第2話 問題だらけの母と、死にかけの女児(オレ)
自分が女であると気づいたのは、生後一ヶ月を過ぎた頃だった。
ぼんやりとした視界が少しずつ焦点を結び、くぐもっていた音の輪郭が、かすかに聞き取れるようになった頃。美結が俺を風呂に入れながら言った言葉が、初めてはっきりと意味を持って脳に届いた。
「アリサちゃんは女の子だから、綺麗にしてあげないとねぇ」
女の子。
その三文字が理解できた瞬間、俺は湯船の中で固まった。
自分の体を見下ろす。
見下ろせるほど視力はまだ育っていなかったが、ぼやけた肌色の塊を見て、少なくとも一つだけわかったことがある。
あるべき場所に、あるべきものが、ない。
三十二年間連れ添ってきた相棒が――いない。
俺は泣いた。
美結は「あらあら、お湯熱かったかなぁ?」と呑気に温度を調整していた。
……こうして、俺の二度目の人生は、想像を絶するスタートを切ったのだった。
◇
今生の母親である南雲美結は、男好きする容姿と雰囲気を持った女性だった。
派手すぎるわけではないが、どこか隙があり、人懐っこい笑顔をする。
放っておけない、という言葉がよく似合う。
一人の女性として見れば、正直かなり魅力的だ。
だが――母親として見た場合、その評価は真逆になる。
もっとも、頭ごなしに責めるのは酷なのかもしれない。
今生の我が家は母子家庭で、美結はいわゆるワンオペ育児を強いられていた。
しかも、彼女には育児について相談できる相手もいない。
両親とは疎遠で、親しい相手に子持ちはいない。育児書を読み込むタイプでもなく、なんとかなるでしょが基本姿勢の人間だ。
後で聞いた話だが、美結は生き物を飼った経験もないらしい。
唯一育てたことがあるのはサボテン。
それも、水をやりすぎて根腐れさせたという。
ある日には、俺への土産として、はちみつたっぷりのケーキを買ってきたこともある。ゼロ歳児に与えていいものではない。
名前の付け方も、なかなかに攻めている。
俺の今生の名前は、南雲亜璃紗。
読みこそ普通だが、漢字が完全に暴走族だ。
「かわいくて、かっこいいでしょ!」
ノリで決めたらしい。
将来、履歴書に書くことを考えると、正直かなり不安だ。
美結は悪い人間ではない。
ただ、生活の先を想像するのが、致命的に苦手なのだ。
そして何より、当時の俺は赤ん坊だった。
泣くことしかできない。
不快でも、苦しくても、痛くても、意思表示はすべて泣くことに集約される。
それが空腹なのか、オムツなのか、体調不良なのかの判断は、完全に相手任せだ。
しかも、俺自身のコンディションも最悪だった。
視力も聴力も未発達で、前世の記憶があっても世界の情報がほとんど入ってこない。
CPUだけ高性能で、入出力装置が未熟な機械を動かしているようなものだ。
結果として、俺は何度も死にかけた。
意味のある言葉を話せるようになったのは、生後八ヶ月を過ぎた頃。
それまでに、少なくとも四回は、これは本気で危ないという局面があった。
普通の赤ちゃんだったなら、そのどれかで死んでいただろう。
特にきつかったのは、長時間の放置だった。
美結は悪気なく出かける。
「ちょっとコンビニ」「すぐ戻るから」
そんな軽い調子で出ていく。
だが、そのすぐは平気で半日になり、時には丸一日になる。
重くなったオムツ。
肌に張りつく湿り気。
ひりつく尻。
乾いていく喉と、空っぽの胃。
泣いても、誰も来ない。
前世でも経験したことのなかった切実な飢え。
腹が減って、思考が鈍っていく感覚。
排泄物にまみれたまま、身動きが取れない恐怖。
大人であれば、自分でどうにかできる。
だが、この体では無理だ。
自分のことをなんでもできるのが当たり前だったからこそ、自分ひとりでは何もできない恐怖。
世界が、不快と苦痛で塗り潰されていく。
あのときは、本気で死を意識した。
必死に這い回るなかでテーブルクロスの端を引っ掛け、偶然、飲みかけの水が入ったペットボトルが落ちてこなければ、俺の二度目の人生は早々に終わりを告げていただろう。
そんな生活を続けるうちに、俺は悟った。
この母親に察してもらうのは無理だ。
ならば――自分から説明するしかない。
一歳になり、単語を繋げて話せるようになった頃。
俺は覚悟を決めた。
「……みゆき。おはなし、ある」
自分の中身が大人の男であること。
前世のこと。
事故のこと。
……ある意味、罪の告白とも言える。
信じてもらえるとは思っていなかった。
最悪、精神科へ連れて行かれるか、気味悪がられて拒絶される覚悟すらしていた。
だが、美結の反応は拍子抜けするほどあっけらかんとしていた。
「……なるほど。だからかぁ」
驚きはしていても、否定はしない。
むしろ、妙に腑に落ちたような顔をしていた。
「物分かりが良すぎると思ってたのよね」
いくら育児経験がないとはいえ、九ヶ月で歩きだし、即座にオムツを卒業し、レトルトの離乳食を自分で用意して食べる幼児なんて、普通ではないと薄々感じていたらしい。
「腹を痛めて産んでくれたのに、中身がおっさんで申し訳ない」
俺はいたたまれなさから、深々と頭を下げた。
「むしろ助かる……かな? 何を考えているか分からない赤ちゃんより、おじさんの方が分かりやすいし」
そう言って、美結は少し考えるように間を置いた。
俺の顔と、その小さな体を改めて見下ろして――
「あ、なるほど」
クスッと小さく笑った。
「アリサちゃんがおっぱい大好きな理由、わかっちゃった」
「ち、ちが――」
ただの栄養摂取行為だ。やましい気持ちなんてない。
生きるために必要だから求めているだけだ。
「中身がおじさんなら、そりゃそうよね」
美結はそう言って、深く考え込む様子もなく、俺を抱き上げた。
「じゃあ、ほら。飲みましょうね」
「ま、まって――」
抗議は、途中で途切れた。
この体は、抱き上げられると自然に力が抜けてしまう。
慣れた姿勢と温もり。心地よい匂いに包まれる。
理性では分かっている。
説明するべきことは山ほどあるし、言い訳もしたい。
だが、それより先に、身体が理解してしまった。
空腹が満たされていく感覚。
「……はいはい。落ち着いたねー」
美結は、赤子をあやすように俺を扱う。
俺は何も言わなかった。
言葉よりも先に、心拍が静まり、意識が穏やかになる。
理屈は、役に立たない。
赤子は、母親の腕の中で安堵するようにできている。
これは、決して抗えない本能なのだ。




