6.凡人の苦悩はありきたり
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翌朝もいつもと同じ時間に起きた。冬の入口の朝は薄暗く、白い吐息が霧に紛れていく。
ここ最近は店の仕込みがいい運動になっていたが、しばらくはそれがあるかどうかわからない。ので、ランニングする事にした。
前世じゃランニングなんて天変地異と同じくらいの珍事だったが、スラムであの男に対抗するために体作りが習慣になってしまった。他にする事がないというのもあるが、生きるためには力が必要な世界というのが大きい。弱肉強食を本能にねじ込まれているとも言える。
空が明るくなった頃に一度ピーター食堂に布を取りに戻り、今度はゆっくりと歩いて川へ向かった。川まではそこそこの距離があるが、いつもなら持っていく食器はない。距離があっても荷物がないだけで随分と楽になる。
井戸はあるんだから井戸を使えばいいだろ、という考えはオススメできない。
この時間の井戸は、どこもかしこも朝から人だかりができているし、水が濁るためあまり綺麗になる気がしない。それに同じ目的で来る町の人間は老若男女素っ裸で体を洗っているし、食器を洗っている女もいるから狭苦しい。
というわけで、俺みたいに体力のある人間は時間をかけて川まで来て、川で水浴びするのがベターだ。もっとも、川まで行くにしても時間はかかるし水は冷たいしで快適とは言えないんだが。
浅瀬に全身を浸すと、意図せずため息が漏れた。
ここ数日で色々な事があった。見た目こそ綺麗だがムカつく女に始まり、身分意識がやたらと強い男を経由し、果ては魔族だ。
このストレスも洗い流してくれたらいいのに。まあ、汚い油と木灰で作った石鹸でどれだけ汚れが落ちるのかは知らないが。
ピーター食堂に戻ると、軒下で椅子に腰掛けたウルターがぼんやりと町並みを眺めていた。ご丁寧に俺のためと思われる椅子も用意されていたので、俺は遠慮する事なくそこへ座った。
「体はどうよ」
「大分良くなったよ。昨日ウェンディさんたちに食事を分けてもらえたしさ。あ、嫌味じゃないんだ。この家の備蓄が少ないのは俺も確認したし、この先の事を考えると節約しないといけないのは間違いないからね」
「そうか」
この先どうする。と聞くのを、俺は躊躇した。言われなくても考えなくちゃいけない事だし、何より考えるだけで自殺したくなる未来の質問ってのは、どういう流れで切り出せばいいんだろう。
「……ごめんな、ケイ」
「あ? 何が」
「みっともない八つ当たりだった。ちょっと、気が動転してたんだ。それで、そうしてもケイは俺を見捨てないような予感もあったんだと思う。甘えてたんだ」
「別になんとも思ってねえよ。俺も多かれ少なかれ、ピーターさんたちが好きだったからな」
俺が言うと、ウルターは驚いた顔をした。
「びっくりした。ケイが自分から好きとか言うなんて」
「俺を何だと思ってんだボケ」
「だって、ケイってどんなことにも無感動だったしさ。優しいけど、感情を表に出すのは苦手だと思ってた」
「うるせえ」
「……でも、そっか。ケイも本当に好きでいてくれたのか。そっか……」
ピーターは嬉しそうな悲しそうな、複雑な表情で黙り込んだ。俺は俺で何を言えばいいのかわからず、自然と会話が途切れた。
町の復興作業のせいか、いつもより町の喧騒は音が大きい。ピーター食堂の前を通る人間の中には常連も多くいて、通り過ぎるたびにウルターと二言三言話して去っていく。いつもならだらだらとくっちゃべるはずなのに、どいつもこいつも忙しそうだ。
「ピーター食堂は、閉めるよ」
不意に、ウルターが言った。
「いつも麦を仕入れてたトリクムさんのところも、みんな亡くなっちゃったらしい。昨日墓で誰かが言ってたよ。次の仕入れ先を決めるのも、今はみんな忙しいし自分のことで手一杯だから、難しいだろうしさ」
「……そうか」
なんとなくわかってはいた。
「でさ、俺、魔族と戦うよ」
「なんて?」
聞き取れてはしたものの、一瞬理解ができずに聞き返してしまう。
「戦争に行って、戦うよ。俺さ、いつも話に聞いてたコレット様の英雄譚が、本当に好きだったんだ。それで、昨日みんなのおかげで落ち着いて、考えたんだよ。考えて、思い出した。コレット様が、あのコレット様が、俺のために言葉をくださってたって」
ピーターが死んだ後、コレットが言っていた言葉を、俺も思い出した。
「戦え。どうせ死ぬなら、私が望む未来のために命を使え。コレット様が望む未来がどんなものかわからないけど、わからないから、知りたいんだ」
「……それは」
修羅の道だ。
コレットの心を覗けるわけじゃないからわからないが、とにかく戦闘においてはこの世界のトップレベルなんだろう。全人類の中で、だ。上澄みにいる人間は、莫大な犠牲を払っていたりどこかが壊れている事が多い。これは前世で生きた俺の知見になってしまうが、彼ら彼女らは一般人にはおよそ手の届かない何かを持ち、何かをやっている。
インターネットが当たり前になった世界での情報伝達は凄まじく、そういった上澄みの人間たちの裏側を誰もが知るところとなった。ところが、そういったトップ層の真似をできる人間は限られていたし、真似したところで到底同じになれずに泣く人すらいた。
なんとかそれを言語化しようと言葉を探ってみたが、うまくいかない。表立ってその事を言葉にする人間はあまりいないご時世だったし、言語化しようとするといい手本がない。
俺が言葉に詰まっているのをどう思ったのか、ウルターは笑った。
「ケイが優しいのは知ってたからさ、今みたいに止めようとしてくれてるのが嬉しいよ。戦争になんか行ったって、死ににいくようなものだしさ」
「なら今まで通りでいいだろ」
ウルターがこちらを向いた。
「別にいいだろ。次の仕入先探して、手伝ってくれる奴を探して。んで、近所の連中と酒飲んで馬鹿騒ぎして金もらって。それでいいだろうが」
ウルターは少し辛そうに微笑んだ。
「そうしていたら、父さんと母さんは死んだんだよ、ケイ」
一発で論破された。何も言えなかった。
「俺もさ、俺なりに父さんと母さんを支えて守っていたつもりだったんだ。内装を良くすればお客さんがたくさん来る、お客さんが笑ってくれる話をすればもっと聞きたいってエールの注文が増える、お金がもらえる。これでも頑張ってたんだよ」
そんな事は見てるだけでわかってたよ。それが接客と営業を兼ねた努力なんてのは、酒飲んで馬鹿笑いして遊んでただけじゃないなんてのは、言われなくてもわかってる。
「そうじゃ、なかったよ。ケイは、知ってるんだろ?」
「何をだよ」
「コレット様くらいとは言わないけど、強い人たちの……違うな。戦える力がある人の、世の中の見方っていうのかな」
言わんとしている事が、わかるようでわからない。
「わかんねえな」
「そうかな。父さんに聞いただけだと想像つかなかったけど、ケイはすごかったよ」
「違う。お前が求めてるモンがわかんねえって話だよ」
「俺の? あはは……俺もそれが知りたいからさ」
前世でなら。もしくは今よりも百年二百年後なら、ウルターのやっている事は何も間違っちゃいなかった。むしろそういう努力の先に、芸能人がいたりSNSなんかにいる金持ちへの道がある。人間社会で成功するのに一番必要な能力を持ち、成功するためには何が必要なのかを、ウルターは気づけていたわけだ。
もちろん、今の時代でもそれは十分に通用する。なんせ紀元前の兵法書にも重要なのは人間関係と記されているくらいなのだから。
ただ、弱かった。人間よりも戦力的に優れた種族に一方的な蹂躙をされてくまうくらいには、弱かった。それだけだ。
俺は大きくため息をついた。コインを取り出して指でぐりぐりと回して、頭を切り替えようとした。
「で、これからどうするんだ」
「サブルさんに、騎士団に入れてもらえるかどうか頼んでみるよ。それで、入れなくても、直接西へ行って戦地に行ってみるよ」
ぐりぐり。ぐりぐり。
「この店はどうする」
「ケイにあげるよ。大事に使ってくれると、嬉しいかな」
「いらね。お前が行くと、帰る場所なくなるぞ」
「仕方ないね。二人のいない店に、未練がないって言ったら嘘になるけど……俺にはもう何もないから、これから何か……あるといいかな」
ぐりぐり。
「……俺は、この先もお前と一緒にだらだらやっていくと思ってたんだけどな」
俺の言葉にウルターは驚いた後、すぐに笑った。
「なんだ、ケイって俺のこと結構好きだったんだね」
ぐりぐり。
「俺は何かがないと、とてもやっていけないよ。ケイは、何もなくても一人でやっていけるから」
コインロールをやめた。
そんなわけがない、と言い返したかった。だけど何故か、言葉が出てこない。何を言えばいいのかわからない。
要するに俺は、未練たらたらなんだ。ここ半年の安定した生活や誰にも殴られる事のない日常、上司の固い眉間を見なくてもいい安寧や食欲がなくなるほどの叱責に怯えなくてもいい毎日が、惜しくて惜しくてたまらない。
どれだけうざ絡みをされようと、余計なお節介をされようと、俺は嫌じゃなかった。
「……なら、あれか? お別れか?」
俺は往生際悪く、みっともない確認をしてみた。
「そうだね。俺ももうちょっとケイといたかったけど、決心が鈍りそうだから」
「そうか」
「俺は魔族を殺しに行くよ。できるだけ多く、一人でも多く、魔族を殺したい。そうやって生きるのを、これからの俺にしたいんだ」
直接それとは言わないが、意訳するとつまり死にたいという事だ。ちょっとお国に貢献してから死ぬと、そういう事だ。
俺はウルターの顔を見た。ウルターも真っ直ぐにこちらを見ている。
ウルターの表情はうっすらと笑っているが、諦観で固められた決意がありありと浮かんでいる。
俺はウルターから目を逸らし、まだ何か言おうとして、やめた。
その代わり立ち上がって、
「まだこの町にいるかもな。探すか」
と言った。




