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68.大赤字の戦闘データ

採石場を後にした一行がエターナル・フロウへの山側回廊に差し掛かった頃、周囲の空気は冬のそれとは明白に異質さを帯び始めていた。

左右の斜面に広がるのは、オレンジ色の果実を実らせた冬のミカン畑。だが、その爽やかな香りに混ざって、ねっとりとした可燃性の揮発油オイルの匂いが鼻腔を突く。

「……ちょっと、おかしな匂いがしない? 髪に変な油がつきそうだわ」

クロエが美しい銀髪の毛先を気にしながら、不快そうに眉をひそめた。その瞬間だった。

ガサガサッ!

雪混じりの草むらを乱暴に割り、全身の毛並みを柑橘の棘のごとく尖らせた巨獣――『蜜柑泥棒シトラス・ボア』の群れが、恐るべき速度で馬車を包囲した。


「ひゃあ、出おったな! あやつら、冬のミカンを食いすぎて体内が油まみれじゃ。クロエ、間違っても火を使うんじゃないぞ。ここら一体が大爆発じゃ!」

トッポが慌てて長い耳をぴったりと寝かせ、泥のついた杖を構えて叫ぶ。

「ルーク、馬車を止めろ! 散開して迎え撃つ!」

アスクの鋭い号令が飛ぶ。

ルークが「おっとっと! 止まるぞ、みんなしっかり掴まれ!」と手綱を引く。

だが、そんな周囲の警告など、目の前の彼女の耳には一切届いていなかった。油臭い獣たちに囲まれ、クロエの「美意識」はすでに完全に限界を迎えていたのだ。

「……この私の視界に、こんな油臭い獣をこれ以上映しておけというの? 不潔なものは、すべて灰になればいいのよ。燃え上がれ――『紅蓮の魔剣』!」

「おーい、話を聞かんかああああ!!」

トッポの絶叫も虚しく、クロエが引き抜いた細剣が激しい炎を纏って一閃された。

刹那、飛び散った爆炎の火花が、巨獣たちの皮膚から滲み出たオイルに最悪のタイミングで引火する。

ボオオオッ!!

「なっ、嘘でしょ!?」とクロエ自身が目を見開いた時にはもう遅い。ミカン畑が一瞬にして青白い魔炎と黒煙に包まれる、凄まじい大火災へと発展した。


「バカ垂れ! 火を使うなと言ったそばからこれじゃ! 煙で長い耳の中まで燻製になりそうじゃわい!」

トッポが涙目で煙に咽びながら、必死にローブをはたいて風向きを変える。

「おいルーク、馬車を焦がすな! 荷車を右へ回せ!」と叫ぶアスクの声に応じ、ルークも「無茶言うな! 尻に火がつきそうなんだよ!」と悲鳴を上げながら馬車を死守する。

「消火は俺がやる。残りを叩け!」

アスクは即座に【水魔法】を発動。大量の水を霧状に噴射して炎を抑え込む。しかし、激しい熱と大量の水がぶつかり合ったことで、急激な冷却が起こり、周囲は一瞬にして視界ゼロの白い「蒸気」の海へと変貌した。大火災の拡大こそ防いだものの、今度は完全に一寸先も見えない真っ白い闇と化す。


「げほっ、げほっ……! 前が全く見えねえ! でもよぉ、前が見えねえなら、当たるまで投げるだけだ!」

視界を奪われたユノーが不敵に笑い、「オイラに任せな!」と担いでいた手斧を気配のする方向へ力任せに投擲した。

空気を切り裂く轟音とともに放たれた斧が、蒸気の奥で一頭の頭骨を正確に粉砕する。ユノーがグッと拳を握ると、スキル【リコール】の魔力によって斧が手元へ吸い込まれるように舞い戻った。

「よし、一匹仕留めた! 次、いつでも来い!」

「ゆのっちさん、左からもう一匹来ます! 揮発油の匂いがします!」


「アズイン、トッポの防衛線を死守しろ!」

アスクの指示に、アズインは「はいっ……!」と短く応じ、獣人族特有の俊敏な脚力を爆発させた。彼女の姿は一瞬でブレ、蒸気の中に残像を残しながら、キューちゃんの警告通りに動いた巨獣の懐へと潜り込む。鋭いナイフで敵の腱を正確に切り裂き、その機動力を完全に奪っていく。

「これ以上、暴れさせてたまるか! 『泥沼モラース』!」

アズインが飛び退いた瞬間、トッポが地を叩く。足を止めた巨獣たちの足元の土が急激に泥沼化し、その巨体を泥濘の底へと引きずり込んでいった。


蒸気の向こうでは、いまだに「ちょっと! 私の服に泥がついたらどうするのよ!」というクロエの怒声と、「だから火を使うなと言ったんじゃ!」というトッポの怒鳴り声が響いている。

アスクは水魔法の出力を調整しながら、深くため息をついた。

(……戦闘効率は最悪だ。クロエの精神的余裕のなさが、これほど著しい損失(過剰な魔力消費と視界の喪失)を生むとは。帰還後、彼女の戦術行動基準の再評価が必要だな)

アスクの頭の中で、決して帳簿には乗せられない「大赤字の戦闘データ」が、冷徹に刻まれていくのだった。





火災の煙から逃れるようにして、一行の馬車はエターナル・フロウ近くの川の谷筋へと滑り込んだ。だが、そこはさらなる罠の口だった。

ドゴォォォン!!

地響きとともに、地下の温泉大脈が激しく激流を噴出する『間欠泉スチームバースト』が道路を派手に突き破る。一瞬にして、先ほどとは比較にならないほどの高温の湯煙が、視界を真っ白に遮って一行を包み込んだ。

「げほっ、今度は温泉かい!? 視界も最悪じゃが、この湯気、ただの蒸気じゃないぞ!」

トッポが長い耳を激しく動かし、周囲の不穏な気配を察知して声を荒らげる。

「アスク、湯煙に紛れて別の奴らが来ている!」

ルークが御者台で馬を必死に宥めながら叫ぶ。アスクは即座に【探知】の術式を展開。温泉の熱を求めて集まってきた、周囲の景色に溶け込む『湯煙擬態蛇スチーム・ヴァイパー』の群れを正確に脳内の演算シートへと捉えた。

「トッポ、二時の方角、距離十! ゆのっち、左から三匹!」

「了解じゃ! 『岩の突起スパイク』!」

「オイラに任せな! おりゃあッ!」

アスクの精密な探知と、トッポの土魔法、ユノーの投擲が完璧にリンクする。 目隠し状態も同然の濃霧の中、ユノーの放った手斧が容赦なく闇を割り、トッポの土魔法で動きを止められた蛇の頭を次々と叩き潰していった。

だが、その乱戦の最中だった。

先ほどの失態を取り戻そうと、クロエが再び魔剣を振るおうとしたその影――完全に死角となった岩床から、一匹の巨大な擬態蛇が音もなく鎌首をもたげた。狙いは、クロエの無防備な白いうなじ

「しまっ――」

クロエが背後の殺気に気づいた時には、すでに蛇の牙は目と鼻の先にまで迫っていた。

――肉を裂く、鈍い音が湯煙の奥に響く。

「……くっ!」

「え……?」

クロエの視界に飛び込んできたのは、間一髪で自らの身体を割り込ませたアスクの横顔だった。彼の左腕には、擬態蛇の鋭い毒牙が深く突き刺さっている。

しかし、アスクは表情一つ変えなかった。自身の感情を完全に殺し、右手の手刀に集中させた水魔術の刃を躊躇なく振り下ろす。鋭い水の刃が、蛇の首を容赦なく撥ね飛ばした。

「アスク……!? なんで、どうして私を庇ったりしたのよ!」

クロエの透き通るような瞳が、激しい動揺に大きく揺れた。

いつも冷静沈着で、損得感情と効率性ばかりを口にする男が、自らの肉体を顧みずに身代わりになったのだ。クロエはすぐさまアスクの元へと駆け寄ったが、彼の傷口から滴り落ちる黒く濁った血を見て、その細い指先を小刻みに震わせた。

「無駄口を叩くな、クロエ。君の火力がここで落ちれば、この包囲網を突破する確率が著しく低下する。……それが一番……『効率的』な選択だ」

アスクは脳内を駆け巡る毒の激痛に耐えながら、空間の歪みから音もなく取り出した「解毒草」の丸薬を、迷わず口へと放り込み噛み砕いた。

「馬鹿言わないで! そんな腕で……! これ以上あんたに傷つかれたら、私は……!」

クロエは怒ったような、だが明らかにアスクの身を深く案じる悲痛な声を上げた。 彼女はアスクの前に立ちはだかるようにして、紅蓮の魔剣をこれまでになく強く握り直した。その美しい銀髪が、立ち上る湯煙の中で、刀身から溢れる激しい炎に照らされて赤く、苛烈になびく。

「トッポ、耳を澄ませて! 次の獲物の位置を全部教えて! アスク、あなたは私の後ろで大人しくサポートをして。……一匹残らず、灰にしてあげるわ!」

「お、おう、クロエが本気じゃ! 二時の方角に二匹、後方からさらに三匹近づいておるぞ!」

「キュ、キュッ!」

アズインの胸元でキューちゃんが小さく羽ばたき、アズインもその意図を汲んで叫ぶ。

「ゆのっちさん、トッポさんの右側をカバーして!」

「オイラに任せろ!」

クロエの内に秘められた爆発的な戦闘力と、アスクの精密な探知、そして前衛を死守するユノーとアズインの動きにより、湯煙の死線は瞬く間に制圧されていった。

すべての魔物を完全に排除し、ようやく目的地であるエターナル・フロウの古い石造りの町が見えた頃には、谷筋を重苦しく覆っていた湯気も、冷たい海風に吹かれて静かに引き始めていた。




町の軒先で、アズインたちから応急処置の傷の手当を受けるアスク。

クロエは彼に声をかけることもできず、少し離れた柱の陰から、未だに複雑な視線で見つめ続けていた。

彼女は、煤と湯気で汚れた細剣の柄を、指先が白くなるほど強く握りしめていた。胸の奥が、冷たい風に晒されているように酷く落ち着かない。

(『効率的』……。本当にそれだけの理由で、あんたはあんな真似をしたの?)

アスクの腕に今も残る、黒い毒血が滲んだ傷痕が、彼女の網膜に焼き付いて離れなかった。

あの瞬間、アスクの行動には一瞬の躊躇も、損得を天秤にかけるような間もなかった。もし自分の火力を守るためだけの「計算」だと言うのなら、あまりにも無謀で、そして――命の値段を度外視しすぎている。

(計算、計算って……ロボットみたいに澄ました顔をして。自分の身体が傷つくコストは、あんたの頭には入っていないの?)

いつもなら、割って入った彼の無鉄砲さを冷静に叱り飛ばすこともできたはずだった。だが、今の彼女にそんな資格はない。自分の美意識という「油」が招いた失態、擬態蛇での一瞬の油断を彼の血で拭われてしまったのだから。

じわりと、悔しさと、それ以上に言いようのない焦燥感が、クロエの胸を支配していく。守られる・・・に立たされた屈辱よりも、彼を失いかけた瞬間に自分の心臓が凍りついたことの方が、何より恐ろしかった。

「……全然、効率的じゃないわよ。おバカさん…」

小さく、誰にも聞こえない声で呟いたクロエは、乱れた銀髪をあえて手で手荒に払い、視線を地面へと落とした。次に同じような危機が訪れたなら、その時はアスクの「効率的な計算」が発動するよりも早く、自らの炎ですべてを焼き尽くして見せる。そう自分に言い聞かせるように、彼女は冷え切った拳を、そっと強く握り込み直した。

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