第45話 おっさん、思春期になる
朝の空気は、まだ少しだけひんやりとしていた。
薄暗い街並みを、私は一定のリズムを刻みながら走り抜けていく。
南雲アリサ、十三歳。中学二年生の夏。
毎朝のランニングは、もうすっかり日課になっていた。
体力は裏切らない。歌うにも、長時間の配信にも、なんだかんだで最後に効いてくるのは、こういう地味な積み重ねだったりする。
ただ、この身体で走ることに慣れたかと言われると、少し困る。
足は軽い。息も続く。前世の三十二歳の会社員だった頃より、身体そのものはよほど健康だ。
けれど、走るたびに胸元が重く揺れて、意識の端にいちいち割り込んでくる。
スポーツブラで押さえてはいる。
押さえてはいるのだが、無視できるほど大人しくはしてくれない。
男だった頃なら、きっと別の感想を抱いていただろう。
だが、いざ自分の身体についているとなると、ありがたいどころか、ただの邪魔な質量だった。
揺れる。重い。走りにくい。
美少女というものは、外から眺める分にはたいそう素晴らしいものらしい。
だが、中の人からすると、なかなかどうして面倒くさい。
私は小さく息を吐き、朝焼け前の道を軽く蹴る。
そのまま次のリズムに入ろうとしたところで、背後から情けない声が飛んできた。
「……ま、待って、アリサちゃん……置いてかないでぇ……」
私は苦笑しながら足を緩めた。
振り返ると、完全にへばった様子の咲夜が、電柱にすがりついて肩で息をしていた。
黒瀬咲夜。
彼女とは、もう十年以上の付き合いになる。
私のVの姿を生み出した「ママ」であり、相方であるSA-9YA。
そして、現在は少年誌で連載を持つ売れっ子漫画家でもある。
三十代前半。相変わらずの一人身で男の気配もない。
絵に描いたような引きこもりで、締切前になると睡眠と食事と生活能力を順番にどこかへ置き忘れてくる、だいぶ危うい大人だ。
放っておくと本当に体を壊しそうなので、こうしてできるだけ外へ引っ張り出している。
だが、一向に体力がつく気配はない。
「アリサちゃん……肺が……肺が仕事を放棄してる……」
「肺には最後まで職務を全うしてもらえ」
「漫画家は……手さえ動けば仕事できるから……」
「その手を動かす本体が壊れたら終わりだろ。ほら、あと二百メートル」
「二百メートルって、原稿用紙だと何枚分……?」
「換算するな。余計しんどくなるぞ」
泣き言を言う咲夜の背中を、私は苦笑交じりに軽く叩く。
咲夜をなだめすかして、もう一度ゆっくり走り出した。
今日も一日が始まる。
南雲アリサとしての一日が。
◇
ランニングを終えて自宅に戻ると、私はそのまま浴室へ直行した。
学校へ行く前に汗を流すためだ。
シャワーの冷たい水が、徐々に温かくなっていく。
肌にへばりついた汗を洗い流し、濡れた黒髪をかき上げて、備え付けの大きな鏡の前に立つ。
そこには、十三歳の少女が映っていた。
自分で言うのも変だが、整った顔立ちをしていると思う。
母譲りの黒い髪。
白い肌。
年齢相応の細い手足。
毎朝走っているだけあって、身体は健康的に締まっている。
現実世界で美少女の皮を被って生きていれば、嫌でも分かることがある。
この姿は、目を引く。
道を歩くだけで、以前とは受ける視線がまるで違う。
前世でおっさんだった頃、私は街の背景だった。
誰も私の顔など見なかったし、見られないことが当たり前だった。
けれど今は違う。
とにかく視線が来る。
好意も、興味も、値踏みも、時にはよく分からない感情も。
今はもう慣れた。
それだけの時間を、この身体で過ごしてきた。
「……よし。今日も中学生をやるか」
手のひらで頬を軽く叩き、私は鏡から目を離した。
タオルに手を伸ばし、髪を拭く。
さあ、学校に行く準備をしよう。
◇
ガラガラと小気味いい音を立てて、教室の引き戸を開ける。
夏のまばゆい朝光が差し込む教室内は、登校してきた生徒たちの賑やかな声で満ちていた。
自分の席へ向かうと、ウタがすでに机に頬杖をついて待っていた。
「おはよ、ウタ」
「遅い」
「まだ予鈴も鳴ってないだろ」
「私より後に来たから遅いの」
ウタは涼しい顔で言った。
一ノ瀬詩。
小学生の頃からの付き合いで、今では「ぽえ」という名義で作曲活動をしている、
私の同級生で、親友で、そしてたぶん、私が思っている以上に私のことを見ているやつだ。
あのライブから、もう五年近くが経つ。
その間に、ぽえの名前はずいぶん大きくなった。ネット発の匿名作曲家。顔出しなし。配信なし。本人コメントもほとんどなし。それなのに、提供した曲は妙に耳に残り、歌い手やVや声優に拾われ、気づけば業界内でも知らない者の方が少ない名前になっていた。
ただし、本人は相変わらず表舞台に出る気がない。
表に立つのは曲であって、自分ではない。
ウタはそういう顔で、今日も私より先に教室へ来て、机に頬杖をついている。
本人に「謎の天才作曲家とか言われてるぞ」と教えたら、たぶん嫌な顔をする。
なので言わない。
「おはよー! アリサ、ウタ!」
直後、弾けるような明るい声とともに、教室のドアが勢いよく開いた。
小学生の頃からの三人組、その最後の一人、ヒナだ。
小学生の頃の野性味溢れる暴れっぷりはどこへやら、最近のヒナは驚くほど落ち着いた所作を身につけ始めていた。
歩き方。笑い方。弁当箱を机に置く仕草。
昔の山猿じみた彼女からは想像できないほど、今のヒナはちゃんと女の子らしくなっていた。
発育もいい。
私もそれなりに成長しているが、ヒナは段違いだ。
制服の上からでも分かるほどで、私やウタと並ぶと、その差は嫌でも目に入る。
――などと、うっかり考えてしまったところで、横から冷たい視線が突き刺さった。
「……アリサ」
「待て。私はまだ何も言ってない」
「言ってないだけでしょ」
「心を読むな」
「顔に書いてある」
「そんな高性能な顔をしているつもりはないんだが」
「してる。最低」
「……悪かった」
「だから、何も言ってないのに謝られるのが一番腹立つんだけど」
「詰んでるな、これ」
私が小さく息を吐くと、ウタはふいっと顔を背けた。
もっとも、ヒナ本人はそんな空気にまるで気づいていない。
相変わらず全力の笑顔で、弁当箱を机の上に並べている。
「はい、これ二人の分ね! 昨日の夜から仕込んでた卵焼き、完璧に焼けたんだから!」
ヒナはそう言って、私とウタの机の上に可愛らしい弁当箱を置いた。
彼女の日課は、登校前に高校のグラウンドへ直行し、朝練終わりの彼氏――蓮くんに弁当を届けること。
そして、ついでに私とウタの分、自分の分を合わせた計四人分の弁当を、毎朝せっせと作ってきているのだ。
「いつも悪いね、ヒナ」
「こっちこそ! 材料費全部出してもらっちゃって……」
「いいんだよ。それくらいどうってことないわ」
長年の配信活動でそれなりに貯蓄のある私と、作曲で稼いでいるウタにとって、それくらいの出費は痛くも痒くもない。
それに、昼休みにこの豪勢な弁当を三人で食べるのが、私たちの何よりの楽しみになっている。
「蓮くん、今日も朝練?」
「うん! 大会近いから、いつもより早いんだって。だから今日はおにぎり多めにした!」
「おにぎり多め?」
「朝練の後ってすぐお腹空くでしょ? でも重すぎると授業中しんどいし、今日は塩むすびと鮭。あと卵焼きは甘めにして、鶏むねの照り焼きも入れた。タンパク質、大事だからね!」
ヒナは当然のように言った。
昔は感情のままに走って、飛びついて、暴れていたヒナが、今では好きな相手の練習量と体調に合わせて弁当の中身を考えている。
方向性は変わった。
だが、全力なところは何も変わっていない。
「……通い妻というより、もう栄養管理ね」
ウタが呆れたように言う。
ヒナは照れるどころか、誇らしげに笑った。
「未来の妻だからね!」
「まだ中学生だぞ」
「未来の!」
「そこまで堂々と言われると、こっちが間違ってる気がしてくるな」
ヒナと蓮くんは、すでに「将来は結婚する」と周囲に公言しており、互いの親への挨拶も済ませているという、極めて健全なお付き合いだ。
蓮くんの方も、ヒナの通い妻っぷりをまんざらでもなさそうに受け入れている。
ただ、ヒナの距離感は昔から基本的にゼロ距離だ。
好きな相手には全力で懐く。
世話も焼く。
遠慮も照れも、長続きしない。
だからこそ、見守る側としては少し胃が痛い。
「……蓮くん、大丈夫かな」
「ちょっとアリサ、またその話!」
ヒナが頬を膨らませる。
「その話っていうか、普通に心配なんだよ。ヒナ、好きな相手には距離感おかしくなるだろ」
「おかしくならないもん! ちゃんと考えてるもん!」
「考えてる?」
「そうだよ。蓮くん、最近練習量増えてるから、朝は炭水化物多め。大会前は胃に重くならないようにしてるし、暑い日は塩分も少し多めにしてるし」
「……いや、そういう心配じゃなくてだな」
「え? でも体調管理って大事でしょ?」
「大事だよ。大事だけど、今してるのはその話じゃない」
「じゃあ何の話?」
ヒナが不思議そうに首をかしげる。
私は弁当箱を見ながら、できるだけ真面目な声で続けた。
「いいか、ヒナ。蓮くんは高校生だ」
「知ってるよ?」
「男子高校生だ」
「それも知ってるよ?」
「いいや、ヒナは分かってない。男は狼なんだぞ?」
「言い方が古い」
ウタが即座に刺してきた。
「うるさい。大事な話だろ」
「朝の教室でする顔じゃない」
「どんな顔だよ」
「保護者面」
ウタに言われ、ヒナもぶんぶんと頷く。
「そう! アリサは、ときどきお父さんみたいなこと言うんだから!」
「仕方ないだろ。ヒナは突っ走ると止まらないんだから」
「突っ走ってないもん! 蓮くんの体調とか、練習量とか、ちゃんと考えてるもん!」
「だから、その真面目さと距離感の近さがセットなのが心配なんだよ」
「ええ……?」
ヒナは本気で分かっていない顔をした。
私がため息をつくと、ウタが小さく肩をすくめる。
「見事に話が噛み合ってないわね」
「私は蓮くんの健康の話をしてるんだけど」
「私は蓮くんの理性の話をしてるんだよ」
「りせい?」
「アリサ」
ウタの声が一段低くなった。
「それ以上は、本当に朝の教室でする話じゃない」
「……はい」
私は素直に引き下がった。
ヒナはまだ首をかしげていたが、すぐに気を取り直したように、机の上の弁当箱を軽く叩いた。
「とにかく! 今日の卵焼きは自信作だから、お昼ちゃんと味わって食べてよね!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「……ヒナまでそれを言うのかよ」
「アリサが悪いわね」
教室には、いつもの朝の空気が流れていた。
騒がしくて、少し面倒で、けれど悪くない。
そんな朝だった。




