1-6、人魚伝説⑥
最悪の授業を終えて、昼休みに入る。
カエルの肉を切り裂く感触が生々しく手に残り、カスミは昼食どころではなかった。
だからか、武田先生がカスミを呼び止めて、実験の後片付けをさせられている。
重いものは武田先生が持つから、カスミの役割なんてほとんどないに等しい。
なのに武田先生は、カスミを呼び止めた。
ほかに用事でもあるのだろうか。
「はは、カエルの解剖はみんな嫌いだからな。ひとりは必ず倒れるし、午前中にやらないと、吐き戻す生徒も多いから」
「そうなんですね。私はもう、グロッキーでお昼食べられそうにありません」
先ほど、カスミは母に、事情を連絡した。『解剖実験のせいでお弁当食べられないから、夜ご飯は作らなくていいよ。お弁当食べるから』
母からは、かわいらしいスタンプが送られてくるだけだった。母も通った道なのだろう。
しかし、カエルの解剖をしない学校も、昨今は増えてきているとか。
どちらにせよ、カスミも本心は解剖に興味がある。
理数の人間なのだから、体の仕組みを生で見ておいて損はないだろう。
「ほら、これ」
あらかた片づけを終えて、水道で手を洗っていると、武田先生が栄養補給のゼリーを渡してくる。
よくある、エネルギーチャージのゼリー飲料だ。アップル味、と書いてある。
遮光のパウチが結露で湿っている。冷蔵庫からわざわざとってきたばかりなのだろう。
「え?」
「食べないと、午後の授業頭回らないだろ。これなら入ると思って」
確かに、ゼリーならば食べられそうだ。
カスミはそれを開けて、口をつける。りんごの味が口に広がって、ぢゅっと一気に飲み干した。
干からびた心が潤うようだった。
カエルの目は、忘れられそうにないけれど。
「は、あれ。これなら食べられますね」
「だろ? 先生もさ。実は学生時代は解剖とか、標本とか苦手で。そういう時はいつも、ゼリーを食べてた」
「へえ、先生も昔はダメなものあったんですね」
「まあな。昔って言っても、まだ七年前、か……?」
武田先生は今年二十四歳になる若い先生だ。
だが、七年前といったらカスミはまだ八歳で、やはり歳の差を感じさせた。
童顔だからか、余計に親近感がわく。
武田先生は、眼鏡を外したらイケメンらしい。
もともとはコンタクトをしていたらしいが、いつからか眼鏡に変えたのだそうだ。
「武田先生って、教師のかがみですよね」
「なんだそれ、言われたこともなかったよ」
楽し気に話し込む。
今は昼休み。
理科室のカーテンが風に揺れている。
先ほどまで、カエルを解剖していた陰鬱な雰囲気は残っていない。
「武田センセ、こんにちはー」
「ん、ああ。かえでか!」
平和なそこに顔を出したのは、かえでである。
かえでは先客――カスミを見るや、嫌そうに顔をゆがめてこちらに歩いてくる。
下履きのかかとを踏みつぶして、かえでが武田先生の隣に陣取った。
わざとカスミと武田先生の間に割って入って、これ見よがしに武田先生との距離を詰めた。
「なんかこの部屋、臭いですね」
「ああ、さっき解剖の実験してたんだ。かえでは?」
「私、さっきまで家庭科の授業で。クッキー焼いたので持ってきました」
「いいね。甲斐田は食べられないみたいだから、俺だけでもいただこうかな」
「甲斐田さんには持って来てないので。これ、見てください。可愛くできたんですよ」
かえでは、カスミと武田先生の間で、クッキーの包みを武田先生に渡した。
武田がかえでからクッキーの包みを受け取ると、一瞬の迷いを見せたあと、それを口に入れた。
飲み込むと、喉仏が上下する。
心なしか、嚥下が遅い。
武田先生もまた、解剖の後だから食欲がないのだろう。
だとしたら、先ほどカスミにくれたゼリーは、もしかすると武田先生が自分用に買ってきたものをわざわざくれたのかもしれない。
申し訳なくなってカスミが縮こまる。
「あ、私行きますね」
「ああ。甲斐田。準備手伝ってくれてありがとう」
「いえ」
カスミはその足で、同じ階にある購買に足を向けた。
購買でゼリー飲料を買って、しかしカスミの足が止まった。
ゼリー飲料を武田先生に返そうと思って理科室に向かったのだが、まだかえではいるらしい。
話し込んでいるらしく、しかも、その話題はカスミのことだった。
「ええ、怪奇クラブでそんなことが?」
「そうなんです。甲斐田さんったら、いつも科学の本を読んで。いや、生物とか化学かな? 頭でっかちって言うか。こっちは幽霊っていうロマンを探しているのに、なんでもかんでも否定するんです。今日行く人面犬も、ただの見間違いだって」
かえでだって、否定していたくせに。
なんでカスミを落とすような言い方をするのだろうか。
かえでも負けず劣らずリアリストなのに。
「でも、俺も人面犬は嘘だと思うな」
「ええ、そうです? じゃあ、写真撮ってくるのでそれで判断してくださいね」
「わかったわかった。あ、そういえば、カスミ、この前の小テストで満点取って。本当によくできた生徒だよなあ」
「せんせ、ひいきよくない」
ぶう、とカスミが頬を膨らませる。その瞳はとろけそうに熱くて、カスミは理科室に入ることをためらった。
足が動かない。後ろからは、いまだかえでと武田先生の朗らかな笑い声が聞こえる。
かえでは武田先生を――
「ほら、かえではところどころ雑だよな。このクッキー運んでくるのだって、走ったから崩れてるのあるし」
一緒にクッキーを食べるかえでの口元に、食べかすがついている。
それを、武田先生がハンカチで拭った。
それは単なる先生と生徒の仲睦まじい関係のはずなのに、どこか勘ぐってしまう自分がいる。
カスミは踵を返す。
べつに、ゼリー飲料なんて渡さなくとも、武田先生は普通にご飯を食べられるだろう。
このあと、かえでと一緒に購買なりに行って、お弁当を食べるのだろう。
ゼリー飲料は、明日渡せばいい。
もらったものはきちんと返さねば。
「カスミったら、人面犬について調べてて、こんな絵を描いたんだよ」
「ええ、甲斐田は理数の点数いいのに、絵のセンスは独特なんだな!」
先日、怪奇クラブの活動中に、たしかにカスミは人面犬の絵を描いた。
人面犬は、おじさんの顔でしゃべり、去るのだという。
あれはあの場のノリだろうに、それをわざわざ写真に収めて、きっとかえではカスミの株を落とすのに必死なのだ。
いや。疑うのはよくない。
かえでがカスミを嫌っているからって、カスミがかえでを嫌う理由なんてない。
ないのだから、疑うことも、邪険にすることも、すべきではないし、する必要もない。




