第49話 推しのこ
キャスティングが決まった。
朝比奈ユイネ役、柚月ユキ。
朝比奈ユリカ役、真白マユ。
遠野ナギサ役、水瀬リン。
咲夜からその連絡が来た時、私はしばらくスマホの画面を見つめたまま動けなかった。
あの三人が、咲夜が描いてきた物語の主役を演じる。
画面に並んだ三人の名前を見ていると、胸の奥がじんわり熱くなった。
よかった。
そう、思ってしまった。
思ってしまったあとで、少しだけ息が苦しくなる。
彼女たちが選ばれたのは、『ふたりのまんなか』に合っていたからだ。
私の思い入れが影響したわけではない。
そもそも、私に選ぶ権利なんてなかった。
最終的に決めたのは制作側であり、咲夜だ。
何度もそう自分に言い聞かせた。
それでも、どこか後ろめたい。
三人が選ばれたことを、私は確かに喜んでいた。
彼女たちとの繋がりが切れなかったことに、安堵してしまっていた。
そして、そう思う自分がどうしようもなく怖かった。
だから、私は知ることにした。
Liminal Notes。
リミノと呼ばれる、あの三人のことを。
私は調べた。
リミノは、デビューしてまだ半年ほどの新人声優アイドルユニットだ。
大きな実績があるわけではない。
活動の中心は、ユニットとしての配信や楽曲、短い動画、それからいくつかの小さな出演歴。
声優としてまったくの新人、というわけではない。
けれど、メインキャストの経験は、まだない。
公式に出ている情報だけなら、追うのはそこまで難しくなかった。
公式サイトを見た。
プロフィールを読んだ。
デビュー配信を見た。
自己紹介動画を見た。
曲を聞いた。
ラジオを聞いた。
インタビュー記事を読んだ。
そこから、SNSも見た。
公式アカウントの告知。
三人それぞれの投稿。
告知に対する返信。
ライブ後の感想。
イベントに行った人のレポート。
ファンがまとめた発言集。
切り抜き動画。
コメント欄。
掲示板の反応。
評判も確認した。
歌が上手いと言われているのは誰か。
喋ると印象が変わるのは誰か。
ライブで目を引くのは誰か。
逆に、まだ慣れていないと言われているところはどこか。
動画だけでは分からないことがある。
記事だけでは分からないことがある。
本人の言葉だけでは分からないことがある。
だから、見られるものは一通り見た。
CDを買った。グッズを買った。
通販で買えるものは買った。
現地販売限定のものは中古で探した。
結果として、私の部屋の一角に、ちょっとしたリミノコーナーができていた。
仕方ない。
これは必要な資料だから。
そう自分に言い聞かせながら、私はアクリルスタンドの位置を直す。
『ふたりのまんなか』を意識するなら、リンを中央に置くべきだ。
けれど、公式の並びではユキ、マユ、リンの順になっている。
ライブの立ち位置だと、曲によって変わる。
悩ましい。
その時、部屋のドアが軽く叩かれた。
「アリサ、入るわよ」
「んー」
返事をすると、少し間を置いてドアが開いた。
「……何これ」
「リミノ」
「それは見れば分かる」
ウタは部屋の中を見回した。
そして、部屋の一角で祭壇と化しているリミノコーナーに視線を止める。
しばらく無言で眺めてから、深くため息をついた。
「……あんた、いつの間にこんなことになってたの」
「調べてたらこうなった」
「普通はこうならないのよ」
ウタはもう一度、リミノコーナーを見た。
「咲夜さんに、リミノの声を聞きたいならあんたのところに行けって言われたの」
「うん」
「何を言ってるんだろうと思ったけど」
ウタは、納得したくなさそうな顔をした。
「……これは何?」
「必要な資料です」
「限度があるでしょ。あんたリミノのなんなの……?」
ウタがため息をついた。
私は少しだけ目を逸らす。
私はリミノの何なのだろう。
「……ファン?」
「ほんと、狂信的だわ」
ファンとしてなら、ただ応援していればいい。
父親として近づくことはできない。
恩人として名乗ることもできない。
でも、ファンなら。
公開されているものを見て、好きだと言うだけなら。
その距離は、たぶん許される。
だから、とても楽だった。
「それで、リミノってどういう子たちなわけ」
ウタが椅子に腰を下ろしながら聞いてきた。
私は待ってましたとばかりに、机の上のノートを開いた。
「まず、デビューは半年前。養成所と芸能事務所が合同でやってた新人発掘企画があって、そこで選ばれた三人なんだって」
「……詳しいわね」
「インタビューに書いてた」
私はページをめくる。
「ユキは、学生の頃に読者モデルをやってた子。高校卒業後に声優の養成所へ入って、そこから今の事務所の新人発掘企画でリミノに選ばれたらしい」
「読モから声優?」
「うん。だから人前に出ることには慣れてる。カメラの前で笑うのも、姿勢の作り方も上手い。でも、そのぶん自分が前に出なきゃって意識が強い」
「なるほど」
「好きなものは辛いものと少年漫画。苦手なのは、何もしない時間。じっとしてると不安になるタイプ」
「なんでちょっと嬉しそうなの」
「解釈一致だから」
「うざい」
ひどい。
私はめげずに続ける。
「マユは、中学の頃は文学部。かなり大人しいタイプだったみたい。でも、お姉ちゃんに憧れて、高校で演劇部に入った」
「お姉ちゃんって、ユキ?」
「うん。ユキは学生の頃から読者モデルをやってたから。マユはたぶん、表に出る姉に憧れてたんだと思う」
私はノートのページをめくる。
「意外なのは、高校の部活だけじゃなくて、市民ミュージカルにも参加してるところ」
「マユが?」
「マユとリン、二人で」
「へえ。なんか、あんまりそういうのに自分から出そうな感じじゃないけど」
「そうなんだよね」
そこが、少し面白かった。
マユは人前で喋るのが苦手だと、何度かインタビューで言っていた。
リンも、自分から前に出るタイプには見えない。
それなのに、二人は高校の演劇部だけでなく、地域の市民ミュージカルにも参加していた。
「記事によると、マユの方がかなり積極的だったらしい。最初に募集を見つけたのもマユ。参加したいって言い出したのもマユ」
「意外ね」
「うん。意外。でも、分かる気もする」
「何が?」
「一見大人しそうな子でも、内側に熱いものを秘めてたりするでしょ。目の前の誰かさんみたいに」
「……殴るわよ」
「暴力反対」
それに、舞台には舞台の魔法がある。
普段の自分から少しだけ離れて、非日常の中に立つ。
その感覚に夢中になる気持ちは、少しだけ分かる。
「で、リンは?」
「リンは、それに付き合ったみたい」
「付き合った?」
「マユがやりたいって言ったから、一緒に参加した。高校の演劇部も、市民ミュージカルも、養成所の企画も、たぶん流れとしてはそう」
私はそこで、少しだけ声を落とした。
「マユが行くなら、リンも行く。マユがやりたいなら、リンも付き合う。そういう関係だったんだと思う」
「仲がいいのね」
「マユにとっては、そうなんだと思う」
マユのインタビューを読むと、リンの名前がよく出てくる。
何かを始める時、最初に話す相手。
不安な時に相談する相手。
姉には言いにくいことでも、話せる相手。
マユはリンのことを、何度も親友だと言っていた。
家族ではない。
でも、ただの友達というには近すぎる。
記事を読む限り、マユにとってリンはそういう存在らしい。
けれど、リンの方の記事を読んでいると、少しだけ温度が違った。
マユの話になると、嬉しそうにする。
ユキの話になると、少し緊張した言い方になる。
リミノの話になると、二人を支えたいと言う。
自分がどうしたいかよりも、二人がどう見えるか。
自分が前に出ることよりも、二人の邪魔をしないこと。
そういう言葉が、いくつかの記事に残っていた。
優しい子なのだと思う。
周りをよく見ている子なのだと思う。
けれど、少しだけ引っかかった。
「……アリサ?」
ウタの声で我に返る。
「あ、ごめん……ちょっと考えてた」
「まあ、いいけど」
ウタはノートを覗き込んだ。
「ていうか、これ本当に全部記事から拾ったの?」
「記事とラジオと配信」
「配信まで」
ウタは呆れながらも、ノートに視線を落としている。
「彼女たちは、新人グループなのね」
「うん。だから今回の主役抜擢は、かなり大きい。話題にもなるし、反発もあると思う」
「でしょうね」
「でも、『ふたりのまんなか』は、あの三人が必要だと思う」
言ってから、少しだけ口を閉じた。
ユキとマユとリン。
姉がいて。妹がいて。
その間に、もう一人がいる。
役と本人を重ねすぎるのは危ない。
そんなことは分かっている。
それでも、三人の声が並んだ時、物語の形が見えた気がした。
ウタがこちらを見る。
「……あんた、本当に入れ込んでるわね」
「……いちファンとして」
「はいはい」
ウタはそれ以上、そこには突っ込まなかった。
代わりに、鞄からクリアファイルを取り出す。
「咲夜さんから依頼が来たの」
「咲夜から?」
「『ふたりのまんなか』の主題歌。オープニングとエンディング」
「二曲?」
「オープニングはLiminal Notesが歌う予定」
私は反射的に棚のアクリルスタンドを見た。
ユキ。マユ。リン。
あの三人が、『ふたりのまんなか』のオープニングを歌う。
「……そっかぁ」
「嬉しそうね」
「正直、嬉しい」
「でしょうね」
ウタは淡々と言った。
「エンディングはルナが歌うそうよ」
「ルナが」
今度は、別の方向から胸が揺れた。
ルナ。あかり。
私をステージの上に引っ張り上げた人。
リミノがオープニングで、ルナがエンディング。
咲夜の物語の中で、私の知っている声が繋がっていく。
「……へー」
「反応が薄い」
「処理してる」
「何を」
「いろいろ」
ウタがルナの曲を作ること自体は、今さら珍しくない。
けれど今回は、咲夜の作品の主題歌だ。
そう思うと、少しだけ特別に感じた。
ウタはクリアファイルを机に置いた。
「私が作詞作曲。まだ正式発表前だけど、ほぼ確定」
「私にとっても思い入れのある作品だから、ウタが作ってくれるの嬉しい」
私が言うと、ウタは少しだけ視線を逸らした。
「……そういうこと、さらっと言わないでよ」
「本当のことだし」
「分かってるわよ」
小さくそう言ってから、ウタはすぐにいつもの顔に戻る。
「それで、本題」
ウタはクリアファイルを指で叩いた。
「リミノの声を聞きたい」
「正しい判断だね」
「その通りなのが嫌」
「じゃあ聞く?」
「聞く。アリサのおすすめを流して」
私はタブレットを操作した。
まずは、リミノのデビュー曲を流す。
まだ少し硬いイントロ。
明るく前へ出るユキの声。
柔らかく受けるマユの声。
その少し後ろから、リンの声が重なる。
ウタは黙って聞いていた。
一番が終わる頃には、もうペンを動かしている。
「ユキ、思ったより輪郭が強いわね」
「うん。センター向き。ただ、少し力が入りすぎる」
「マユは?」
「歌になると柔らかい。喋りより自信がある感じがする。でも、ユキの後ろに入ると少し消えやすい」
「リンは?」
「二人の隙間に入ってくる声」
「また変なこと言い出した」
「本当だって」
私はサビ前まで巻き戻した。
ユキとマユの声が重なったあと、リンの声が入る。
「ここ。前に出て奪うんじゃなくて、空いてるところに触れる感じがする」
ウタは少し目を細めた。
「……分かる。主旋律を取るより、ハーモニーで残る声ね」
「そう。それでいて、耳に残る」
「なるほど」
ウタは何かをメモしてから、もう一度曲を流した。
「OPは、三人が最初から一つになってます、みたいな曲じゃない方がいいかも」
「というと?」
「少しバラバラで始めたい。ユキが前に出る。マユが内側から返す。リンがその間に入る」
ウタはノートに線を引いた。
「サビで初めて揃う。でも完全には重ねない。三人の声が別々の場所から、同じ真ん中を見てる感じ」
私は黙って聞いていた。
近いのに、どこか遠い。
支え合っているのに、それぞれの立ち位置を探っている。
あのオーディションで見た三人が、音の形になっていく気がした。
「それ、あの三人に合うと思う」
「なら、方向はそれで行く」
「そんな簡単に」
「あんたがそう聞こえたなら、たぶん間違ってない」
「これ私情まみれだよ?」
「知ってる」
ウタは顔を上げた。
「でも、だからこそ分かることもあるでしょ」
私は言葉に詰まった。
「全部を鵜呑みにするわけじゃないし、全部を捨てる必要もない。少なくとも、今の話で曲の輪郭は見えた気がする」
「……そっか」
「そう」
ウタは資料をまとめると、当然のように言った。
「仮歌は、今回もあんたね」
「うん」
そこまでは、いつものことだった。
ウタが曲を作る。私が仮歌を入れる。
それを聞きながら、言葉や音の細かいところを詰めていく。
今まで何度もやってきた作業だ。
だから反射的に頷いてから、少し遅れて気づいた。
リミノが歌う曲を、私が先に歌う。
まだ本人たちは知らない曲を。
ユキとマユとリンが歌うはずの曲を。
私が、最初に声に出す。
胸の奥が、妙な感じに軋んだ。
「……嫌?」
ウタが聞いた。
私は少しだけ考えて、首を横に振る。
「嫌じゃない」
「変な顔してる」
「変な感じはする」
「あんたの仮歌が一番早い。声のニュアンスも伝えやすいし、私も作りやすい」
「うん」
「それに、歌を入れる曲はまだあの子たちの物じゃない。仮歌で輪郭を作って、それから、あの子たち自身で自分の物にしていくの」
その言葉に、少しだけ息が抜けた。
私が先に歌っても、私の曲になるわけじゃない。
最後に声を乗せるのは、彼女たちだ。
「わかった……仮歌、入れる」
そう答えながら、私は棚の上のアクリルスタンドを見た。
ユキ。マユ。リン。
あの三人に贈る曲に関われる。
そう思うと、嬉しかった。
そして、少し怖かった。
「あと、EDの仮歌もあんたね」
「そっちも?」
「あたりまえでしょ。リミノにかまけて、そっちがおろそかになってたら許さないから」
「かまけてって」
「今の部屋を見て、他にどう言えばいいのよ」
言い返せなかった。
咲夜の作品のための曲。
リミノが歌うOP。
ルナが歌うED。
それを、ウタが作る。
これは仕事だ。
私の事情が勝手に絡まっているだけで、曲そのものは、私のものではない。
「それと」
ウタが、机の上のリミノグッズを一瞥した。
「あんまり入れ込みすぎない方がいいと思う」
「え」
「仕事で関わる相手を、その勢いで推すのは危ないでしょ」
「う」
「しかも、あんたの場合、ただの推し活じゃなさそうだし」
私は少し黙った。
ウタは、リミノの三人が私にとって何なのかを知らない。
柚希のことも、麻友のことも、凛のことも知らない。
それでも、私が普通ではないことくらいは分かるのだろう。
「……そんなに変?」
「変」
「即答」
「部屋を見なさい」
……まあ、その通りかもしれない。
「でも、好きなんだよ」
ウタがこちらを見る。
「三人の声、好きだと思った。活動を見てても、応援したいと思った。だから、推してるのは嘘じゃない」
ウタは不満そうに唇を尖らせて、ぼそりとこぼした。
「……ぽえのことは、そんなふうに推してくれないくせに」
「え?」
「なんでもない」
父親だったから。
助けた相手だったから。
それだけではない。
あの三人の声を聞いて、いいと思った。
あの三人が歌っているところを見て、応援したいと思った。
それは、本当だった。
ウタはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「なら、曲をちゃんと作らないとね」
「うん」
「ファンとしてじゃなくて、歌い手として意見ちょうだい」
「分かった」
ウタはタブレットをもう一度再生した。
リミノの曲が、部屋に流れる。
ユキの声が前に出る。
マユの声が柔らかく重なる。
リンの声が、二人の隙間に触れる。
私はそれを聞きながら、棚の上の三人を見た。
ファンという距離は、たぶん安全だ。
でも、いつまでもそこにいられるわけではない。
そんなことは、もう分かっていた。




