62. 旅立ちの最適解
翌朝、夜明け前の薄い闇が残るポート・マーリスの正門前。
潮風に混じって出発を待つ馬たちの嘶きが響く中、アスクとアズインはルークたちの一行と合流した。
「おはよう、アスク! 準備は万端みたいだな」
ルークが快活な声をかけながら歩み寄ってくる。その後ろでは、個性豊かな面々がそれぞれの流儀で出発の時を待っていた。
「よっしゃあ! 今日も気合入れていくぜ、アスク! オイラの斧が火を噴くのを楽しみにしてな!」
ムードメーカーのユノーが、愛用の斧を肩に担いで豪快に笑う。「狂戦士」の名に恥じぬ剥き出しの闘志を放つ巨漢の男だ。その横では、銀髪を夜風になびかせたエルフの魔法戦士、クロエが静かに剣の柄を確かめていた。
「……ゆのっち、うるさい。まだ夜明け前よ。アスク、道中の魔法防衛は任せて。魔法戦士として、馬車の死角は私がすべて潰すわ」
クロエの透き通った声には、エルフ特有の魔力と自負が宿っている。一方、荷台の最終確認をしていたのは、初老を過ぎた兎獣人のトッポだった。
「アスク、積み付けの土台に支援魔術を編み込んでおきましたよ。ワシの土魔法があれば、多少の重荷でも車軸が折れることはじゃろう。……アズイン、そっちの調子はどうじゃ?」
「ああ、トッポさん! バッチリだ!」
トッポが長い耳を揺らしながら、穏やかに微笑むと、アズインの胸元から「ピィ!」と小さな声が上がった。アズインの服の中に器用に隠れていた鳥の聖獣、キューちゃんだ。その小さな瞳は、これから始まる旅の予感に期待を込めて輝いている。
「ああ、こちらも完璧だ」
アスクが昨日新調したばかりの黒いレザーアーマーを鳴らして答えると、ルークの表情が少しだけ真剣なものに変わった。
「アスク、ルートの件なんだが……俺も昨日、酒場やギルドの知り合いから情報を洗ってみた。お前が言っていた『山嶺ルート』、確かに距離は短いが、今は避けたほうが良さそうだ」
「……山賊か?」
「ああ。ここ数日、教団の取り締まりを逃れた食い詰め者たちが、かなりの規模で山に入っているらしい。俺たち四人の戦力なら突破はできるが、荷物を守りながらの乱戦になれば、馬車を壊されるリスクが高すぎる」
アスクは一瞬、黙り込んだ。
昨日、図書館であれほど必死にシミュレーションし、孤独な焦燥の中で導き出した「最短ルート」。氷結路を克服するための魔導車輪。それらすべてが、たった一つの「生きた情報」によって効率を失ったのだ。
(……知識は常にアップデートされる。昨日までの『正解』に執着するのは、最も非効率なことだ)
心の奥底で、昨日感じた自分一人の知識の限界に対する苦い思いがチリりと痛んだ。だが、アスクはそれを一秒足らずで切り捨てた。
「わかった。プランを切り替えよう。……海沿いの本道だ。検問の渋滞はあるが、教団の目が届く分、安全は保証される」
「悪いな、せっかく調べてくれたのに。教団の検問はランクに関わらず『平等』が原則だからな。多少の足止めは覚悟してくれ」
ルークが申し訳なさそうに肩をすくめる。教団の統治下では、たとえ高ランク冒険者といえど列に並ぶのが「法」だった。
馬車に積み込まれたのは、温泉地エターナル・フロウで必要とされる三つの主要物資だ。
一つ目は「魔導ライト」。夜間の視界確保だけでなく、温泉街の街灯や浴場の明かりとして使われる必需品だ。衝撃に弱く、繊細な魔導回路を含んでいるため、運び屋としての腕が試される。
二つ目は「梅干し」。長旅や湯治客の疲労回復に欠かせない保存食。
そして三つ目が「塩」。食用はもちろん、魔除けや湯質調整にも使われる、生活の根幹を支える物資だ。
アスクは荷台の状況を確認し、空いたスペースを冷徹な目で見積もった。
「ルーク、積み荷のバランスはいい。だが、まだ少しだけ余力がある。……途中の採掘場に寄って、『石材』を積んでいくぞ」
「石材か? 結構な重さになるぞ。検問の通過も、あまり重すぎると時間がかかるかもしれないが……」
「わかっている。だが、エターナル・フロウの浴場の改修工事で石材が不足しているという情報を図書館で掴んだ。この荷馬車なら、あと数ブロックは積める。重さで速度が落ちる分は、昨日調整した免震核の車輪とオイルで、摩擦抵抗を減らして相殺する」
効率主義者のアスクにとって、荷台に空きを残したまま走るのは「損失」と同義だ。100kmの道のり、一回の往復で得られる利益を最大化する。それが彼のやり方だった。
「……はは、相変わらず抜け目ないな。わかった、途中で採掘場へ寄るルートを組もう」
ルークが呆れたように笑いながら、馬車をゆっくりと発進させた。
アスクは揺れる荷台の上で、魔導ライトが互いにぶつかり合わないよう、緩衝材の配置を再調整した。梅干しの入った樽の匂いが、わずかに潮風に混じる。
(魔導ライト、梅干し、塩……。これに石材を加えれば、今回の輸送報酬は予定の1.2倍まで跳ね上がる。……この差額が、俺がEランクへ上がるための『時間』を買う資金になる)
ポート・マーリスの街並みが遠ざかっていく。
海沿いの本道は、早くも遠くに検問を待つ列の影が見え始めていた。渋滞、山賊、そして未熟な自分。
いくつもの障害が立ち塞がる100kmの旅路を、アスクは静かに、だが確実にハックし始めた。
ポート・マーリスを出立して数時間。馬車は、凍てつく潮風が容赦なく吹き付ける海岸線の本道をひた走っていた。最初の目的地である漁港までは約15km。アスクは御者台の横で、全神経を研ぎ澄ませていた。
(……来る。ゲームのデータじゃない、この肌を刺す殺気は「本物」だ)
アスクは集中力を高め、中級スキル【探知】を発動し、周囲に展開した。
かつて画面越しに見ていたミニマップはない。霧に触れる「異物」の感触だけが、敵の存在を教える唯一のセンサーだ。
「……ッ、いたぞ! 左前方、岩陰に3。右の流氷の下に2。路面にも潜んでる!」
路面には、海水が凍りついた氷の鱗が罠のように散らばっている。『アイススケール・シーカー』。半魚人の亜種であり、この氷の鱗を身に纏い、滑るように移動する狡猾な魔物だ。そして、その後方で冷気を蓄える鈍重な『アイス・シェル・クラブ』の影だ。
「ルーク、馬車を止めるな! 速度を維持したまま突っ切るぞ!」
「おう! だがこの路面、滑って制御が利かねえぞ!」
ルークの叫びに、アスクは迷わず指示を飛ばした。
「トッポ、路面を固めろ! ユノー、左! クロエは前をこじ開けろ!」
アスクの胸の内には、名声500の自分には過ぎたる「上のランク」の仲間たちへの、畏怖にも似た信頼があった。彼らの力を100%引き出せなければ、自分もアズインも、ここで氷の餌食になる。
(……俺にできるのは、彼らが『全力を出せる環境』を維持することだけだ。……信じるぞ、仲間たちを!)
「了解じゃ! 【土波】!」
「オイラの斧に任せなッ!」
トッポが杖を突き、凍った路面を瞬時にグリップの利く乾いた土へと書き換える。その刹那、ユノーが咆哮とともに巨大な斧を投擲した。【ホーミング・スロー】。魔力を帯びた刃が、岩陰に潜んでいた半魚人2体を一撃で粉砕する。
「……MPが、ちときついな」
ユノーが【リコール】で斧を回収しつつ、荒い息をつく。連発はできない。だが、その一撃が左側の脅威を完全に沈黙させた。
「前方は私が片付けるわ。……焼き尽くせ!」
銀髪を翻したクロエが、馬車の前に立ち塞がるアイス・シェル・クラブの群れへ突っ込む。彼女の細身の剣が、一瞬にして爆炎を纏う【紅蓮の剣】へと変貌した。冷気の障壁を無理やり蒸発させ、赤く熱した刃が巨大な甲羅を叩き割る。
その激しい振動が馬車を襲う直前、アスクは荷台に設置した【真銀免震核】の調整レバーを叩いた。
(揺れを……逃がす!)
アスクが行っているのは、「荷台のバランスのリアルタイム制御」だ。免震核の浮遊位置を、馬車の揺れと逆方向に細かくスライドさせる。右に傾けば左へ、上に跳ねれば下へ。まるでシーソーの中心を素早く動かして平衝を保つように、積み荷の『魔導ライト』にかかる衝撃を、文字通り「無効化」し続ける。
「アズイン、キューちゃんを抱えて伏せていろ! ルーク、一気に加速だ!」
「いくぜぇぇ!」
クロエが切り開いた炎の光道を、馬車は矢のように駆け抜けた。鈍重なカニたちが冷気を吐き出す頃には、アスクたちはすでに射程外へと脱している。
「……ぐぎぎ、逃がしたか!」
背後で悔しげな魔物の声が響く。
魔物との遭遇戦を最小限のタイムロスと、荷台へのノーダメージで切り抜け、馬車は氷の路面を力強く踏み締めて進む。
やがて、遠くに漁火が見え始めた。
■宿場町:鈴鳴白妙亭
「鈴鳴の白妙亭」の食堂は、炭火で焼かれる脂の乗った魚の匂いと、安酒を煽る漁師たちの熱気で満たされていた。
海岸線での戦闘を終えたばかりの一行にとって、暖炉の爆ぜる音は何よりの救いだった。
「……まずは無事に15キロ、か。オイラ、腹が減って斧も持てねえよ」
ユノーが豪快に木皿の干物を突きながら、エールを喉に流し込む。狂戦士としての猛々しさはどこへやら、今はただの食いしん坊な大男の顔だ。その隣で、クロエは銀髪をかき上げ、指先に付着した魔力の残滓を丁寧に拭い取っていた。
「ユノー、食べ過ぎ。明日の朝、体が重くて動けないなんて言わせないわよ。……ねえ、アスク。さっきの索敵、あれは助かったわ。エルフの私でも、あの吹雪の中で正確な位置までは掴みきれなかった」
「……ただの確率論だ。魔力の屈折率から、敵が潜みやすいポイントを割り出したに過ぎない」
アスクは素っ気なく答えながら、手元の羊皮紙に今日の走行データを書き込んでいた。免震核の摩耗具合、馬の疲労度、そして仲間のスキル発動間隔。
「相変わらず可愛げのない奴じゃ。ワシの土魔法の硬度にも、もう少し驚いてくれても良いんじゃがのう」
トッポが長い耳を揺らし、「~じゃ」と笑いながらアズインの皿に小魚を取り分けてやる。アズインの懐からは、キューちゃんが鼻先だけを覗かせ、お裾分けを狙って「ピィ」と短く鳴いた。
「アスク様、トッポさんの魔法、すごかったんですよ! 地面が生き物みたいに動いて……」
アズインが瞳を輝かせて報告するが、アスクのペンは止まらない。ルークがその様子を見て、苦笑しながらエールのジョッキを置いた。
「アスク、少しは休めよ。俺たちがこうしてわざわざ『温泉地』を目指してるのは、物資を運ぶためだけじゃないだろう? 癒やしだよ、癒やし。エターナル・フロウの湯は、ただの風呂じゃない。戦士の傷も、運び屋の凝り固まった思考も、全部溶かしてくれる神の湯だ」
「……その『神の湯』に、これだけの物資を無傷で届ける。それが今回の契約だ。ルーク、お前たちが俺のようなFランクの指図を受けたのも、結局は効率を求めてのことだろう」
アスクが顔を上げると、ルークは少しだけ真面目な顔になった。
「最初はそうだったかもな。最短ルートを熟知し、機材の調整に長けた男がいる。……だがな、今日確信したよ。お前はただの計算機じゃない。仲間を死なせないための最短距離を、必死に探してる。だから俺たちも、お前の声に背中を預けられるんだ」
一瞬、アスクの指が止まった。
知識は鎧だと思っていた。他人を寄せ付けないための、孤独な武装。だが、この世界に来て、アズインを守ると決め、ルークたちと肩を並べてからは、その鎧にわずかな「熱」が伝わってくるのを感じている。
「……途中の採掘場に寄る。石材を追加すれば、馬車の総重量は1.5倍に跳ね上がる」
アスクは視線を羊皮紙に戻し、照れ隠しのように淡々と続けた。
「ルーク、お前の腕の見せ所だ。トッポ、路面の土壌強化を一段階上げてくれ。クロエ、追加装備の重量で魔法障壁の展開速度が落ちないか、後で確認させてくれ」
「はいはい、了解よ。鬼監督さん」
クロエが可笑しそうに肩をすくめる。
ユノーの豪快な笑い声と、アズインの無邪気な声、そしてトッポの穏やかな相槌。
外は相変わらず凍てつくような海鳴りが響いているが、白妙亭の温もりの中、アスクの頭脳はすでに「より重く、より速く、より安全な」明日の旅路へと、最適化を開始していた。




