第47話 ふたりのまんなか
昨日の配信事故は、案の定、切り抜かれていた。
とはいえ、そこまで深刻なことになったわけではない。
美結の親フラは、十年も配信を続けていれば何度か起きている。
リスナーたちも慣れたもので、アリサちゃんの声かわいかっただの、幼女先輩は美少女だった!? だの、好き勝手に騒いでいるだけだった。
まあ、十年も配信してるのだ。中の人に幻想なんて抱きようがないだろう。
あかりに至っては、朝からメッセージでこう送ってきた。
『師匠がかわいいのは当たり前のことだからね』
納得はしていない。
けれど、納得していなくても世界は回る。
学校へ行き、授業を受け、放課後にはウタに捕まり、昨日の続きを歌わされる。
そうして喉と気力を削られたあと、私は咲夜の部屋を訪ねていた。
相談がある、と連絡が来ていたからだ。
咲夜の仕事場は、相変わらず資料で埋もれていた。
この部屋で落ち着いて話すのも、少し久しぶりだ。
最近の咲夜とは、仕事の相談をするより、布団からひっぺがしてランニングに連れていく方が多かった気がする。
昔は、ほとんど毎日のようにここに入り浸っていた。
ネームを読まされ、資料を探され、締切前にはベタやトーンを手伝った。
咲夜の作業用椅子の横に、私専用のクッションまで置かれていたくらいだ。
けれど今は、咲夜にも専属のアシスタントがいる。
私の方も、ウタの曲やVの仕事で、昔ほど気軽に手伝えるわけではない。
それに、AL1-SAはそこそこ有名になってしまった。
私が咲夜と普通に話しているところを聞かれたら、一瞬で身バレするだろう。
だからアシスタントがいる時間帯は、基本的にこの部屋には来ないようにしていた。
「来てくれてありがとう、師匠」
咲夜は椅子から振り返って、少しだけ笑った。
「相談って?」
「うん」
咲夜は机の上に置かれたファイルを、指先で軽く叩いた。
「アニメ化の話が来た」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「……え」
私は咲夜の顔を見た。
「アニメ化って、『ふたりのまんなか』の?」
「うん。まだ正式決定じゃないけど、企画として動いてるみたい」
「え、すごいじゃん!」
思わず、椅子から身を乗り出していた。
「咲夜、やったね!」
「まだ早いってば」
咲夜は照れくさそうに笑いながら、少しだけ肩をすくめた。
「企画が動いてるって段階だから。ここからどうなるかは分からないし」
「それでもすごいよ」
私は素直にそう言った。
『ふたりのまんなか』は、私にとってもただの連載作品ではない。
ネームの段階から何度も読んだ。
舞台設定やキャラクター設定について、咲夜と何度も打ち合わせた。
夜中まで資料を広げて、設定の細部を詰めたこともある。
資料探しを手伝ったこともあるし、締切前はよくアシスタントとして作業に入っていた。
咲夜が悩みながらこの作品を描いてきたことを、私は隣で見てきた。
漫画家にとって、アニメ化がどれだけ大きな話なのかも、少しは分かっているつもりだ。
「ほんとに、おめでとう」
「……ありがとう」
咲夜は照れたように、少しだけ目を伏せた。
けれど、その表情はすぐに曇る。
「嬉しいのは、嬉しいんだけどね」
「何かあるの?」
「うん」
咲夜は机の上のファイルに視線を落とし、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「ちょっと、キャスティングで引っかかるところがあって」
『ふたりのまんなか』は、父親を失った双子の姉妹と、その二人を少し離れた場所から見守る幼なじみの少女の物語だ。
明るく、何でも先に進んでいく姉。
繊細で、姉と比べられることに疲れている妹。
そして、二人の間に立ちながら、ただ見守るだけではいられなくなっていく幼なじみ。
家族の距離感。
姉妹だからこそ言えないこと。
恋愛未満の感情。
それから、自分を肯定できるようになるまでの物語。
だから、主役三人のキャスティングは、作品の芯に関わる部分だった。
「引っかかるところって?」
咲夜はファイルを開き、数枚の資料をこちらに向けた。
「主役の三人に、この子たちを使いたいって話が来てるの」
「この子たち?」
「三人組の声優アイドルユニット。最近かなり推されてるみたい」
「へえ」
「三人の雰囲気や関係性が、作品に合うからどうかって」
「ああ……なるほど」
私は資料を見る前に、なんとなく話の筋を理解した。
声優アイドルユニット。
その言葉だけで、少し身構える。
もちろん、アイドルだから演技ができない、なんて言うつもりはない。
歌って踊れて、芝居もできる人間はいくらでもいる。
あかりだって、その最たる例だ。
けれど、こういう話はだいたい揉める。
話題性。宣伝効果。
主題歌との連動。SNSでの拡散。
作品のためのキャスティングなのか。
それとも、企画を通しやすくするための看板なのか。
外から見ているだけでは、その区別がつきにくい。
「咲夜は、あんまり良い印象じゃないんだ?」
「うん……」
咲夜は小さく頷いた。
「アイドルだから嫌ってわけじゃないよ。ちゃんと演技できる子もいるし、本人たちが真剣なら、そこは見たいと思ってる」
「うん」
「でも、資料の出され方がちょっとね」
「作品より、話題性が先に来てる?」
「そう。それが、少し怖い」
咲夜はファイルの端を押さえた。
「主役って、作品の芯になるところだから。そこを宣伝の都合だけで決められるのは、やっぱり嫌で」
「分かる」
「だから、師匠にも見てほしくて」
「私?」
「うん。師匠は、Vも配信も音楽も見てるし、あかりちゃんたちとも近いでしょ。私だけで考えると、どうしても警戒が先に立つから」
「私も、その説明だけだと普通に警戒するけど」
「だからこそ、ちゃんと見てほしい」
咲夜の声は静かだった。
押しつける感じではない。
けれど、少しだけ不安そうでもある。
私は苦笑しながら、資料を受け取った。
三人組声優アイドルユニット。
Liminal Notes。
略称、リミノ。
宣材写真。プロフィール。
出演歴。声優仕事の実績。
そこに並んでいる名前は、どれも活動名だった。
柚月ユキ。真白マユ。水瀬リン。
新人の声優アイドルらしいが、初めて見聞きする名前だ。
けれど、写真に視線を落とした瞬間、呼吸が止まった。
「……え」
紙の上に、三人の女性が並んでいた。
二人はよく似ている。
片方は、少し勝ち気な笑みを浮かべていた。
もう片方は、柔らかく目を細めている。
顔立ちは大人になっている。
背も伸びている。
化粧もしているし、衣装も華やかだ。
それでも、分かった。
記憶の奥に焼きついている、幼い頃の面影がそこにあった。
――柚希。麻友。
名前が、胸の奥で勝手に浮かぶ。
そこで、資料に書かれた活動名をもう一度見た。
柚月ユキ。真白マユ。
名字は違う。
本名そのままではない。
けれど、ユキとマユという響きは、どうしようもなくあの子たちの名前から来ていた。
俺が華と相談して、二人に贈った名前。
その名前を、あの子たちは形を変えて、今も持っている。
親から与えられた名前を、捨てずに、大事にしてくれている。
そう思ってしまった瞬間、もうどうしようもなく視界が滲んだ。
ぽたり、と紙の端に雫が落ちる。
資料には、柚希とも麻友とも書かれていない。
それでも、分かってしまった。
――俺の、前世の娘たちだ。
死亡時、柚希は小学生だった。
麻友はまだ未就学児で、俺の腕にしがみついて離れないこともあった。
あれから、十年以上が経っている。
当たり前だ。
私が南雲アリサとして生きてきた時間の分だけ、あの子たちにも時間が流れている。
二人とも、もう成人しているはずだ。
紙の上で笑っているのは、私の記憶の中にいる小さな娘たちではなく、大人になった娘たちだった。
「師匠?」
咲夜の声が、近くで聞こえた。
けれど、返事ができなかった。
二人から視線を外すだけで、ひどく時間がかかった。
それでも、資料にはまだ一人、名前が残っている。
私は震える指で紙の端を押さえながら、三人目の写真を見た。
息が止まった。
水瀬リン。
落ち着いた雰囲気で、少しぎこちなく笑っている。
記憶の中の幼い少女ではない。
そこに写っているのは、もう一人の若い女性だった。
けれど、その目元には、あの日の面影が残っていた。
道路に飛び出した小さな背中。迫るトラック。伸ばした手。
最後に見た、泣きそうな顔。
俺が、命を賭けて救った少女。
その子が今、宣材写真の中で笑っている。
「師匠」
咲夜が、そっと隣に来た。
何も急かさない。
何も問い詰めない。
ただ、私の背中に手を置いてくれる。
昔、前世の家族を遠くから見に行った時と同じ手つきだった。
「……咲夜」
「うん」
「この二人」
声が震えた。
私は資料の中の、よく似た二人を指した。
「俺の……娘だ」
咲夜の手が、一瞬だけ止まる。
「……前に話してくれた、娘さんたち?」
私は小さく頷いた。
「柚希と、麻友」
口にした瞬間、涙がまた落ちた。
「資料に載ってる名前は違う。でも、分かる。あの子たちだ」
「……そっか」
「それと、この子は……俺が死んだ時に、助けた子」
咲夜は、それ以上すぐには聞かなかった。
驚いていないはずがない。
聞きたいことも、たぶん山ほどある。
それでも、咲夜はただ私の背中を撫でてくれていた。
「生きてた」
私は、ようやくそれだけを言った。
「ちゃんと、生きてたんだな」
「うん」
「笑ってる」
「うん」
「大きくなってる」
「うん」
「……咲夜」
「うん」
そこで、もう言葉が続かなかった。
咲夜が、そっと私を抱き寄せる。
抵抗する余裕もなかった。
私はそのまま、咲夜の胸元に顔を押しつける。
「う……」
喉の奥から、変な声が漏れた。
「うぅ……うぁぁぁ……」
みっともないくらいに泣いた。
父親だったとか。
今は南雲アリサだとか。
もう会ってはいけないとか。
そんな理屈は、何も残らなかった。
ただ、生きていた。
大きくなっていた。
笑っていた。
それだけで、もう駄目だった。
咲夜は何も言わず、ただ優しく抱きしめてくれていた。
◇
だいぶ気持ちが落ち着いてくると、今度は急に恥ずかしくなってきた。
さっきまで咲夜に抱きしめられて、子どもみたいに泣いていた。
いや、今の身体は実際に子どもなのだけど、それはそれとして情けない。
「どうしよう」
自分でも、情けない声だと思った。
でも、もう取り繕えなかった。
私は南雲アリサだ。
十三歳の女子中学生だ。
綾瀬恭介ではない。
父親ではない。
男でもない。
もう、あの子たちの家族ではない。
それでも、資料の中の三人を見た瞬間、そんな理屈は全部吹き飛んでしまった。
「師匠はどうしたい?」
咲夜が問いかけてくる。
「分からない」
「会いたい?」
「会いたい……けど、怖い」
「うん」
咲夜は静かに頷いた。
「じゃあ、まずはオーディションを見に来る?」
「……私が?」
「うん。スタジオのコントロールルームからなら、ガラス越しにブースの中を見られると思う」
ガラス越し。
直接向き合うわけではない。
こちらの姿を見られるわけでもない。
けれど、同じ場所で、あの三人を見ることになる。
写真ではなく。
資料ではなく。
今を生きている、あの子たちを。
「……いいの?」
「水臭いよ。師匠にどれだけ世話になったと思ってるの」
「……ありがとう」
私は小さく息を吐いた。
「でも、咲夜」
「うん」
「私に気を遣って、判断を甘くしないでほしい」
咲夜は黙ってこちらを見た。
「咲夜の大事な作品だから。演技が合わないなら、ちゃんと落としてほしい」
「……うん」
「私も、できるだけちゃんと見る。見るつもりではいる。でも、たぶん、どうしても私情は入る」
そう言うのが、少し情けなかった。
「だから、私に遠慮しないで咲夜が決めてほしい」
「分かった」
咲夜は短く答えた。
その答え方が、ありがたかった。
大げさに慰めない。
変に励まさない。
でも、ちゃんと隣にいてくれる。
咲夜はそういう人だ。
「このこと、美結さんたちには?」
「……まだ言わない」
「ウタちゃんやヒナちゃんにも?」
「……今は、咲夜だけでいい」
「分かった」
咲夜はすぐに頷いた。
そこに迷いはなかった。
「ありがとう」
「でも、師匠」
「何?」
咲夜は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「向こうは、何も知らないよ」
「……うん」
「柚希ちゃんも、麻友ちゃんも、水瀬リンちゃんも。師匠のことを、綾瀬恭介としては見ない」
「分かってる」
「たぶん、ただの南雲アリサとして見る」
返事が少し遅れた。
咲夜の言いたいことは分かる。
向こうは私を知らない。
柚希と麻友にとって、私はただの南雲アリサだ。
水瀬リンにとっても、命を救った綾瀬恭介ではない。
前世の父親でも、恩人でもない。
ただの中学生。
それを忘れてはいけない。
「それでも、見に行く?」
咲夜が静かに聞いた。
返事は、すぐには出なかった。
向こうは何も知らない。
私のことを、綾瀬恭介としては見ない。
それでも。
「……うん」
声は小さかった。
「見たい」
「分かった」
咲夜は静かに頷いた。
「でも、一人で抱え込まないでね」
「……うん」
「私は知ってるから」
「何を?」
「師匠が、大人の男の人だったこと」
その言葉に、胸の奥が小さく震えた。
「それと、南雲アリサだってことも」
咲夜は静かに言った。
「どっちも知ってる。だから、ちゃんと隣にいるよ」
私は何も言えなかった。
ただ、もう一度だけ頷いた。
前世で置いてきたはずの時間が、知らない場所で、知らない形で続いていた。
私はまだ、その事実をうまく受け止められない。
それでも、目を逸らすことはできなかった。
ファイルの中で、三人は何も知らずに笑っている。
私はその笑顔を、ただじっと見つめた。




