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65.凍土の休息

シルクアビスゲートの冷徹な石畳の上に、アスク、アズイン、そしてキューちゃんが引き揚げられた瞬間、吹き荒れる風の音さえ遠のくような、極限の静寂が降りた。

「……ハァ、ハァ……。死ぬかと思った……いえ、本気で死なせる気だったのね、あの風は」

クロエがその場に膝をつき、激しく上下する肩を抑えながら、震える手でアスクの肩を叩く。ユノーは声も出せず、ただ血が止まるほどの力でアスクの腕を掴み、その生存を確かめるように強く握りしめていた。

アスクは全身を氷のような霧に濡らし、剥き出しの瞳に隠しきれない戦慄を残したまま、腕の中で震えるアズインを硬い地面に下ろした。

「……アスク様、ごめんなさい。私、キューちゃんを助けたくて……。でも、あんな……っ」

アズインの視線の先では、先ほどまで彼らを飲み込もうとしていた深淵アビスが、暗黒の口を開けてあざ笑っている。

「……怪我はないか。なら、いい。これ以上の消耗は命取りだ。一時間遅れている、行くぞ」

アスクはあえて氷のように無機質な声を絞り出した。だが、手綱を握る指先は、アドレナリンの引き潮に抗えず無様に震えている。

「アスク、無理を言いなさんな。お前さんの今の顔、ちっとも『効率的』な計算通りには見えんぞい」

トッポが杖の先でアスクの背中をコツンと小突き、皮肉げながらも慈愛に満ちた笑みを浮かべる。

「死に損ないが、無理に平気を装うもんじゃないわい」

アスクは何も答えず、ただ逃げるように強く手綱を引いた。しかし、その強張った背中を見つめる仲間たちの視線には、恐怖を乗り越えた者同士にしか宿らない、確かな信頼の熱が灯っていた。




「巨人の糸」を渡りきり、刻の観測所へと続く山道の中継地点――『モノリス・ガーデン(巨石農園)』に到着した頃には、冬の短い日はすでに落ち、空は深い群青色に染まっていた。

ここは、雪に覆われた山中とは思えないほど、不思議な温かさに包まれている。切り立った岩肌に沿って並ぶ巨大なモノリス(石柱)が、日中に蓄えた魔力を熱として放出し、即席の温室を作り出しているのだ。

「ふぅ……。ここなら馬たちもゆっくり休めそうじゃな。アスク、今日はここで一泊にしようぜ」

トッポの提案に、アスクも短く頷いた。

「ああ。明日の『刻の観測所』越えは、今日以上の極寒になる。ここで態勢を整えるのが最適解だ」

農園の主である老夫婦が、一行を温かく迎え入れてくれた。夕食に差し出されたのは、この地でしか育たないという、淡く発光する柑橘類『サン・シトロン』だった。

「さあ、食べてごらん。これはね、モノリスの魔力を吸って育った特別な実だよ」

アズインが一口齧ると、冷え切っていた体が内側からポカポカと温まり始めた。

「……ほう。これは効率的だな。一時的に血液の循環を魔法的に活性化させ、約6時間の冷気耐性レジスト・コールドを付与するのか」

アスクは分析しながらも、その甘酸っぱい果実の味に、ようやく張り詰めていた神経を緩めた。

「キュ……」

お腹がいっぱいになったキューちゃんが、アズインの膝の上で丸くなる。

囲炉裏の火が爆ぜる音を聞きながら、一行は束の間の平穏に浸った。死線を越えた後の食事は、どんな高級料理よりも彼らの心に深く染み渡っていった。




翌朝。モノリスの熱に守られた農園に、冬の透き通った光が降り注いだ。

アスク達は、朝食に再び『サン・シトロン』を口にし、その魔力を全身に巡らせる。

「……よし。全身の毛細血管が活性化している。冷気耐性レジスト・コールドの効果時間は約6時間。この間に『刻の観測所クロノス・パビリオン』までの10キロメートルを走破するぞ」

アスクの号令に、仲間たちが力強く頷いた。

昨日の転落騒動の疲れを見せず、馬車は緩やかな上り坂を軽快に進んでいく。


道なりに進むにつれ、周囲の景色は一変した。

そこには、自然の造形と人の叡智が融合した、この世のものとは思えない美しさが広がっていた。

「わぁ……! 見てください、アスク様! 大きな石がいっぱい!」

アズインが身を乗り出して指差す先には、有名な建築家が太陽の運行を計算し尽くして配置したという、巨大な石造建築群が姿を現した。

「……あれが『刻の観測所』か。冬至の朝、あの石の隙間を太陽の光が完璧に貫くよう設計されているらしい」

アスクが淡々と解説する通り、そこは単なる観測施設ではなかった。

王国の女王が心から気に入り、自ら何度も足を運んだという天空の庭園。静寂の中に佇む優雅な茶室や、雪を纏ってもなお美しい日本庭園を彷彿とさせる空間が、標高の高いこの地に整然と並んでいる。

「見てみなよ。高台から見下ろすあのオレンジ色は、さっきまでいたミカン畑だぜ。その先には……海だ!」

ルークが声を弾ませる。

眼下には、今しがた通り抜けてきたモノリス・ガーデンのミカン畑が黄金の絨毯のように広がり、さらにその向こうには、冬の陽光を反射して輝く群青色の海が一望できた。

「あな美しや。戦を忘れさせるような絶景じゃな」

トッポが目を細めて呟く。クロエもまた、冷たくも心地よい風を受けながら、一瞬だけ戦士の顔を解いていた。

「……アスク、ここからの景色もあなたの『計算』通りかしら?」

「……いや。この彩度と明度のコントラストまでは、数値化しきれないな。……悪くない効率・・・だ」

アスクはそう言って、瞳を細めた。


「……この石材の配置、ただの庭園じゃない。光の入射角と影の伸びを完全に制御しているのか」

アスクは馬車を止め、眼前に広がる『刻の観測所クロノスパビリオン』の建築群を凝視した。

そこは、高台の斜面を贅沢に使い、計算し尽くされた角度で「太陽の通り道」を捉える巨大な彫刻作品のような場所だった。

「アスク様、見て! あの建物、屋根がないのに壁がキラキラしてる!」

アズインが指差したのは、石材を円環状に並べた野外庭園だ。一見すると巨大な石が転がっているだけに見えるが、実は冬の低い太陽が差し込むと、石の表面に埋め込まれた特殊な鉱石が反射し、雪原に巨大な日時計を描き出す仕掛けになっている。

「王国の女王様が、わざわざここまでお茶を飲みに来る理由がわかるわね。この静寂と、海まで抜けるような解放感……。エルフの里にも、これほどの調和を持った建築は少ないわ」

クロエが珍しく感嘆の吐息を漏らす。彼女の視線の先には、崖の縁にせり出すように建てられた、簡素ながらも凛とした佇まいの「茶室」があった。

「おーい、みんな! 管理人のじいさんが、女王様も飲んだっていう特別な茶を振る舞ってくれるってよ!」

ルークの呼びかけに、一行は馬を休め、その茶室へと足を踏み入れた。


茶室の内部は、外の極寒が嘘のように穏やかな光に満ちていた。開け放たれた障子の向こうには、黄金色に輝くミカン畑と、その先で凪いでいる群青色の海が、一枚の絵画のように切り取られている。

「……アスク、お茶の湯気に、虹がかかってるぞ」

トッポが差し出された茶碗を覗き込み、シワの刻まれた顔を綻ばせる。

アスクは慣れない作法で茶を啜り、その熱がシトロンの冷気耐性と混ざり合い、五感に染み渡っていくのを感じていた。

「この茶室の柱に使われている石……これは、俺たちがこれから運ぼうとしている『あの石材』と同じ系統のものか?」

アスクの問いに、茶を淹れていた老管理人が深く頷いた。

「お目が高い。この観測所の心臓部は、すべて山で採れる特殊な花崗岩でできている。魔力を蓄積し、時の流れを緩やかに感じさせる効果があるのですよ。女王様は、ここで『国の未来を計算する』のを好まれました」

(……未来を計算する、か)

アスクは、茶碗の中に映る自分の瞳を見つめた。

これまでは、利益と生存率という「現在の数字」しか見てこなかった。だが、奈落へ飛び込んだあの瞬間から、自分の中の計算式に、数値化できない「未知数」が混ざり始めている。

「アスク様、お茶、美味しいですね……」

隣で微笑むアズインの顔に、柔らかな陽光が落ちる。

その穏やかな光景こそが、この過酷な雪山を越えてまで女王が守りたかった「価値」なのだと、アスクは理屈ではなく直感で理解し始めていた。

「……休憩はここまでだ。この絶景に浸る時間を『非効率』と言い切るのは難しいが、俺たちの仕事は石材を運ぶことだからな」

アスクはそう言って立ち上がったが、その手つきはどこか丁寧で、この建築が作り出す静謐な空気を壊さないよう配慮されていた。

「よし! 英気は養った。次の山へ本命の『石材積み』の現場だな!」

ルークの快活な声が、澄み渡った天空の庭園に響き渡った。




茶室での穏やかな時間は、砂時計の砂が落ちるように終わりを告げた。

アスク達が観測所の外へ出ると、そこには再び、容赦ない冬の風が吹き荒れていた。

「……ここから『石材積み』の現場までは、あと約25キロメートルか。冷気耐性の効果があるうちに、可能な限り距離を稼ぐぞ」

アスクは手綱を握り直し、眼下に広がる黄金のミカン畑に背を向けた。一度緩んだ神経を、再び運び屋のそれへと引き締める。

「25キロか……。この雪道だと、順調に行っても数時間はかかるわね。アスク、空の色が変わってきたわよ」

クロエが北の空を指差す。先ほどまでの澄み渡った青は消え、鉛色の厚い雲が、まるで巨大な獣のように山肌を飲み込もうとしていた。

「ああ。ここから先は標高もさらに上がる。観測所のような人工的な魔力熱は期待できない。トッポ、馬の足元が凍りつかないよう、定期的に微弱な震動で氷を砕いてくれ」

「任せとけ。アスク、お前さんも無理すんなよ。さっきの茶で少しは肩の力が抜けたかと思ったが、もう仕事モード全開じゃな」

トッポが呆れたように笑うが、その表情にはアスクへの信頼が滲んでいた。

「ピィ……」

キューちゃんは、アズインの防寒具の中に潜り込み、丸い頭だけを出して前方を凝視している。まるで、これから待ち受ける困難を予見しているかのようだった。

「よし、出発だ! 次の目的地まで、一気に駆け抜けるぜ!」

ルークの掛け声と共に、馬車の車輪が再び雪を蹴り上げた。

女王の愛した美しい庭園は、瞬く間に白い霧の彼方へと消えていく。

一行の前に立ちはだかるのは、石材積みの現場へと続く、長く険しい「断崖の回廊」。

そこは、観測所の静寂とは無縁の、野生と魔物が支配する領域だった。

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