第1話 おっさん、女児になる
世界は暗闇に包まれていた。
意識も記憶も混濁していて、まるで、深い海の底にいるかのようだ。
名前……俺の名前はなんだっけ。
そうだ、恭介。綾瀬恭介だ。
地方の企業でしがないサラリーマンをしている三十二歳。
……俺は何をしていたんだっけ?
脳裏に思い浮かんだのは幼い少女の姿。
ボールを追って道路に飛び出す。
迫りくるトラック。
そして、駆け出す俺。
……ああ、そうか。
俺は事故に遭ったのか。
相当重症なのだろう。まるで身動きができない。
目を開けようとしても瞼は開かず、耳はくぐもっていて意味のある音は聞き取れなかった。
体を丸めて、お風呂の中に沈んでいるような感覚。
……あの少女は助かったのかな?
下の娘と同じくらいの歳の子だった。
今の俺に、それを知る術はない。無事を祈るばかりだ。
それにしても、家族に悪いことをしてしまった。
俺には最愛の妻と、可愛い二人の娘がいる。
きっと、みんな心配しているに違いない。
回復したら、まずは謝らないと。
そう思いながら、じっとその時が来るのを待った。
幸い体の痛みはなかった。
だが、何日経っても、俺の意識がはっきりと覚めることはなかった。
体は動かない。
正確に言えば、わずかに動く感覚はある。
けれど、狭い空間に閉じ込められているようで、手足もろくに伸ばせず、身動きが取れない。
助けを呼ぼうにも、声が出なかった。
それでも、不思議と不安や焦燥は感じなかった。
常に抱きしめられているような安心感があり、微睡んでいるかのような、ぼんやりとした感覚が続く。
寝ているのか、起きているのかも曖昧だ。
漂うクラゲのように、意識だけが時折、水面へと浮かび上がってくる。
どれほど時間が経ったのだろう。
昼か夜かもわからない。
家族との思い出を脳裏で反芻しながら、穏やかな時間を過ごしていた。
柚希の入学式。ぶかぶかのランドセルを背負って、得意げに振り返った笑顔。
麻友が初めて「パパ」と呼んでくれた日の、あの声。
華が毎朝、玄関で結んでくれていたネクタイの、少しだけきつい結び目。
どれもこれも、取るに足らない日常の欠片だ。
だが、暗闇の中ではそれだけが光だった。
――早く帰りたいな。
心からそう思った。
あのちゃぶ台の狭い食卓に戻りたい。
娘たちの勉強を見てやりたい。
華の味噌汁が飲みたい。
だから俺は、待ち続けた。
目が覚める日を。体が動く日を。
家族のもとへ帰れる日を。
その静寂は、ある日突然終わりを告げた。
周囲を満たしていた温もりが、布団を剥がされるように消えて、次の瞬間、頭から窮屈な場所へと押し込まれた。
全身を万力で締め付けられるような激痛。
不安と恐怖で、完全にパニックに陥った。
しばらく続いた責苦は、不意に終わりを告げた。
そして俺は、明るい場所へと放り出された。
視界はぼんやりとしていて、耳もほとんど役に立たない。
恐怖に突き動かされ、声を上げようとしたが――
「ふにゃあ、ふにゃあ」
頼りない音しか出なかった。
何かがおかしい。
体が動かないのではない。動くのだが、思い通りにならない。
指を握ろうとすると、手全体がぎゅっと丸まる。足を伸ばそうとすると、膝から下がばたばたと暴れるだけだ。
まるで、操縦桿の壊れたロボットに乗っているような感覚。
ぼやけた視界の中に、巨大な影が動いた。
白い何か。人の形をしている。だが、やけに大きい。
天井も、照明も、何もかもが遠い。
――違う。大きいんじゃない。俺が、小さいのか。
柔らかい布に包まれる感触。
温かい腕に抱き上げられる浮遊感。
誰かの声が聞こえる。だが、水の中で聞いているように歪んでいて、言葉としては何も拾えなかった。
わかったのは、それだけだ。
俺は混乱の渦の中で、再び意識を手放した。
――結論から言うと、俺は死んでいた。
そして、この瞬間に、二度目の生を迎えたのだった。




