64.巨人の糸:シルクアビスゲート
冬の低い陽光が雪雲の切れ間から鋭く差し込み、白銀の世界を一瞬だけ黄金に染め上げた。ポート・マーリスから続く凍てつく坂道を登り切り、視界が開けた瞬間、一行は言葉を失った。
目の前の空間が、丸ごと「断絶」していた。
「……冗談だろ。おい、正気かよ」
ユノーが担いでいた斧を地面に突き立て、呆然と目の前の光景を仰ぎ見る。左右の断崖を繋いでいるのは、現実のものとは思えないほど長く、細い、白亜の線。全長1キロメートル。谷底の深淵から這い上がる濃霧を切り裂き、はるか先の「刻ノ観測所」へと吸い込まれていくその橋は、まるで巨人が天空から落とした一本の『糸』のようだった。
「あれが……シルクアビスゲート。地図で見るのと、実物じゃあ訳が違うわね」
クロエが銀髪を風になびかせ、透き通るような瞳をさらに細める。その隣で、兎獣人のトッポが長い耳を激しくピクつかせ、周囲の空気を探るように鼻を鳴らした。
「あな恐ろしや……。のうアスク、ここらの魔力は密度が異常じゃ。まるでもったりとした泥水の中を歩いておるようじゃよ。これほど濃い魔気が渦巻いておっては、橋の魔法障壁もいつ暴走してもおかしくないわい。あんな細い橋、風が吹けば一瞬で真っ逆さまじゃ。本当にここを渡るんかのう?」
アスクは努めて冷静に答えたが、その視線は橋の異様さを冷徹に分析していた。橋の入口には、巨大な石造りの検問塔がそびえ立ち、門柱に刻まれた「教団の紋章」入りの銀の鈴が、激しい突風に揺らされている。
「安心しろ。橋の上は教団の兵士たちが魔術で管理している。路面の凍結は取り除かれているはずだ」
アスクが指し示した先では、重厚な甲冑に身を包んだ「鎖と法の教団」の兵士たちが、規則的に魔力灯を点検し、路面の氷を剥ぎ取っていた。だが、兵士たちがどれほど道を整えようとも、自然の脅威までは御しきれない。
「……だが、問題は『風』だ。遮るもののないこの長大な橋の上では、冬の突風は巨大な質量を持って襲いかかる。馬車ごと奈落へ押し出される危険があるぞ」
「キュー……ッ!」
アズインの懐から顔を出したキューちゃんが、橋の遥か上空を見上げて怯えたように鳴いた。雲の合間を縫うように、鋭い翼を持った鳥の魔物が旋回している。
「上空の連中、この濃密な魔力に酔って興奮してるわ。アスク、見て。あの子たち、橋の上で身動きの取れなくなった獲物を、デザートか何かだと思ってるみたいよ」
クロエが剣の柄に手をかける。欄干のいたるところから突き出した氷の棘は、単なる自然現象ではなく、上空からの襲撃を防ぐための教団の「防衛設備」でもあるようだった。
「ルーク、進め。風が止むのを待つのは非効率だ。トッポ、風が強まったら『土の重し』を車輪の軸に作れ。クロエ、上空の警戒を。……行くぞ」
「ええ、羽虫の一匹も馬車には触れさせないわ。……美しくないもの」
「ははっ、相変わらず無茶な注文だ。よし……野郎ども、振り落とされるなよ!」
ルークの叫びとともに、馬車が「巨人の糸」へと踏み出した。足下には底知れない深淵。横から叩きつける突風。そして上空からは飢えた視線。100kmの旅路における最大の難所が、牙を剥いて一行を迎え入れた。
馬車が橋の入り口に建つ巨大な検問塔へと差し掛かると、重装歩兵たちが槍を交差させ、無機質な動作で一行を遮った。
「止まれ。これより先、シルクアビスゲートの通行許可証の確認と、冬季維持費の徴収を行う」
教団の紋章を胸に刻んだ事務官が、冷ややかな視線で一行を見下ろす。アスクは御者台から降り、慣れた手つきで書類を提示したが、事務官が口にした金額に、背後のルークが思わず声を上げた。
「……は? 一人につき銀貨5枚だと!? それに荷馬車は別で20枚……。おい、昨年来た時より倍以上に跳ね上がってんじゃねえか!」
(……銀貨1枚が日本円で約1,000円。一人5,000円の通行料か、随分と高いな)
アスクは脳内で素早く換算する。5人分と馬車を合わせれば、計50枚。日本円にして約5万円という計算になる。たかが橋を渡るだけにしては、あまりにも法外な価格設定だ。
「ふざけんな、ぼったくりもいい加減にしやがれ!」
ユノーが忌々しそうに斧の柄を叩くが、事務官は表情一つ変えず、淡々と帳簿をめくる。
「冬の突風による防護壁の魔力充填、および凍結防止の祈祷費用が増大している。支払えないのであれば、麓まで引き返し、雪に埋もれた旧道を行くがいい。……あちらは無料だ」
「旧道なんて今行ったら全滅だぜ。ちっ、足元を見やがって……」
ルークが悔しげに顔を歪める中、アスクは静かに革袋を取り出した。
「……払おう」
「アスク、いいの!? あなた、こういう無駄な出費には一番厳しいはずでしょう」
クロエが驚いて耳をピクリと動かす。アスクは迷いのない手つきで銀貨を数えながら、彼女に視線を戻した。
「無駄ではない。この『時間』と『安全性』を買っているんだ。旧道で魔物に襲われ、積み荷に傷がつく確率を計算すれば、銀貨50枚のコストは十分に許容範囲だ」
アスクの冷徹な判断に、ルークが肩を叩いてニカッと笑った。
「その通りだぜ。安心しな、アスク。温泉地のエターナル・フロウに着いてみろ。冬のこの時期、運び込まれる物資は喉から手が出るほど欲しがられる。この通行料の数倍、いや十数倍の値段で取引されるんだ。元は取れるどころか、お釣りで特大の肉料理を囲めるぜ!」
「……食事の予算はまた別だが、利益が出るなら問題ない。行くぞ」
アスクは支払い済みの刻印を受け取ると、再び御者台へと飛び乗った。
石造りの巨大な門が、重苦しい音を立てて開き始める。
その先には、深淵の上を渡る一キロメートルの「巨人の糸」が、白く輝きながら横たわっていた。
シルクアビスゲートの中央。そこは風の通り道であり、逃げ場のない処刑台だった。
「ヒュオォォォ!」という風の唸りが、欄干の銀の鈴を激しく鳴らし、馬車を奈落側へとじりじりと押しやる。
「来るわよ、上!」
クロエの叫びと同時に、雪雲を割って巨大な影が肉薄した。
『フロスト・ダイバー』
氷の翼を持つ空の暗殺者が、突風による死角からアズインを狙って急降下する。
「ピギィィィィ!」
アズインの懐から、青い体がひょこりと飛び出した。
聖獣キューちゃん。古くから伝わる童話に登場する猫型ロボットを思わせる、鮮やかな青色の毛並み。顔とお腹にはぽっかりと真ん丸な白い模様が広がり、その愛嬌のある姿をよりいっそう引き立てている。しかし、その瞳には聖獣としての鋭い光が宿っている。
キューちゃんの小さな体から、眩いばかりの【聖なる波動】が放たれた。直撃を食らったフロスト・ダイバーは平衡感覚を失い、突進の軌道を大きく逸らした。
「やった、キューちゃ……あっ!?」
歓喜は一瞬で悲鳴に変わった。
波動を放った反動と、橋を叩きつけた猛烈な突風。青くて丸いキューちゃんの体は、サッカーボールのように欄干の外へと弾き飛ばされてしまった。
「キューちゃん!!」
アズインは考えるより先に動いていた。欄干を乗り越え、空中に身を投じる。
「アズイン! 戻れ!!」
アスクが手を伸ばしたが、指先は空を切った。アズインの体は吸い込まれるように、底知れない霧の深淵へと消えていく。
一秒にも満たない沈黙。アスクの脳内では、運び屋としての「最適解」を求める演算回路が、火を噴くような速度で回転を始めていた。
(計算しろ。ここから飛び降りて、彼女を救える確率は? ――10%以下だ。今の装備、残りMP、風速、そしてこの高度。飛び降りれば、十中八九、俺も死ぬ。生き残るための『効率』を優先するなら、ここで彼女を諦め、残った積み荷と仲間を守るのが正解だ。それが合理的だ。だが、……!)
突きつけられた「正解」を、脳が拒絶した。
視界の端で、絶望に顔を歪めるルークと、動揺で剣を震わせるクロエの姿がスローモーションのように流れていく。彼らの絶望を「合理的」という言葉で切り捨てることに、胸の奥が焼けるような拒絶反応を示していた。
(……いや、違う。効率じゃない。彼女がいなくなれば、この旅の『意味』が壊れる。俺が積み上げてきた計算式のすべてが、ただの無機質な数字の羅列に成り下がる。それは……嫌だ。そんな結末だけは、認められない!)
アスクは自分でも驚くほどの激しい「感情」に突き動かされていた。
それは損得勘定でも、責任感でもない。ただ、アズインの熱を失うことを、彼の魂が「最大の損失」だと叫んでいた。
「……計算不能だ、クソッタレが!」
アスクは思考を止めた。
効率を、生存率を、積み荷の安全を――自分を自分たらしめていた「合理的判断」のすべてをゴミ箱に投げ捨てた。
彼は御者台の縁を力任せに蹴り上げ、重力に身を任せて、底知れない白銀の深淵へとダイブした。
「アスク! アンタまで!!」
背後でクロエの絶叫が響くが、それすらも激しい風音に掻き消される。
落下する刹那、アスクの胸を満たしていたのは、死の恐怖ではなかった。
自分の計算を、そして自分自身の「殻」を初めてぶち壊したことに対する、ひどく場違いで、猛烈な解放感だった。
(待っていろ、アズイン。……赤字は一円たりとも出させない。お前を救うことが、今の俺にとっての唯一の『利益』だ!)
落下する猛烈な風圧の中、アスクは目を凝らした。数メートル下、真っ白なお腹を上にしてバタつくキューちゃんを、必死に抱きしめようとするアズインの姿が見える。
「アズイン、俺を見ろ!」
アスクは空中で【水魔法】を全開にした。
掌から爆発的な勢いで【高圧蒸気】を噴射する。その推進力を利用して落下軌道を修正し、空中で強引にアズインの体を抱き寄せた。
「アスク、様……っ」
「……喋るな、舌を噛むぞ」
だが、このままでは二人とも霧の底だ。アスクは残りの魔力を振り絞り、橋の橋脚に向かって右手を突き出した。
「凍れ……! 【氷晶の楔】!」
放たれた水流が橋脚に触れた瞬間、極寒の冷気によって巨大な氷の杭へと変貌する。そこから伸びた「氷の鎖」が、アスクの腕と橋を辛うじて繋ぎ止めた。
「ぐっ……ああぁぁ!!」
肩が抜けるような衝撃。アスクとアズイン、そして青い聖獣。三人が、一キロ下の深淵を背にして、一本の氷の糸で宙吊りになった。
「……アスク!! 今引き上げる、離すんじゃねえぞ!!」
上空から、ユノーが放ったロープが霧を割って降ってくる。
アスクはアズインを抱く腕に力を込め、肺の中に残った冷たい空気を吐き出した。腕の中に伝わる小さな鼓動と、しがみついてくるキューちゃんの柔らかい感触が、計算では導き出せない確かな「生」を彼に伝えていた。
「……効率が悪すぎる。……全くだ」
ポツリと漏らした本音は、風の中に消えていった。




