開けて歌っていたからだろう。
「ケイ、ケーイー」
上機嫌な声色のアテナは、ピエールと逆の位置に座り、俺の腕を掴んで揺らしてくる。
「ねーえ、私にも弓教えてよ」
そうそう、ウビンインチでの約束が有効にされいる俺に、アテナはこうしてよく平穏と遠い事を教えろと迫ってくる。
「鍛えろっつってんだろ」
そんなわけで、俺も律儀に戦う術を教えているんだが、残念ながら筋力が一定の水準に達していない。そのため、最初に戦場で白兵戦において優先される弓をやらせてみたわけだが、筋力が足りなくて弦を引けない事が判明した。
最初は俺の経験が浅いせいかとも思ったが、聞けば長い事動物狩りをしているピエールにも教えてもらった事があるらしい。その時も筋力不足で弓が引けなかったと。
ただまあ、女である以上身体能力に差があるのは仕方がない。なので近接戦を教えようとしているが、数ヶ月かけてようやくわかった。こいつにはセンスがない。
ただ近接戦をするだけなら身体能力的には優秀だ。伊達に山育ちなわけじゃないし、反射神経も悪くない。加えて頭も怖いくらいに良い。一つ言えば十を理解する人間ってのを初めて見たが、眼の前にすると凄まじいの一言だ。なんたって四則演算を誰に教えられるわけでもなく、感覚で理解できているようなのだ。前世みたいな教育を受けているわけでもなく、この世界の誰に教えられたわけでもないらしいにも関わらず、だ。まだ十代の前半にいるような小娘にも関わらず、だ。
が、考えすぎるがあまり思考を即行動できないんだと思う。そんなフィクションみたいな欠点が、この世界では文字通り致命的になる。
「違うもん。力がなくてもできるはずだもん」
「できてねえよ」
「でーきるもん」
俺の腕を振り回してきゃっきゃと笑うアテナ。うぜえ。
というか律儀に教師してやるのが面倒になってきているところだ。例え本人がどれだけ必死にやっていようと、他人なんてどうでもいいが八割の俺が、よくぞここまで継続できていると称賛して欲しいくらいだ。
「明日は私と訓練! 狩りにも行くからね!」
「アテナも大きくなったら、三人でハンターとして食べていくのも悪くない」
と、そこへピエールも再参加してくる。
「ピエールはお仕事だけど、ケイは暇だからね!」
「俺にも、ケイから教わる事がある」
「あともうちょっとでね、できると思うんだけどな!」
俺は絡みつかれた触手をやや強引に振り払い、立ち上がって一言告げた。
「もう寝ます」
自分が思うより百倍疲れた声だった。




