6@9.もう一つの世界線
薄暗い境界の空間で、アスクは九尾の狐と対峙していた。
狐がその手をアスクの頭へかざした瞬間、あまりにも生々しい「別の世界線」の記憶が、濁流となって脳内へと押し寄せた。
――それは、もう一つの世界における、自分のぶざまな足跡だった。
アスクの脳裏に、自分が辿ってきた堕落の足跡が、走馬灯のように鮮明に蘇る。
誇り高く冒険者として出発した最初の1年間、アスクは誰よりもストイックだった。泥をすすり、睡眠時間を削り、文字通り死に物狂いで修練に励み続けた。その努力は実を結び、若手の中では群を抜く実力を手にしていたはずだった。
だが、そんな彼を狂わせたのは、あまりにも過酷な1年間の反動と、旅先で出会った、ほんの些細な「甘い誘惑」だった。
一度の勝利の祝杯。そこで出会った、自分を全肯定して甘やかしてくれる、都合のいい女の子の柔らかい肌と心地よい言葉。
「たまには、これくらいのご褒美があってもいいじゃない」
その囁きに身を委ねた瞬間、アスクの張り詰めていた糸が、プツリと切れた。
厄介だったのは、彼が群を抜く実力と、あまりに高い知性を持っていたことだ。その天才的な頭脳が「甘い誘惑」と噛み合わさった時、最悪の化学反応が起きてしまう。
アスクの優秀な頭脳は、あろうことか「いかに効率的にサボるか」という方向へとフル回転を始めた。
「これまでの貯金(実力)を考慮すれば、1日30分の基礎鍛錬だけで現在のパフォーマンスは維持できる。残りの時間はすべて娯楽に割くのが、人生の幸福度において最も『効率的』な計算だ」
そうやって自分を納得させると、彼は旅先で次々と女の子を引っ掛けることすらもシステム化していった。最短の手間と軍資金で女の警戒心を解くルーティンを確立し、周囲にサボっていることを悟らせないよう、いかに「必死に鍛錬している風」のポーズを効率よく取り繕うか――。
そんな歪んだ効率主義の泥沼に溺れているうちに、かつて硬かった手のひらの肉は柔らかくふやけ、魔力の巡りは澱んでいった。
天才ゆえに、数値上の「サボる効率」の辻褄を合わせ続けてしまった。だからこそ、自分の本質的な実力が、すでに中途半端な「過去の遺物」へと成り下がっているという残酷な事実から、彼は最後まで、完全に目を背け続けていたのだ。
とある下層部ダンジョン。突如として牙を剥いた絶望的な脅威を前に、中途半端な己の力では、仲間の悲鳴を止めることすらできなかった。ただ最愛の者たちが無惨に散っていくのを絶望の中で見つめ、自らもまた、無力なまま命を落とす――。【※詳細は第一話へ】
くそッ、悔しい。こんなことなら、もっと、死に物狂いで修練をしておけば良かった。
そんなドス黒い後悔だけを胸に、その世界線は静かに、だが確実に崩壊し、消えていく……。
――いや、まだ終わっていない。
次に気がついた時、アスクは闇の中で、確かにあの九尾の狐と何かを話し合っていた。
狐の細められた眼光が、アスクの魂をじっと見据えている。何かを約束したような気もするし、決定的な警告を受け取った気もする。血を吐くような凄絶な会話を交わしているはずなのに、なぜか言葉の意味だけが、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように頭から抜け落ちていく。
思い出せない。何か、途方もなく重要なことを話しているはずなのに――。
抗う間もなく、急速に意識が遠のいていく。
狐の瞳が闇の奥へと遠ざかり、世界の輪郭が融解していく感覚の中で、アスクの精神は現実の肉体へと引き戻されていった。
「――っ!」
凄絶な死の夢から弾き出されるように、アスクは強烈な悪寒とともに跳び起きた。額からは冷や汗が滴り、心臓が早鐘を打っている。
エターナル・フロウのとある宿。
バクバクと五月蝿い心音の向こう側から、しんと静まり返った現実の音が聞こえてきた。
窓の隙間から差し込む、冬の冷たく、けれどどこか救われるような青白い薄明かり。それが、アスクの脳裏にこびりついていた血と闇の光景を、容赦なく、そして鮮やかに塗り替えていく。
部屋の隅に置かれた温泉熱の湯のぼりからは、白く細い湯煙がゆったりと立ち上り、冬の乾いた空気を微かな温もりで満たしていた。夢の中の戦場はあんなに冷たく、乾いた鉄の匂いがしていたのに、今、自分の鼻腔を満たしているのは、かすかな硫黄の香りだ。
アスクは自分の手のひらをじっと見つめた。
窓外の朝靄に照らされたその手は、まだ五体満足で、確かに温かい血が通っている。
「……夢だったのか…」
掠れた声で呟いた、その時だった。
カチャリ、と静かに部屋の木扉が開き、廊下の暖かな光が室内に差し込んだ。
「おやおや、ひどいうなされようじゃな。蛇の毒がまだ残っておるのか?クロエもそわそわしておったぞ」
心配そうに長い耳を近づけてくるのは、杖を突いたトッポだ。朝一番の温泉にでも浸かってきたのか、その体からはわずかに温かい湯気が立ち上っている。
アスクは荒い息のまま、トッポを見つめ、それから周囲をゆっくりと見回した。
「ちょっと、トッポ! 誰がそわそわしてるって言うのよ!」
そこに立っていたのは、やはりというべきか、美しくもどこか不機嫌そうに眉をひそめたクロエだった。その背後からは、心配そうに耳を伏せたアズインがひょこりと顔を覗かせている。
「アスクさま、本当に大丈夫ですか……? ゆうべ、うなされて大きな声出してたから、わたしもクロエさんもずっと心配で……」
「ア、アズイン、余計なことを言わないでちょうだい! 私はただ、この宿の廊下が冷えるから、歩き回って体を温めていただけよ!」
クロエが顔を赤くしてアズインの言葉を遮るが、その指先は、まだアスクの身を案じるようにきつく組み合わされている。
クロエはツカツカとアスクのベッドサイドまで歩み寄ると、その顔をじっと覗き込んだ。
「……なによ、その顔。寝汗で髪はボサボサだし、ちっとも美しくないわ。本当に蛇の毒は抜けたの? 私を庇って死にかけただなんて、後味の悪い真似だけは絶対に許さないんだからね」
ツンとすました口調。だが、その瞳は、昨日アスクが目の前で血を流した瞬間の恐怖をまだ引きずっているかのように、微かに揺れていた。
アスクは荒い息を整えながら、自分を覗き込むクロエの銀髪と、その一歩後ろで控えるアズインの姿を凝視した。
脳裏に焼き付いた「同盟が壊滅する記憶」。あの凄惨な光景のなかにいた顔ぶれと、今、目の前にいる仲間たち。
(……やはり、何かが決定的に違う)
あの記憶の中で、血を吐きながら自分に声をかけていたのは、確かに聞き覚えのある老いた声だった。だが、どれほど記憶の糸をたぐり寄せても、あの絶望の戦場に、この美しい銀髪のエルフも、俊敏な獣人の娘も、存在していた形跡がどこにもなかったのだ。
それとも、自分が中途半端だったせいで、出会う前に――。
考えた瞬間、背筋に冷たい刃を突きつけられたような戦慄が走る。
アスクが放った一瞬の、しかしあまりにも深く鋭い「拒絶と執着」の気配。それを、獣人族としての本能で真っ先に察知したのはアズインだった。アズインの尻尾がピんと強張る。
「……アスクさま? なんだか、すごく……怖い目でわたしたちを見てる。本当に、ただの悪い夢……?」
不安げに覗き込んでくるクロエの瞳が、エターナル・フロウの湯煙に揺れる。
アズインの怯えるような呟きに、クロエもハッとして言葉を詰まらせた。アスクの瞳の奥にある、狂気にも似た暗い光に圧倒されたのだ。
アスクはふう、と深く息を吐き出すと、まだ恐怖で微かに震える手を強引に握りしめた。
あの光景がただの悪夢であろうと、別の可能性であろうと関係ない。一歩でもサボれば、何かが狂う。その確信だけが、冷徹に脳に居座っていた。
「……なんでもない。ただの、非効率な夢だ。体調に問題はない。すぐに発つ」
アスクは布団をはね除け、いつもの無表情に戻って立ち上がる。
「ちょっと、待ちなさいよ! そうやって仮面を被って逃げるんだから。その何でもないが一番怪しいって、なんで気づかないのよ!」
不満げに追いかけてくるクロエの声を聞きながら、アスクは心の中で静かに誓う。
二度と、あの結末の境界線を越えさせはしない。
たとえ効率の化け物と罵られようとも、この手の中にある全てを守り抜くため、強さへの探求の歩みを、アスクは絶対に止めない。
■閑話:湯煙作戦会議
激しい雪中行軍、霜薔薇の抱き木との死闘、そして採石場での緊張感から解放され、せっかくの温泉地ということで、今夜は全員で温泉に浸かって旅の疲れを癒やすことになった。
男湯の暖簾の向こう。たっぷりと注がれた湯船からは、白く濃い湯煙が天井へと立ち上っている。
アスクが首まで湯に浸かり、冷気と毒の残滓で強張っていた身体の筋肉が弛緩していくのを感じていると、隣から「おい、アスク」と、信じられないほど真剣な声が降ってきた。
湯気の中から現れたルークとユノーは、まるでこれから敵の本陣に夜襲をかけるかのような、ただ事ではない面持ちで並んでいた。
「……なんだ、その顔は。未開のダンジョンにでも行こうって言うのか?」
アスクが淡々と問い返すと、ルークはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、男湯と女湯を隔てる高い板塀を指さした。
「ある意味、未開の地へ足を踏み入れるんだ。いいかアスク、ここは『湯煙の擬態蛇』の生息地だ。さっきは町のすぐ近くまで出てきた。ってことは、女湯の岩陰に奴らが潜んでる可能性は十二分にある。つまり、あっちの防衛線は今、極めて脆弱な状態にある!冒険者として、これを看過して素通りするなんて選択肢、これから一流冒険者になる俺達にはない!」
「まさかアスク、君は『湯煙の擬態蛇』に怯えて、傷つきかねない乙女たちを裏切る気かい!? オイラたちをガッカリさせないでくれよ!」
ユノーが大真面目な顔で拳を握る。
「クロエ姉さんは魔力を使い果たしてヘトヘトだし、アズインだって油断してるかもしれない。オイラ、レベルが上がって身体が軽くなったからさ、あの塀の上から女湯の安全を確認する任務を引き受けようと思うんだ! 決して、二人の綺麗なところを覗きたいとか、そういう下心じゃないぞ!」
レベルアップで向上した身体能力を、これ以上ないほど強引な「大義名分」に変換しようとする少年を見て、アスクは内心で深い頭痛を覚えた。
「却下だ。そんな大義名分は論理的に破綻している。そもそも、あの場所には『最高精度のセキュリティ』がいる」
女湯側には、アズインの言葉を完璧に理解し、信じられないほどの感知能力を持つ聖獣キューちゃんが同行しているのだ。男たちが不審な動きを見せた瞬間、あの青い鳥が「キュッ!」と一鳴きして防衛システムを起動させるのは、火を見るより明らかだった。
「エネルギーの無駄遣いだし、発覚した場合のクロエからの物理的報復、およびアズインからの信用失墜のリスクを考えれば、リターンが完全にマイナスだ。オレはパスする」
アスクはそう言って、湯船の縁に頭を預けて目を閉じた。
「おいおい、うちの軍師がそんなに腰が引けててどうすんだよ!」
「そうだよ、アスクも一緒に行かなきゃオイラたちだけじゃ対応できないかもしれないじゃん!」
だが、その時。
静まり返った温泉街の夜気に乗って、板塀の向こうから微かに、しかし楽しげな女子たちの話し声が響いてきた。
「――ねえアズイン、お湯加減はどう? ちゃんと肩まで浸かるのよ」
「はい、クロエさん! すっごく気持ちいいです! ……あ、キューちゃん、泳いじゃダメだよ?」
「キュ、キュッー♪」
楽しそうに水が跳ねる音と、いつもより少しリラックスしたクロエの、どこか艶っぽい声。
「ほら見ろ! 完全に警戒が緩んでる! 蛇が来たら一発でアウトだ!」
「アスクだって、さっきクロエ姉さんに『お前の火力が落ちたら突破できない』って言ったじゃん! だったら、ここでクロエ姉さんが蛇に噛まれないように見守るのが、一番『効率的』な選択だよ!」
ユノーがアスク自身の言葉を逆手に取って、満面の笑みで言い放った。
「待て、引っ張るな……! 摩擦係数の計算が、す、すべる…」
アスクの冷静な拒絶など、大義名分(建前)を手に入れたルークとユノーの耳には届かない。二人はアスクの両脇をガッチリと抱え込むと、無理矢理に湯船から引きずり出した。トッポが「やれやれ、若いのは元気じゃのう……ワシはここで腰を温めさせてもらうわい」と、そば焼酎の余韻に浸りながら呆れ顔で見守る中、アスクは不本意ながらも「女湯防衛監視作戦」の前線へと引きずり出されてしまった。
白く立ち込める湯煙の奥、男たちの(建前で取り繕った)欲望が詰まった視線の先には、女湯の微かな水の音が響いている。
果たして、ルークたちの執念はキューちゃんの絶対防壁を破り、クロエの気高き美貌とアズインの可憐な姿を「護衛」することができるのか。アスクの予測を嘲笑うかのような、男たちの無謀な挑戦が今、静かに幕を開けようとしていた。
ep.56→ep.69
【ステータスウィンドウ】
アスク
LV:48(ステータスポイント残+11)
AP:50/200(次のLVまで残り4740)
HP:250/420
MP:220/330
SP:100/100
スキル:
- 短剣・中級、
- 水魔法・上級、
- 探知・中級、
- 潜伏・中級、
- 鑑定・中級、
-アイテムボックス・中級
-エンチャント・中級
-インキュベーター・上級
AV:筋力160、体力160、敏捷110、器用120、知力190、精神140




