67. 荒涼たる砦:石材積みの現場
「……見えたぞ。あれが目的地の採石場だ」
アスクの冷徹な声が、馬車の窓から吹き込む冷たい風に乗って響いた。
その言葉に、限界を迎えていた一行の空気が一変する。
オリーブの林での死闘から、さらに険しさを増した雪山を駆け抜けること二十キロメートル。冷気耐性のバフが切れる寸前、文字通り「時間と魔力の貯金を切り崩す」ような強行軍の果てに、馬車はついに断崖の隘路を突き抜けた。
視界が開けた瞬間、全員がその圧倒的な光景に息をのむ。
そこは、巨大な岩山が力任せに削り取られた、命の気配を微塵も感じさせない無機質な灰色の世界だった。
天を突くような断崖には、幾何学的なステップ状の掘削跡が刻まれ、そのスケールの大きさは人間という存在の小ささをいや増しに痛感させる。積もった白雪と、剥き出しになった鈍い灰色を帯びた安山岩のコントラストが、採石場の荒涼とした美しさを際立たせていた。
「うわぁ……大きい……! 山が丸ごと四角く切り取られてるみたい……」
アズインが窓から身を乗り出し、キューちゃんを抱きしめたまま圧倒されていた。
これまで旅の中で見てきたどの雄大な渓谷や、鬱蒼とした大森林、あるいは故郷のどんな景色よりも、この剥き出しの人工的な大地は遥かに壮大で、そして異質だった。自然の造形ではなく、人間の、あるいはこの王国に生きる者たちの執念と叡智が力任せに自然を従わせた証。その巨大な爪痕のような風景に、彼女の小さな胸は畏怖とも感動ともつかない高鳴りで満たされていた。
馬車がすり鉢状の盆地へと坂を下っていくにつれ、削り出された巨石の山や、木と鉄で組み上げられた見たこともない巨大なクレーン、そして石材を運ぶための堅牢な荷車が次々と姿を現した。
アスクは窓から見る、その安山岩の巨大な階段状の削り跡をじっと見つめていた。
瞳の奥で、彼はその無機質な直線の幾何学に、かつて画面の向こう側で飽きるほど眺めた「歴史シミュレーションゲームの都市開発画面」や「かつて戦った大規模マルチプレイヤーゲームの巨大拠点」の光景を、一瞬だけ重ね合わせていた。あの時、無数のドットや数字のデータとして処理していた「効率の結晶」が、今、圧倒的な質量と冷気を持って目の前に現実に存在している。奇妙な既視感と、生々しい現実の重みが、彼の胸を小さく突いた。
「……はぁ。やっと、やっと着いたのかい。腰が完全に悲鳴を上げておるよ……」
初老の魔術師であるトッポが、御者台でガタガタと震えながら、泥のついた杖に体重を預ける。
アスクを含め、全員の疲労はすでにピークに達していた。凍えるような寒さの中での絶え間ない緊張、そして霜薔薇の抱き木との一戦は、確実に彼らの体力を限界まで削り取っていたのだ。
「おい、見ろよ! 人がいるぞ!」
ルークが前方を指さす。
拠点の中心に建てられた大きな石造りの詰所。その周囲で、厚手の防寒着に身を包んだ大柄な男たち――石工たちが、時折白い息を吐きながら、安山岩の巨石に鑿を打ち込み、あるいはクレーンのロープを引いている姿が見えた。
カン、カン、と硬質な金属音が、静まり返った岩山に規則正しく響き渡る。
「……本当に、人がいる。魔植物の変な声じゃない、人間の音だわ……」
クロエがいつもの毅然とした態度を少しだけ崩し、心底ほっとしたように細い息を吐いた。
これまでの孤独で過酷な雪中行軍から解放され、ようやく「人間の社会」へ戻ってきたという確かな実感が、一行の強張っていた身体を内側から緩めていく。
「よーし! 到着だぁッ!」
ユノーが馬車が止まるのも待ちきれない様子で飛び降り、雪を蹴立てて伸びをした。レベルアップで漲った力のおかげで、この漢だけはまだ元気いっぱいだ。
「アスク、オイラちょっと石工のおじさんたちに挨拶してくる!」
「待て、ゆのっち。勝手に動くな」
アスクは馬車から降り立つと、雪に足を沈めながらも、いつもと変わらない冷徹な目で採石場の全景を観察した。防寒具の隙間から見える石工たちの動き、詰所の煙突から立ち上る暖かな煙、そして周囲の警戒態勢――すべてを瞬時に脳内の計算シートに書き込んでいく。
「……予定より三分遅れたが、許容の範疇だ。これより石材の積み込み交渉、および冷気耐性果物の再補給を行う。トッポ、クロエ、まずは詰所へ向かい、暖を取りながら魔力の回復を最優先しろ。ルークとゆのっちは馬車の警備、アズインはここでキューちゃんの魔力補給だ」
的確な、けれどいつもよりわずかにトーンの和らいだ指揮に、仲間たちは「了解!」と笑顔で応じた。
人の営みの気配と、詰所から漂う薪の匂い。
極限の疲労を抱えたアスクたちの前に、ようやく一時の安息の時間が訪れようとしていた。
■安山岩の算盤:頑固親方と未知の幸運
採石場の中心にある石造りの詰所は、薪ストーブの熱気と荒くれ者たちの汗の匂いで満ちていた。
一行を詰所の奥で待ち受けていたのは、安山岩の巨石をそのまま人間の形にしたような大柄な男――この採石場を仕切る頑固親方、バルドルだった。
「ふん、王都からの運び屋がこんな雪山を越えてくるとはな。だが、お前たちの馬車の積載量と、この時期の山道の危険度を考えれば、提示できる安山岩の価格は一ストーン(重量単位)あたり『銀貨四十枚』だ。これ以上は一歩も引かんぞ」
バルドルは太い腕を組み、彫りの深い顔をさらに険しくして言い放った。事前の市場調査による相場は銀貨三十枚。冬の山岳運搬リスクを上乗せされているとはいえ、アスクの「許容利益率」を完全に下回る、極めて強気な価格設定だった。
トッポやルークがその高圧的な態度に気圧される中、アスクは手袋を外し、冷徹な瞳でバルドルを見据えた。彼の脳内では、すでにこの採石場の「数字」が完全に弾き出されている。
「親方、その価格設定は論理的ではありません。現在の取引は、こちらにとっても貴方にとっても『非効率』です」
「なんだと?」
バルドルが不機嫌そうに眉をひそめる。アスクは懐から羊皮紙を取り出すこともなく、淡々と数値を突きつけた。
「現在、詰所の外にある第一・第二クレーンのうち、第二クレーンの歯車から異常な摩擦音が響いています。おそらく寒さによる潤滑油の凍結、あるいは軸受けの磨耗だ。あれでは通常の三分の一の速度でしか石材を巻き上げられない。つまり、貴方の採石場は現在、深刻な『出荷のボトルネック』を抱えている」
バルドルが一瞬、目を見開いた。アスクの指摘は正確だった。
「さらに、この猛吹雪だ。王都への定期便が途絶え、倉庫の安山岩は滞留しているはず。保管コストと、クレーン遅延による人件費の焦付きを計算すれば、一ストーンあたり銀貨三十五枚で今すぐ俺たちに在庫を吐き出す方が、貴方の今期の純利益は確実に上回る。……違いますか?」
「チッ……理屈っぽいガキめ……」
バルドルが顔をしかめ、小さく舌打ちをする。アスクの提示した数字と経営分析は完璧に正論だった。しかし、長年この過酷な雪山で石を切り出してきたバルドルのプライドが、若造の正論を素直に受け入れることを拒んでいる。交渉は、あと一歩のところで膠着状態に陥ろうとしていた。
その時だった。
「あの……おじさん、これ……」
アスクの背後から、アズインが少し緊張した様子で一歩前に出た。彼女の胸元には、真っ白なお腹を膨らませたキューちゃんが収まっている。
アズインは、採石場へ降りてくる途中の雪まじりの安山岩の隙間で、偶然「綺麗だから」という理由だけで拾い上げていた、拳大の歪な石をバルドルの机にトントンと置いた。
「これ、外の荷車の近くに落ちてたんですけど……おじさんたちの、落とし物ですか?」
「あ? なんだそのただの石ころは――」
バルドルが面倒そうにその石を掴み、投げ捨てようとした瞬間、その手がピタリと止まった。
彼は石工特有の分厚い指先で石の表面を激しく擦り、詰所の貧弱なランプの光にかざす。その刹那、バルドルの顔から頑固な偏屈さが消え失せ、驚愕へと変わった。
「これは……『輝石安山岩』の極上原石じゃねえか……!? なぜこんなものが地表に……!」
通常の安山岩とは比較にならない魔力伝導率を持ち、王都の魔術師たちが天文学的な金額で買い取るという幻の希少鉱石。それが、雪に紛れて転がっていたのだ。
「キュ」
キューちゃんが自慢げに鳴く。アスクにはすぐに理解できた。アズインの持つ天性の「幸運」と、聖獣であるキューちゃんの「魔力を引き寄せる波動」が、オリーブの林での戦闘の余波、あるいは採石場の地脈の乱れによって偶然地表に露出した最高級の原石を、ピンポイントで見つけ出させたのだ。
バルドルは狂ったように石を検分した後、信じられないものを見る目でアズイン、そしてアスクを見た。
「……おい。この原石の価値は、ここにある安山岩の数車分に匹敵する。これを、ただの落とし物としてオレたちに渡すってのか?」
アスクは一瞬だけ思考し、アズインの「幸運」という未知数を即座に自分の計算式へと組み入れた。
「その原石の所有権は、この敷地の管理者である貴方にある。俺たちはそれを拾って届けただけだ。……ただし、その誠実さに対する報酬として、安山岩の取引価格を一ストーンあたり『銀貨三十枚』に改定、さらに積み込み作業の最優先を要求する。これなら、お互いの帳簿のバランスは完全に取れるはずだ」
バルドルはしばらく黙り込んでいたが、やがて、我慢しきれないといった様子で豪快に笑い出した。
「ハハハハ! 算術士のガキめ、とんだ掘り出し物を連れてやがる! 規律の塊のような交渉をしておいて、最後にこんな規格外の幸運を叩きつけられたら、オレの負けを認めるしかねえな!」
バルドルは立ち上がり、アスクに向かって分厚い右手を差し出した。
「いいだろう、商談成立だ! 一ストーンあたり銀貨三十枚。おい野郎ども! すぐに第二クレーンの油を融かして、この美味い酒を運んできてくれた運送屋の馬車に、最高品質の安山岩を山積みにしろ!」
詰所の中に、石工たちの活気ある怒号が響き渡る。
アスクは差し出されたその手をしっかりと握り返しながら、隣でホッとしたように微笑むアズインと、得意げなキューちゃんを盗み見た。
(計算の立たない不確定要素(幸運)だが……悪くない誤差だな)
アスクの冷徹な脳内に、今回の依頼が「大黒字」で着地するという、極めて満足のいく計算結果が弾き出されていた。
■束の間のどんちゃん騒ぎ
商談が成立するや否や、親方のバルドルはアスクの肩をこれでもかと力任せに叩いた。
「よし! 積み込みはオレの部下たちに任せておけ! 丁度夜飯の時分だ、お前らも凍りついてるだろ。この採石場の一番の自慢へ連れて行ってやる!」
バルドルに豪快に促され、案内されたのは採石場の隅にひっそりと佇む木造りの建物だった。軒先には夜の闇と雪に揺れる縄のれんと、「断崖亭」と力強く書かれた看板が掲げられている。窓からは温かい光が漏れ、扉を開けた瞬間、一行を包み込んだのは薪ストーブの暴力的なまでの熱気と、えも言われぬ芳醇な鰹出汁の香りだった。
「いらっしゃい! おや、親方、夜遅くにお客さんかい?」
カウンターの奥から威勢よく声をかけたのは、まだ若いそば職人の息子だ。その傍らでは、割烹着を着た笑顔の母親が「まぁまぁ、こんな夜更けに寒かったでしょう。奥の広い席へどうぞ!」と、まるでお盆の里帰りを迎えるかのように、温かいおしぼりを持って駆け寄ってきた。
「ふぅ……生き返る、本当に生き返るよ……」
トッポが初老の身体をストーブの特等席へ沈め、熱いおしぼりで顔を覆って至福の吐息を漏らす。
やがて、バルドルの「この店の一番美味いところを全部持ってきな!」という景気良い注文通り、暗い夜の窓とは対照的な、黄金色の料理でテーブルの上が一気に埋め尽くされていった。
目の前に並んだのは、瑞々しく輝く白と黒の「二色そば」。
香りの強い挽きぐるみの黒いそばと、喉越しの良い上品な白いそばが、美しくザルに盛られている。さらには、安山岩の巨石を模したかのような、カボチャやエビ、ナスの具材が大きめのサクッとした天ぷら。ねっとりとした質感のそば豆腐に、香ばしい焦げ目のついたつくねが並んだ。
「ほほう、これは見事な……!」
料理が揃った瞬間、それまで夜間行軍の疲労で限界だったトッポの目が、現金なほどらんらんと輝き出した。彼は器を手に取ると、つゆを少しだけ舐め、ふむと頷く。
「やはり蕎麦はこれじゃな。この、鰹出汁がガツンと効いたキレのあるつゆ。これに、香りを殺さない辛くないワサビをちょいと乗せてな……ズズッ、ズズズッ! ――うむ! 素晴らしい! 江戸っ子なら蕎麦はこうでなくてはいかん!」
「トッポ、エドッコって何? でも、オイラもこれ大好き!」
ユノーが「オイラ」の一人称らしく元気よく、大きな天ぷらをガブリと齧った。サクッ、と素晴らしい咀嚼音が店内に響く。レベルアップで飢えていた少年の胃袋に、天ぷらの油とつくねの旨味が染み渡っていく。
アスクは自身の思考を一時的に休止させ、二色そばの白い方を静かに啜った。
(……美味いな。極低温の夜間環境下で、この出汁の温度を完璧に保ち、かつ蕎麦のコシを失わせない茹で加減。素晴らしいオペレーションだ)
アスクが心の中でその費用対効果に極上の評価を下していると、隣から「……おかわり」という、低く、しかし妙に切迫した声が聞こえた。
見ると、普段は凛として気高いはずのクロエが、もの凄い勢いで二色そばのザルを空にし、職人の息子に器を差し出していた。その口元には、ちょこんと白いワサビがついている。
「クロエ、お前、もう三枚目だぞ……?」
ルークがエールのジョッキを片手に引き気味に突っ込むと、クロエは一瞬だけピクッと肩を揺らし、フイッと顔を背けた。
「……な、何よ。さっきの戦闘で『紅蓮の剣』を全力展開したのよ? 魔力の消費量は肉体の代謝に直結するの。だからこれは、魔法戦士としての正当なエネルギー補填であって、決して私が、天ぷらの衣のサクサク感とこの出汁のキレに感動して理性を失っているわけでは――」
「クロエ姉さん、言い訳が長いよ! ほら、オイラのつくねも一個あげるから!」
「……っ、いただくわ(パクッ)」
意外にも大食漢な一面を晒して赤くなっているクロエに、アズインがクスクスと笑いながら、キューちゃんに小さく千切ったそば豆腐を分けてあげている。
「キューちゃん、美味しいね」
「キュ♪」
青い鳥は豆腐の優しい甘みが気に入ったのか、お腹を丸々と膨らませて満足そうに羽をパタつかせた。アズインはそんなキューちゃんの嬉しそうな感情を、まるで言葉として紡がれるかのように明確に理解し、優しく頭を撫でる。
「おいおい、美味いのは飯だけじゃねえぞ! 運送屋、お前も呑める口だろ?」
バルドルが満面の笑みで、一升瓶をドンとテーブルに置いた。
並べられたのは、労働者向けのがつんとしたエール、香ばしいそば焼酎、 そして、この雪山の奥深くでしか手に入らないという幻のお酒『ブランネージュ』。
「これは……『ブランネージュ』か。入手困難だった地酒だな」
アスクの目がわずかに動く。バルドルが並々と注いだ透明な液体を口に含むと、豪雪地帯の夜気のようなキレの後に、米のふくよかな甘みが一気に広がった。
「美味いな」
「だろ!? ガハハハ!」
頑固親方とアスクが、幻の酒を挟んで杯を交わす。
トッポはそば焼酎の蕎麦湯割りをじっくりと転がし、ルークはエールを豪快に喉に流し込む。ユノーとアズインは、お母さんがサービスしてくれたお団子を巡ってキューちゃんを交えて楽しそうに笑い合っていた。
外は相変わらず、安山岩の断崖を白く染める猛吹雪の夜。
しかし、暖簾の一枚内側にあるこの小さな「断崖亭」の中だけは、命の洗濯をする運び屋たちの、どこまでも温かく、賑やかな熱気に満ち溢れていた。




