1-8、人魚伝説⑧
「平野さん。平野さんの言う通り、次の小テストではうまくやろうと思う」
つまり、満点を避けて、そこそこの点数を取る、ということだ。
カスミはかえでの助言を受け入れたつもりなのだが、かみ合っていない。
カスミは、追試で満点を避けて、「あれはまぐれだったの」とでも言うつもりなのだろう。
逆効果だ。
かえでは、席を立つとカスミのことを無視して、職員室へと歩いていく。
傍ら、カスミが「え? え?」とかえでの背中を呆けるように見ている。
見かねた恵美子が、そっと耳打ちした。
「甲斐田さん、あの対応はまずったよ。あんなことしたら、武田先生に余計に気に入られるだけ。周りにも嫌味にしか映らないし」
「え、じゃあ、私どうしたらよかったの?」
「……次回のテストから、満点避ければよかったんだよ」
頭の固いカスミには思い至れないことだった。カスミは、あとでかえでに謝ろうと決意する。
しかし、それもまた、火に油を注ぐだけなのだと気づいていない。
カスミへのいら立ちを抑えて、かえでは職員室の武田先生の元へと足を向けた。
選択授業の次は、カスミのクラスの生物の授業があるからだ。
その準備を手伝って、気分転換をするつもりだった。
武田先生が、かえでを見つけてにこやかに手招きした。
「かえで、どうした?」
「次、生物の授業なので、荷物持ち手伝います」
「そうか? いや、今日はプリントくらいしかないし。そういえば、カスミとは仲良くやってるか?」
「……?」
「さっき、授業中になにか話してただろ? 人魚のミイラを見に行ったときは、あんまり仲良くなさげだったし……カスミ、ああ見えて引っ込み思案っていうか。友達を作ろうともしなかったから、ずっと気にはしていたんだ」
「武田先生は、甲斐田さんが特別なんですか?」
かえでの顔がみるみる赤く染まっていく。かえでといるのに、なんで、カスミの話なんかするのだろうか。
かえでの表情を見て、武田先生が困惑している。
怒っている、というよりは、悲しんでいる?
どちらにせよ、武田先生にはかえでの本心がわからなかった。わからなかったから、正直に答えた。
「まあ、少し特別だよな。校長先生も、カスミはいい大学に行ける子だから、目を掛けてやれって。それは俺も賛成。学校の実績にもなるし」
武田先生が、笑った。カスミを思い出しているのか、その頬はゆるんでいる。
もしかして、武田先生はロリコン?
かえでが武田先生のネクタイを引っ張った。
自分だって、こんなに頑張ってる。
カスミはただ、学校の実績作りのために利用されているだけだ。
「かえで?」
「武田先生。私――」
黙っていようと思った。
武田先生の私生活なんて、武田先生の自由だ。
だらしないところがあって、押しに弱くて、だからかえでは――
「甲斐田さんじゃ、武田先生の力にはなれませんよ」
「なに、を」
「甲斐田さんは成績は優秀ですけど。私、武田先生の力になりたいんです」
どどどど、武田先生の心音と、かえでの心音が重なっている。
かえではなにを言っているのか、武田先生にはわからない。
わからないが、かえでという生徒は、注意深く見ていてほしいと、中学の先生から申し送られていたはずだった。
この子の親は――
「かえで。俺も、力になるよ。そんな風に、誰かと自分を比べるな」
「……! 武田先生」
「かえでの親御さんのこと、先生も聞いてる。だから、かえで。俺は、カスミの勉強も伸ばしてやりたいし、かえでのことも、ちゃんと見てやりたい」
かえでの心が、溶かされていく。
かえでの親は、生活保護だ。
だから、訳あり。
昔はそれで、いじめられていたことがあった。
それは、この学校では恵美子しか知らないはずだ。
恵美子が武田先生に話したのだろうか。いや、恵美子はそんなことをする人間ではない。
ならば、武田先生は、本当に、心からかえでを心配して、かえでの事情を調べてくれたのだろうか。
かえでが泣き崩れる。
周りの教師がぎょっとして、だけれど武田先生は、冷静にかえでを職員室の外に連れ出して、自分の車の中にかくまった。
武田先生は、かえでを異性として見ていない。
かえでだって、それは同じだ。教師と生徒以上の関係なんて、望んでいない。
だからだ、だから。
武田先生はなんららためらうことなく、かえでの頭を撫でてくれた。落ち着く。
「少しずつでいい。かえでの悩み、俺でよければ聞いてやるから」
「武田先生。じゃあ、私――」
かえでは生まれて初めて、自分の悩みを他者に話した。
その日の放課後、カスミは恐る恐る部室に足を踏み入れた。まだ、かえでは怒っているだろうか。
がら、とドアを開けて畳張りの部室に入ると、鼻歌交じりにかえでがカスミに絡みついてきた。
「え、え?」
「甲斐田さん、来たんだ。さっきはごめんね。急いでたから」
無視したことを謝っているらしかった。カスミは拍子抜けして、佐奈と理沙は「なになに?」とふたりの傍に歩み寄る。
かえでが「ふたりだけの秘密」と笑った。
かえでは、優しい雰囲気の女の子だ。
ポニーテールがよく似合う。
運動は抜群だと聞くし、恵美子のことをなによりも大事に思っている。
親友も親友、恵美子とかえでは、いつも一緒にいてトイレにだってついていく。
そのかえでが、今日は恵美子ではなくカスミにつきっきりで、怪奇現象への見解を話し合っていた。
「工事現場の生霊。これさ、生霊って、単なる思い込みだと思うの」
カスミももう、すっかり元の調子を取り戻していて、かえでもまた、生霊に否定的なカスミに賛同した。
隣に座り、かえでの手はいまだ、カスミに繋がれていた。
「私は、生霊ほど怖いものはないと思うな」
そう反論したのは、恵美子である。
恵美子は理数の人間ではないが、かえでの付き合いで選択科目も理数になった。
どちらかと言わずとも文系な恵美子は、
「源氏物語でも、生霊で死んだ人が出てくるんだもの。昔から、生霊っていうのは存在したんだと思う」
「え、怖い。なにそれ」
理沙はいつもの調子で恐怖して、佐奈はスマホで生霊について調べている。
生霊とは、生きた人間の念である。
たまに、人間の中にも霊力の強いものがいて、そういう人間の念は、生霊として他者を苦しめることがあるのだそうだ。
しかし、その生霊がなぜ、工事現場に出るのだろうか。
工事現場で働いている人が呪われている?
「倉さん。源氏物語も、しょせんは架空の物語だよ。昔の人も、暗闇に幽霊を作り出した、つまり生霊のせいだと思いたかっただけなんだよ。それとも」
カスミのいいたいところはかえでにもわかったらしく、「呪われていると知ってしまったゆえに、自ら呪いに殺されたんだよ。思い込みで死ぬ時代だったのかもね」
「ロマンがないなあ。じゃあ、今日はその、生霊の出る工事現場、行ってみない?」
恵美子が珍しく乗り気である。
今日はやけにかえでがカスミにべったりで、少しだけ気に入らない。
……かえでは別に、恵美子だけの友達ではないのはわかっている。
わかっているけれど、恵美子もまた、かえでのことを特別な友人だと思っていたらしい。




