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63. 峻険なる氷壁

鈴鳴の白妙亭を後にした一行を待っていたのは、昨日までの平穏を嘲笑うかのような、垂直の絶壁が続く難所だった。中継地点「シルクアビスゲート」へと続くこの道は、片側を凍てついた岩壁に塞がれ、もう片側は底の見えない「奈落」が口を開けている。

「……アズイン、荷台の奥へ。絶対に外を覗くな。キューちゃんも、今は隠れていろ」

アスクの警告に、アズインは小さく頷き、懐のキューちゃんをそっと撫でた。

アスクの声は低く、硬かった。御者台から横に視線を落とせば、そこには「地面」がない。ただ濃藍色の闇が深淵へと続き、遥か下層から吹き上げる冷気が、馬車を奈落へ引きずり込もうと手招きしている。一度でも車輪を滑らせれば、死すら確認できない空虚の底へ消える。そんな確信が、喉の奥を乾かせた。

アスクは御者台で【探索】を展開し、周囲の変化を監視する。乾燥した冬の空気の中に、赤い粒状の光を感知した瞬間、彼は叫んだ。

「止まれ! 前方、頭上だ!」

ルークが急制動をかけると同時に、頭上の岩棚から巨大な影が音もなく降下してきた。

『クリフ・フロスト・スパイダー』

冬の崖に巣を張る、氷のように透き通った体組織を持つ巨大蜘蛛だ。奴らが放つ糸は、触れた瞬間に獲物の熱を奪って凍りつかせ、そのまま奈落へと引きずり込む。

「ギチギチギチッ!」

蜘蛛が放った氷の糸が、崖の数少ない足場を奪うように馬車へ迫る。

「……っ、この高さで糸に絡まれたら終わりじゃねえか……。笑えねえよ!」

ユノーが顔を引き攣らせ、咆哮とともに斧を放った。【斧投げ(ホーミング・スロー)】。回転する刃が空中で糸を断ち切るが、切断面から溢れ出した氷の霧が瞬時に視界を奪う。

「オイラの斧……外したら、次はねえぞ……」

強気な言葉の裏に、ポツリと漏れた本音。リコールで戻る斧を掴む彼の指先は、極寒のせいだけではなく、恐怖で微かに震えていた。

「ゆのっち、下がって! 私が焼くわ!」

銀髪を翻し、クロエが馬車の屋根から跳躍した。空中で抜剣された刃が、爆発的な火力を伴う【紅蓮の剣】へと化す。

「落ちて死ぬなんて、エルフの美学に反するわ……! 燃え尽きなさい!」

炎の円弧が霧を蒸発させ、蜘蛛の足の一本を焼き切る。だが、クリフ・フロスト・スパイダーは執拗だった。壁面に張り付いた別の二体が、今度は荷台を守るトッポとアズインを狙って糸を放射する。

「おっと……ワシを隠居させるにはまだ早いんじゃよ。【土の障壁アース・ウォール】!」

トッポが杖を地面に突き立てると、馬車の側面に沿って分厚い土の壁が隆起した。氷の糸は土壁に突き刺さり、パキパキと凍りつかせていく。

「アスク、この壁も長くは持たんぞい!」

(……数は3。1体はクロエが抑えているが、残りの2体が交互に糸を吐いている。……『効率』を考えるなら、同時に叩くしかない!)

アスクは自身の【水魔法】を操作し、空気中の水分を蜘蛛の足元へ集中させた。

「クロエ、右の岩壁を狙え! ゆのっち、左の糸の根元だ! トッポ、壁を崩して足場を作れ!」

「了解!」

「応よぉ、やってやるぜ!」

アスクの指示が飛ぶ。

トッポが土壁を敢えて崩し、それをクロエの踏み台に変える。クロエはその反動を利用して垂直に近い岩壁を駆け上がり、右側の蜘蛛の眉間に炎の切っ先を叩き込んだ。

同時に、ユノーが斧をリコールさせながら、左側の蜘蛛が糸を生成している腹部へ肉薄し、渾身の一撃を叩き落とす。

「ギィェェェェ!」

2体の蜘蛛が崖下へと落下していく。残る1体も、クロエの猛攻に恐れをなしたか、深追いせずに岩の隙間へと逃げ延びていった。

「……ふぅ、心臓に悪いわ。あんなところで糸に引かれたら、今頃真っ逆さまよ」

クロエが剣を鞘に収め、乱れた銀髪を整える。

「アスクの旦那の索敵と、ジジイの壁のおかげだぜ。……さて、ルーク。道は開いた。さっさとこの気味の悪い崖を抜けようぜ」

ユノーが斧を担ぎ直し、空になったMPを回復させるように深く息を吐いた。

アスクは再び御者台に座り、免震核の状態を確認する。激しい戦闘の振動にも関わらず、荷台の『魔導ライト』は一つとして欠けていなかった。

「……ああ。この先、シルクアビスゲートまではさらに傾斜がきつくなる。馬車の足回りをもう一度チェックするぞ」

アスクはあえて冷徹に言い放ち、震える自分の膝を、御者台の下で強く押さえつけた。仲間を信じて預けた背中の温もりが、奈落の底から吹き上げる死の冷気を辛うじて押し返していた。





シルクアビスゲートへ続く道は、標高を上げるごとにその牙を剥き始めていた。

頬を撫でる風はもはや空気ではなく、無数の針となって肌を刺し、肺の奥まで凍てつかせる。御者台に座るアスクの視界の端では、底の見えない奈落が、白く濁ったガスを吐き出しながら静かに獲物を待っていた。

「……空気が、重いな」

アスクは【探知】で周囲を警戒し、視覚に頼らない索敵を続けていた。湿った蒸気が、岩肌の凍結具合と、そこに潜む「熱」を伝えてくる。その時、鼻腔を突いたのは、冬の冷気には不釣り合いな、野性と獣の混じった鼻を突く悪臭だった。

「来るぞ。トッポ、足場を死守しろ!」

アスクの鋭い警告が響くと同時に、頭上の岩棚から甲高い嘶きが降ってきた。

『アイシクル・アイベックス』。

峻険な崖に君臨する、氷の角を持つ巨大な雄鹿だ。奴は垂直に近い岩壁を、重力を無視した速度で駆け下りてくる。その蹄が氷を砕くたびに、「パキィン!」と鼓膜を劈くような鋭い音が静寂を切り裂いた。

「ブモォォォォ!」

眼前に迫る巨大な氷の角。それは陽光を乱反射させ、まるで巨大な水晶の槍が迫りくるような威圧感を放っている。

「……っ、デカすぎんだろ!」

ルークが悲鳴に近い声を上げ、必死に馬を御する。アスクの心臓が、早鐘のように胸を打った。

(……落ち着け。計算しろ。奴の突進速度なら、馬車の側面を粉砕するまであと三秒。……俺一人じゃ、止められない。だが――)

アスクは隣で剣を構えるクロエと、斧を握りしめるユノーの背中を視界に入れた。

「ゆのっち、左の岩棚へ跳べ! 角の軸を逸らせ! クロエ、角の付け根を狙え!」

「……信じてるぜ、アスク!」

ユノーが咆哮とともに馬車から跳躍した。【斧投げ(ホーミング・スロー)】。放たれた斧が、アイベックスの横っ面に直撃し、その強引な突進をわずかに右へと反らさせる。

「今よ!」

銀髪を烈風になびかせ、クロエが舞った。【紅蓮の剣】が、アイベックスの氷角の根元を真っ赤に熱する。

「熱ッ!? ……っ、手が……!」

クロエがポツリと漏らした。炎の熱と周囲の極低温の差で、剣を持つ彼女の手に凄まじい負荷がかかっている。だが、彼女は歯を食いしばり、刃を押し込んだ。

その衝撃で、路面の氷が一気に砕け散った。馬車が、石材を積む前だというのに、自重に耐えきれず奈落側へ大きくスライドする。

「アスク様ぁ!」

荷台でアズインが悲鳴を上げ、キューちゃんを抱きしめて伏せる。アスクの視界から、一瞬「地面」が消えた。左の車輪が、奈落の縁を虚しく空転する。

(……させるか! ここで終わって、たまるか!)

アスクは自身の【真銀の免震核】の制御レバーを、指の骨が鳴るほどの力で引き絞った。

「トッポ、馬車の『下』を崩せ! 物理的に引っ掛けるんだ!」

「……無茶苦茶言いおるわ! だが、やるしかないんじゃな! 【土の陥没アース・スナップ】!」

トッポが杖を地面に突き立てると、馬車の車輪の下の岩場が、アスクの指示通りにわずかに陥没した。ガクン、という激しい衝撃が走る。

アスクはその瞬間に合わせて、免震核の浮遊位置を逆方向に最大出力でスライドさせた。

衝撃を、打ち消す。馬車の揺れが、ピタリと止まった。

「……ユノー、リコール! クロエ、止めだ!」

「おうッ! 【引き戻し(リコール)】!」

「焼き尽くせ!」

ユノーの斧が死角を抉り、クロエの炎がアイベックスの折れた角の隙間に吸い込まれた。巨大な獣が、断末魔の叫びとともに深い奈落へと消えていく。

「……ふぅ。……死ぬかと思ったわよ、本当に」

クロエが震える手で剣を鞘に収める。その白い肌には、冷気と炎に焼かれた微かな赤みが差していた。

「……済まない。今の陥没で、馬車へのダメージがあったはずだ。……全員、無事か?」

アスクは御者台の手すりを強く握り、ようやく震えが止まった自分の手を見つめた。仲間を信じて、極限の指示を飛ばす。その覚悟の重さが、胃の奥に鉛のように残っている。

「ピィ……」

アズインの腕の中から、キューちゃんが不安げに顔を出した。

アスクはそれを確認すると、深く、長く、冬の冷たい空気を肺に吸い込んだ。

「……よし。一分で馬車を点検する。……シルクアビスゲートまで、残り数キロだ」

冷徹な言葉の裏で、アスクは自分の中に生まれた「絆」という名の不確かな熱を、否定できずにいた。




「……待て、ルーク。馬車を止めてくれ」

アイシクル・アイベックスが奈落へ消えた直後、アスクは御者台から身を乗り出した。その鋭い視線は、岩棚に引っかかり、砕け散った巨大な「氷角」の残骸に注がれている。

「どうした、アスク? さっさとこの場を離れた方がいいんじゃねえのか」

「……いや、これを回収する。『アイシクル・アイベックスの角』は、ただの角じゃない。この極寒の魔力を蓄えた氷は、高熱を抑える解熱薬や、火傷の治療薬の貴重な材料になる。ギルドに持ち込めば、今回の運搬報酬とは別に、かなりの追加利益が見込めるはずだ」

アスクは身軽に御者台から飛び降りると、砕けた角の破片を拾い集め始めた。

「おいおい、アスク。そんなデカいもん、どこに積むんだよ。荷台はもう余裕がねえぜ」

ユノーが呆れたように声をかけるが、アスクは淡々とスキルを操作した。

「俺の『アイテムボックス』に入れる。……だが、勘違いするなよ。入れ放題・・・・じゃない」

アスクが空間の歪みに角の破片を押し込むと、端末のモニターに「占有率:88%」という無機質な数字が表示された。

「……容量には厳密な限界がある。重さじゃない、『体積』と『魔力密度』の問題だ。この角のように魔力が凝縮された素材は、見た目以上に容量を圧迫する。あと数個、同じようなものを拾えば、予備の車輪すら取り出せなくなるだろうな」

「なるほど、便利だけど不便なもんなんじゃな。無限の四次元ポケットというわけにはいかんか」

トッポが長い耳を揺らしながら感心したように呟く。

「……ああ。だからこそ、何を入れ、何を捨てるかの取捨選択が『効率』に直結する。この角は、そのコストを払うだけの価値がある」

アスクは最後の一片を収納し終えると、再び御者台に飛び乗った。

「アスク様、そのツノがお薬になって、誰かを助けられるんですね」

アズインが瞳を輝かせて見上げると、アスクは一瞬だけ視線を逸らし、ぶっきらぼうに応じた。

「……結果的にはそうなる。だが、それ以上に『高く売れる』ことが重要だ。これが売れれば、次の町でアズイン、お前の防寒具を新調できるからな」

「わぁ……! ありがとうございます!」

アズインの無邪気な笑顔に、アスクは一瞬だけ表情を緩め、すぐにいつもの冷徹な運び屋の顔に戻った。

「……よし、回収完了だ。ルーク、出発してくれ。シルクアビスゲートの検問に間に合わせるぞ」

物理的な荷台だけでなく、自身の限られたストレージすらも「最適化」の対象とする。

一行を乗せた馬車は、戦利品という名の確かな利益を積み増して、いよいよ難所中の難所、シルクアビスゲートの門影を捉えようと

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