第44話 野生的直感と、未来の副隊長
三月も終わりに差しかかった土曜日の午後。
俺――南雲アリサは、自分の境遇を心底呪っていた。
「はぁ……はぁ……死ぬ。マジで死ぬ……」
河川敷のグラウンド。膝に手をつき、肺が焼けるような感覚に耐える。
隣では一ノ瀬ウタが、もはや言葉にもならない呻き声を上げながら芝の上に突っ伏していた。
「……ちょっと、ヒナ。あんた……いい加減に……しなさいよ……」
ウタの長い黒髪は砂まみれだ。
事の発端は単純だった。
我らが隊長こと日向陽菜が、河川敷で練習していたサッカークラブに目をつけ、体験させてくれと飛び込んだ。
……そこまではいい。問題はその後だ。
同年代の小学生では物足りなかったらしく、ヒナは中学生たちによるジュニアユースの練習に勝手に乱入し、挙げ句の果てに俺たちまでそのメニューに引きずり込んだのだ。
「ほらほら! 二人ともお休み早すぎ! 隊長についてきてー!」
グラウンドを縦横無尽に駆けまわるヒナの姿は、猛獣の子供としか言いようがない。
俺の体はインドア気味の九歳の女児でしかないのだ。
育ち盛りのアスリートと同じメニューをこなせるわけがない。
ウタに至っては、すでに白目を剥きかけている。
彼女の普段の運動は体育以外だとピアノの鍵盤を叩くことくらいだ。
「ありちー! うーちゃん! 次、ミニゲームやるってー!」
「……勘弁してくれ」
「……殺す気……?」
俺たちの悲鳴をよそに、ヒナは中学生の集団に飛び込んでいった。
あの体力は一体どこから湧いてくるのか。
もはや人類の枠を疑うレベルだ。
◇
ヒナが中学生の輪に混ざっていく姿を、俺たちはグラウンドの隅で眺めていた。
あいつは本当にすごい。
テクニックなんてない。戦術もへったくれもない。
動物的な反射神経と、底なしの体力。そして、恐れを知らない突進力。
それだけで、自分より遥かに大きな連中の間を縫うように走り抜けていく。
ボールを奪い、一人、二人と抜き去り、ゴール前まで突っ込む。
シュートは枠の上に飛んでいったが、周囲の選手から「おお!」とどよめきが上がった。
――と、そこへ。
「おい、ちょっと」
不機嫌な声が、ヒナの前に立ちはだかった。
中学生の少年だ。長い手足に、無駄のない引き締まった体躯。
ユニフォームの左腕にはキャプテンマークが巻かれている。
整った顔立ちだが、今は眉間に皺を寄せ、明らかに苛立った表情をしていた。
「さっきから好き勝手に走り回ってるけど、ここは子供の遊び場じゃないんだ」
「え?」
「俺たちは大会前の調整で場所を借りてる。子供がふらっと入ってきて荒らされると迷惑なんだよ。わかる?」
言葉こそ丁寧だが、突き放すような冷たさがあった。
周囲の空気が少し張り詰める。
俺は反射的に腰を浮かせた。ヒナを庇わないと――
だが、当のヒナは平然としていた。
「ごめんね! でも、すっごく楽しかったから!」
怒られているのに、太陽のような笑顔。
少年が毒気を抜かれたように面食らう。
「学校だと本気を出したら危ないって怒られちゃうけど、ここなら全力出せるし、出しても勝てないんだもん!」
戦闘民族みたいな台詞を、一点の曇りもない笑顔でさらっとのたまうヒナ。
少年がちょっと引いている。
「私はヒナ! お兄ちゃんは?」
「……は?」
「お名前!」
「…………蓮」
半ば呆れるように答える少年。
ヒナはぱっと顔を輝かせた。
「蓮ちゃん! 蓮ちゃんってすっごいうまいね! さっきのドリブル、カッコよかった!」
「ちゃんづけやめろ……つーか、褒められたって発言は撤回しねぇからな」
「じゃあ、勝負しよっ!」
「はぁ?」
「ヒナが勝ったら一緒に遊ぶ。蓮ちゃんが勝ったら帰る!」
「だからちゃんづけ――」
「ね! いいでしょ蓮ちゃん!」
周囲がざわついた。
小学生の女の子が、ジュニアユースの主将に一対一を挑んでいる。
蓮は額を押さえ、深く溜息をついた。
完全に面倒くさいものに絡まれた顔だ。
「……わかった。一本だけな。お前が抜けたら勝ちでいい……それで帰れよ」
◇
向かい合う二人。
だが、蓮の構えには明らかに隙があった。
年下の女子相手に本気を出すつもりはないのだろう。
適当にあしらって追い返そうとしているように見えた。
「……うちの隊長を舐めない方がいいぜ」
「なんであなたがドヤ顔なのよ……」
隣で復活したウタが、ジト目でツッコミを入れる。
「さすがに中学生男子は厳しいんじゃないかしら?」
その言葉が終わる前に、ヒナが動いた。
低い姿勢から、弾丸のように飛び出す。
蓮の右側を最短距離で抜こうとする。
速い。
同年代なら確実に置き去りにする速度だ。
だが、蓮の反応はさらに鋭かった。
体を入れ替え、長い足で軽々とボールをカット。
ヒナの突進をあっさりといなしてみせた。
「……え?」
ヒナが目を丸くする。
自分の速さが通じなかったことへの、純粋な驚愕。
「はい終わり。約束だ――」
「もう一回!」
ヒナは聞いていなかった。
猛然とボールを追う。
今度は左。さっきよりさらに速い。
だが、蓮は動じなかった。
ヒナの軌道を読み切り、最小限の体重移動だけでボールを奪う。
「もう一回!」
三度目。右。止められる。
四度目。ヒナはフェイントを織り交ぜるが、やはり止められる。
蓮は手を抜いている。それでも、抜けない。
年齢、性別、経験、読み。
才能だけでは超えられない壁がそこにはあった。
だが、ヒナの瞳は死んでいなかった。
むしろ、回を重ねるごとに、その動きは研ぎ澄まされていく。
「こいつ……止められるたびに動きがよくなってる!?」
五度目。
ヒナは深く右に踏み込んだ。蓮が反応する。
いつもの体重移動。それを予見していたかのように、ヒナは急停止をかけた。
蓮の重心が、一瞬だけ右に流れる。
そのわずかな隙を、ヒナは獣のような加速で突き抜けた。
「――っ!?」
蓮の手が空を切る。
ヒナはそのままゴール前まで独走し、渾身の力でボールを蹴り込んだ。
パサり、とネットが揺れる。
周囲に沈黙が降りた。
「うっそだろ……」
ギャラリーの中学生たちから、戸惑いの混じった声が漏れる。
当の蓮はといえば、金縛りにあったように動けずにいた。
今のは、偶然なんかじゃない。
蓮の動きを短時間で学習して、パターンを読んだのだ。
理屈じゃない。
本能的な感覚だけで、これができてしまうのが、ヒナの恐ろしいところだ。
「やった! 抜けた! 蓮ちゃん、もう一回!」
ヒナは汗だくの顔で、満面の笑みを浮かべている。
蓮はしばらくヒナの顔を見つめ、それからふっと笑った。
さっきまでの苛立ちは、もうどこにもなかった。
「……面白い。もう一本やるか」
蓮の構えが変わった。
重心が低くなり、視線が鋭くなった。
さっきまでとは、明らかに別人だ。
――本気だ。
ヒナが、にっと笑った。
次の瞬間、二人が同時に動いた。
ヒナは、さっきと同じ手は通じないことを本能で悟ったのだろう。
左に大きく振ってから内側に切り込む。野生の勘が、蓮の重心の揺らぎを嗅ぎ取ろうとする。
だが、本気の蓮は読ませなかった。
ヒナの切り返しに、流れるような動作で体を合わせ――
抜いた。
ヒナではない。蓮が、だ。
彼はヒナの横を、風のようにすり抜けていった。
反射神経の塊であるヒナが、一歩も動けなかった。
見えていたのに、体が反応できなかったのだ。
ゴールネットが揺れる乾いた音が、河川敷に響いた。
ヒナは、抜かれた姿勢のまま固まっていた。
蓮が振り返る。汗をぬぐい、少しバツが悪そうに頭を掻いた。
「……悪い。大人げなかった。怪我はなかったか?」
だが、ヒナは差し出された手を取らなかった。
その場に立ち尽くしたまま、蓮の顔をじっと見上げている。
顔が、真っ赤だった。
怒りではない。悔しさでもない。もっと根源的な何か。
「決めた!!」
ヒナは蓮の両手をガシッと掴んだ。
凄まじい握力に、蓮が「痛っ!?」と顔をしかめる。
「ヒナと、けっこんしよ!」
蓮の顔から、一気に血の気が引いた。
「は――はぁ!?」
さっきまでの余裕が、一瞬で消し飛ぶ。
「ちょ、待て、何言って――」
「蓮ちゃんが勝ったから、ヒナをあげる!」
「いや、いらねーから!?」
「蓮ちゃんは私の旦那様! ずっとヒナが一緒にいてあげる!」
「冗談はよせ! 俺は小学生なんかと付き合わねーよ!?」
蓮は完全にパニックに陥っていた。
整った顔を歪ませ、助けを求めるように周囲を見回す。
だが、チームメイトたちは腹を抱えて爆笑しているだけで、誰も助けに来なかった。
◇
帰り道。
夕焼けに染まった河川敷を、三人で歩いていた。
ヒナは蓮からもぎ取った――もらった、とは到底言えない――練習用ビブスを、宝物のように抱きしめて、上機嫌で鼻歌を歌っている。
対照的に、俺の表情は険しかった。
「……ねえ、アリサ」
「……ああ」
「なにをそんなに難しい顔をしてるの?」
「……あの歳の男を、信用しすぎるのは危ない。たとえ悪い奴じゃなくても、だ」
中学生男子なんて、性欲と衝動に支配されている生き物だ。
蓮は今日の様子を見る限り、理知的な少年だと思う。
だが、真っ当であっても男は男なのだ。
「それは、あなた自身の経験からくる言葉かしら?」
「……まあ、否定はしない」
俺が少しバツが悪そうに返すと、ウタは意地悪く口角を上げた。
「でも、私は大丈夫だと思うわ。あの子の直感が外れたことなんて一度もないもの」
「……それはそうかもだけど」
ヒナの野生的直感は、理屈を超えたところで人の本質を射抜く。
その嗅覚は、小手先の理屈で動く俺やウタよりよっぽど確かなものだ。
「でもな、本能のまま身を任せていいってことにはならないだろ。現代社会は、その暴走を教育や理性で抑えて成り立ってるんだから」
「随分と小難しいことを言うわね……で、本能に任せるとどう大変なことになるの?」
「その……望まないのに子供ができたりとか」
「……心配しすぎでしょ。このむっつりスケベ」
ウタの冷ややかな視線を浴びていると、前を歩いていたヒナが勢いよく振り返った。
「ねーねー! 来週もあのグラウンド行こうよ! 蓮ちゃんに会いに!」
「……蓮ちゃんて呼ぶな、って本人に言われてただろ」
「えー、だって蓮ちゃんは蓮ちゃんだもん! あ、それでね! お弁当作って持っていくんだ!」
「弁当? お母さんに頼むのか?」
「ううん、自分で作る! ヒナは蓮ちゃんのお嫁さんだからね!」
一点の曇りもない、本気の目。
ヒナは決して口だけじゃない、本当にお玉を握って台所に立つだろう。
今朝まで恋愛のれの字もなかったのに、変わりように驚愕する。
少し早すぎるヒナの巣立ちの気配。
そこで不意に思い浮かんだのは、前世の娘たちの姿だった。
彼女たちは今、蓮と同じくらいの年齢になっているはずだ。
……もう、隣に彼氏がいてもおかしくない歳か。
そう考えると、胸の奥がチリチリと焼けるように痛む。
将来はパパと結婚する――。幼い頃に言っていた言葉を間に受けている訳じゃない。
でも、いざその日が来るのを想像するだけで、これほどまでに耐え難いものだとは。
推しの交際に発狂するユニコーンの気持ちが少し理解できた気がした。
「……どうしたの? また変な顔してるわよ」
「……いや、なんでもない」
子供たちが育つのは、俺が思っているよりずっと早い。
夕闇に消えていく楽しそうなヒナの背中を眺めながら、俺はただ、届かない祈りのような溜息を吐き出した。




