第2話 問題だらけの母と、死にかけの女児(オレ)
今生の母親である南雲美結は、男好きする容姿と雰囲気を持った女性だった。
派手すぎるわけではないが、どこか隙があり、人懐っこい笑顔をする。放っておけない、という言葉がよく似合う。
一人の女性として見れば、正直かなり魅力的だ。
だが――母親として見た場合、その評価は真逆になる。
もっとも、頭ごなしに責めるのは酷なのかもしれない。
今生の我が家はいわゆる母子家庭で、美結には育児について相談できる相手がいなかった。両親とは疎遠で、友人にも子供持ちはいない。育児書を読み込むタイプでもなく、「なんとかなるでしょ」が基本姿勢の人間だ。
この人のだらしなさは、生まれつきと言っていい。
たとえば、サボテンを枯らしたことがある。
水をやりすぎて根腐れさせたらしい。
「植物って難しいよね」と笑っていたが、世話が必要な存在を継続的に管理するのが苦手なのだと、その時点で察するべきだったのかもしれない。
ある日には、俺への土産として、はちみつたっぷりのケーキを買ってきたこともある。
一歳児に与えていいものではない。
そう伝えると、「かわいいと思って」と悪びれずに返された。
名前の付け方も、なかなかに攻めている。
俺の今生の名前は、南雲亜璃紗。
読みは普通だが、漢字が完全に暴走族だ。
「かわいくて、かっこいいでしょ!」
ノリで決めたらしい。
将来、履歴書に書くことを考えると、正直かなり不安だ。
美結は悪い人間ではない。
ただ、生活の先を想像するのが、致命的に苦手なのだ。
そして何より、当時の俺は赤ん坊だった。
泣くことしかできない。
不快でも、苦しくても、痛くても、意思表示はすべて「泣く」に集約される。
それが空腹なのか、オムツなのか、体調不良なのかは、完全に相手任せだ。
しかも、俺自身のコンディションも最悪だった。
視力も聴力も未発達で、前世の記憶があっても、世界の情報がほとんど入ってこない。
高性能な思考回路を、壊れかけの入力装置で動かしているようなものだ。
結果として、俺は何度も死にかけた。
意味のある言葉を発せるようになったのは、生後八ヶ月を過ぎた頃。それまでに、少なくとも四回は「これは本気で危ない」という局面があった。
正直に言えば、普通の赤ちゃんなら、そのどれかで死んでいる。
特にきつかったのは、長時間の放置だ。
美結は悪気なく出かける。
「ちょっとコンビニ」「すぐ戻るから」という軽い感覚で。
だが、その「すぐ」は平気で半日になり、時には丸一日になる。
重くなったオムツ。
肌に貼りつく不快感。
乾いていく喉と、空っぽの胃。
泣いても、誰も来ない。
前世では、一度も経験したことがなかった。
腹が減って、どうしようもなくなる感覚。
排泄物にまみれたまま、身動きが取れない恐怖。
大人であれば、「我慢すればいい」「あとでどうにかなる」と理性で処理できる。
だが、この体では無理だ。
世界が、「不快」と「苦痛」だけで塗り潰される。
あのときは、本当に危なかった。
必死に這い這いして、偶然ミルクに辿り着けなかったら、今ここに俺はいない。
そんな生活を続けるうちに、俺は悟った。
この人に「察してもらう」のは無理だ。
なら――自分から説明するしかない。
一歳になり、単語を繋げて話せるようになった頃、俺は覚悟を決めた。
「……みゆき。おはなし、ある」
前世のこと。
事故のこと。
中身だけ大人であること。
ある意味、罪の自白だった。
信じてもらえるとは思っていなかったし、最悪、病院に連れて行かれる覚悟もしていた。
だが、美結の反応は予想外だった。
「……なるほど。だからかぁ」
驚きはしたが、否定はされなかった。
むしろ、妙に納得した顔をしていた。
九ヶ月で歩き、即座にオムツを卒業し、レトルトの離乳食を自分で用意して食べる幼児。
普通ではない。
そう言われれば、確かにそうだ。
俺は申し訳なさから謝罪した。
生まれてきた子供の中身がおっさんで、本当にごめんなさい、と。
「むしろ助かる……かな? 子供より、おじさんの方が考えてることわかりやすいし」
そう言って、美結は少し考えるように間を置いた。
俺の顔と、その小さな体を改めて見下ろして――
「あ、なるほど」
クスッと小さく笑った。
「アリサが授乳大好きな理由、わかっちゃった」
一瞬、言葉に詰まった。
確かに、暴れてはいなかった。
泣き叫ぶより、まず生きる方を優先していただけだ。
「中身がおじさんなら、そりゃおっぱい好きだよね」
美結はそう言って、深く考え込む様子もなく、俺を抱き上げた。
「じゃあ、ほら。飲みましょうね」
「ま、待って――」
抗議は、途中で途切れた。
この体は、抱き上げられると自然に力を抜いてしまう。
慣れた姿勢と、近い温もりに触れた瞬間、呼吸が落ち着いていくのが分かった。
理性では分かっている。
説明するべきことは山ほどあるし、言い訳もしたい。
だが、それより先に、身体が理解してしまった。
空腹が満たされていく感覚。
胸の奥まで届く、根拠のない安心感。
世界が少しだけ、安全な場所に戻る。
これは嗜好でも、選択でもない。
赤子の体が、生きるために当然のように求める反応だ。
「……はいはい。落ち着いたねー」
美結は、いつも通りの調子でそう言った。
俺は何も言わなかった。
言葉よりも先に、心拍が静まり、意識が穏やかになる。
理屈は、ここでは役に立たない。
この体は、母親の腕の中で安堵するようにできている。
それが事実だった。
告白してから、美結は変わった。
正確に言えば、「説明しなくなった」。
外出の理由を詳しく話さなくなり、帰宅時間も曖昧になった。
準備も確認も減り、「亜璃紗なら分かるでしょ」で済まされることが増えた。
それは信頼だったのだろう。
同時に、判断と責任の丸投げでもあった。
レトルトの離乳食を食べ、水を飲み、最低限の自己管理ができる。
だから問題ない、という判断。
本来なら、絶対にアウトだが。
もっとも――
中身はアラフォーのおっさんだ。
一人で留守番くらいはできる。
――少なくとも、その時の俺は、そう思っていた。
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